小津漬の味3 『秋日和』あるいは君の名は

原節子・司葉子の母娘二人がとんかつ屋「若松」で食事をする。
 母「ああ、お腹いっぱい」
 娘「ビール残ってるじゃない」
 母「勿体ない、飲んじゃおか」
というシーンがある。瓶から残りをコップに注ぐと、実はほとんどなかったという落ちがつくのだが、ここで注目すべきは、この二人はそろって、なんと、大量のサラダを残したままなのだ。ビールを残すことは勿体なくて、サラダを残すのは勿体なくないのか、この母娘は!
 しかもこのサラダ、二人の分ともに、食べ散らかした後というより、きれいに盛り付けたままの感じで、赤いトマト片、緑のもの(ブロッコリか、パセリか)、白いポテトサラダ?(あるいは白っぽい緑という感じなので、千切りキャベツか)、と色もきちんと計算されたように置かれている。小津ギャグ世界においては、女もとんかつとビールをしっかりお腹に収めて、サラダには手をつけない。
 小津的にはサラダの色とりどりのヴィジュアルが欲しかったのだろう。特に赤いトマト片が目立ち、まるで吉田輝雄と佐田啓二のとんかつ屋場面(『秋刀魚の味』)のビール瓶のごとく、赤いトマトがショットごとに移動するのだ(女優の顔を交互に写すと各自それぞれのサラダも写るので、画面上ではあたかもサラダの彩りが動いているような効果を見せる)。サラダは食わないが、人を食うのが小津式か。
 ただしこのサラダは常に画面の底辺に位置し、当然ピントは女優の顔に合わせているのでサラダへのピントぼけており、なおかつ非常に地味であるので、映画館で何回か見たときは全く気づかず、最近DVDで見たときに始めて目に留まったもの。映画館では当然二人の女優の顔を中心に見ているので、気づくわけがない。小津がどういうつもりでやっているのか。意味がないものだと思う。DVDの小さな、フラットな画面を見ていてこそ、気がついた(のち、新文芸坐での小津特集の際、大画面で確認した)。
◎追記◎次の予告編クリップの1分09秒あたりの司葉子のテーブルに、証拠のサラダが鮮明に写っている。このブログのまま、見るとたぶん、見づらいが、ユーチューブに飛んで、静止画像にすると、とんかつは食べて空になっているのに、サラダのみ残っているのが、わかる(笑)。
ただし、この予告編に使われたショットは、おそらくNGショットの流用であり、実際に本編に使われたショットとは、まるで違う。本編では、もっと地味。当時の日本映画の予告編は、OKショットではなく、NGショットの流用が多かった。経済的節約か、あるいはもったいない精神か。

推測するに、たぶん食後を表すのに、皿が完全に空であるより、肝心のとんかつのみが消えていたほうが、より「から」「食事の後」感が出るだろうということか。「完全な無」では、むしろ「無」感が、出ないという?
 しかし、繰り返すが、観客は主に原節子や司葉子を見ているので、皿を見るものはいないと思うが(笑)。

この母娘の名前は、原節が「秋子」、司が「アヤ子」。あやや。
 「アヤ」というのは小津世界においては伝統的に?「ヒロイン原節子の仲のいい親友」の名前ではなかったか。ヒロイン原節の結婚についてアドヴィスする役目(『晩春』『麦秋』)。
 タイトルが「秋日和」、原節が「秋子」。ここからは、根拠なしの推測になるが(いつも、そうか?)、小津的初期設定では秋子がメインのヒロインだったのではないか。
 秋子を再婚させる話。そうなれば『晩春』『麦秋』と原節嫁入り三部作となる。その挫折した痕跡が司の役名に残った、と見るべきだろう。
 なぜ挫折したのか(断言)。
 仮説1。司の相手が佐田啓「二」。原節の(とりあえずの)相手が北竜「二」。一本の映画に、「二」枚目の「二」は「二」人は要らない、ということなのか。われわれはこれを専門用語で、後期小津の常連俳優の名を取って、須賀不「二」男の法則という。
 仮説2。北竜「二」は、おちょくったほうが面白いいじり易いキャラだから、原節と結ばれては面白くない。で、はい失格。そのときの小津の「こいつはいつもの奥の手で」は、真の結婚相手を一瞬たりとも写さないことだ。しかし司の相手の佐田をバリバリ写して、原節の相手を一切写さないというのも釣り合いが取れない。
 仮説3。北竜「二」の顔は口髭もあって「ちょいと」安「二」郎に似ている。杉村春子(『晩春』)なら絶対「ちょいと似てる」というくらい似てる(「こっから上は違うけど」)。なんせ、『秋刀魚の味』では、笠智衆が岸田今日子を亡妻に似ていると言うそばから、「そりゃあ、よく見れば全然似てないがにぃ」。全然似てないのを似ていると言うのが小津映画の、似ていると言うレヴェルだから、北竜「二」は、なんとしたって小津安「二」郎に「ちょいと」似ている。当ブログは極端な面倒くさがりだから、北竜「二」と小津安「二」郎の顔写真をならべるようなことはしないが、ぜひ見比べていただきたい。くりそつである。
 安「二」郎似の俳優と原節を結婚させるというのは、いくら小津でも面映い。面映いけど面白い。で、当時小津と原節子が噂になっているよ、という自虐ギャグで北竜「二」を登用。お約束で振られてみましたの図。
 仮説4。ひとり娘のあるやもめの再婚は小津的に、やっぱり「不潔」だから。
 かくて「アヤ子」の「アヤ」役・岡田茉莉子が、原因か結果は知らず、強調されることになるのだ。「アヤ子」が「アヤ」の役を果たせないのだから。果たせないどころか、原節の結婚話に感情的に反発して、アトヴァイス役ですらなくなるのだから。
 いやいや、冗談じゃなしに、仮説3の、振られてみましたギャグをやりたいための小津的冗談が『秋日和』だったのかも。
 一般には笠智衆が小津安二郎の分身的存在だとする説も根強いが、ヴィジュアル的には北竜「二」こそ「ちょいと」ふさわしいと思う。しかも『秋日和』『秋刀魚の味』の道化めいた役回りは、「ちょいと」似ているだけに、明らかに自虐ギャグの様相を呈しているわけだろう。 

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:03 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味4 『麦秋』問題、あるいは兄とその妹


 一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

 『晩春』で、一人娘を抱えたやもめ男の再婚をさんざん「不潔」呼ばわりした挙句、二年後の『麦秋』で、自らさっさと一人娘を持つやもめ男の後妻に納まる紀子の、言行不一致は、とても同一作者による同一女優の「同一人物」とも思えない仕儀である。ここまで逆だと、立派にギャグだと思う。
 もっとも佐分利信も矛盾の総和が人生だというくらいだから(『彼岸花』)何の不思議もないのだが、つまり明らかに『麦秋』は『晩春』の、すべてにおいて逆張りなのだろう。 『晩春』というタイトルは、季節の一時期とともに、「オールドミス」であるヒロインの状況を示すものとされるが、原作が広津和郎「父と娘」であることを考えれば、「晩」が老父を「春」が娘をも指す、ある種の言いかえと見ることもできる。
 小津映画を親父ギャグ的視点から読み返すこと。
 で、あるならば『晩春』の二年後に同じ女優による同じ役名のヒロインで、同様に結婚問題を扱う『麦秋』の発音が、
 ばんしゅん
 ばくしゅう
と酷似しているのも、ほとんど駄洒落の域に達していよう。
 『晩春』では父ひとり娘ひとりの紀子が描かれ、その親子関係は聖性を帯び、いやむしろ何がしかの妖しささえ漂わせていた。では今度はその聖性を剥ぎ取った紀子ではどうか。
 と小津は考える。かくて『麦秋』では『晩春』と真逆の、大家族が紀子に与えられた。父親には俗臭芬々たる菅井一郎が選ばれた。菅井ではさすがの紀子も「萌え」ないだろう。駄目押しに、父には伴侶・東山千栄子(これ以上ないほど俗な重量感)、老後を穏やかに過ごせるまほろば・大和も付け合わされ、至れり尽くせりといえる。
 もう「私が嫁げば、父は・・・・」などと心配することはできない。さらに『晩春』の聖なる父・笠智衆には、今度は俗なる兄の役割を付す。たぶん紀子は死んだ次兄ほどにはこの長兄を好きではない(なぜ笠智衆が「兄」であるかについては、実はちゃんと理由がある)。
 こういう実験条件では、紀子は、やはり父にはまったく配慮を示さず、さっさと嫁に行く。彼女の給料の一部が家に入らないと、なぜか両親は田舎に引っ込まなければならないと話されるにもかかわらず(この設定、彼女が両親二人分の生活費を支える、というのはいささかおかしいように思われる。900円もするケーキを買ってる場合ではないと)。
 そして『晩春』では三島雅夫の、ひいては笠智衆の再婚を、あれだけ「不潔」と言い切っていた紀子は、さっさと、何のためらいもなく、こぶつき二本柳寛の後妻に収まってしまうだろう。この違いよう。この、冗談ともいうべき不誠実。紀子さん、そりゃないよ、三島雅夫に悪いと思わないのか?
 常に同じような役者が同じような役回りを繰り返し演じ続けるのが小津映画だとされる。確かにそうなのだが、その中にあって原節のみは、きわめて特殊だといわざるを得ないのも事実だ。『晩春』の光り輝く娘から、戦争未亡人へ、そして『秋日和』の笠智衆的役回りの母親へ。
 原節子を除く、杉村春子、戦前からの三宅邦子などなどが、ほぼ差異を感じさせない役回りを延々と演じている中に、原節子だけが「なまもの」みたいだ。
 特に三宅邦子なんて、1930年代から1960年代まで、毎度毎度、いつもの、家庭婦人だ。小津以外の映画でも、妻でもない、母でもない、女でもない、家庭婦人としか言いようがない役柄を終始一貫して演じ続けた。若い頃は、娘役などもあったのだが、とても似合ったとは思えない。はたちの娘を演じたときも、あの落ち着いた言い回し、態度だったのだ。驚異の冷凍食品女優。いつ食べても同じ味。
 ほぼ、不動であるかのような小津映画の俳優たちにあって、原節子だけがいろいろなシチュエーションを楽しまれてる、気がする。プレイとして、遊ばれている、気がする。
 いや実は戦前大アイドルの田中絹代も、いっとき『風の中の牝鶏』で文字通り「墜とされる」のだが、それ以降は『宗方姉妹』『彼岸花』と、きわめてまっとうな存在に収まっている。原節子だけが、たいへんに怪しい扱いをされているように思える。
 気のせいだろうか。
 しばしば同じ話、と見られることもあるが、つまり明らかに『麦秋』は『晩春』の、すべてにおいて逆張りなのだ。 結婚相手は親に勧められるままから、一応親に無断で自分で決める。相手も親が望んだ相手から、親が失望・落胆する相手へ。この『麦秋』化は、どういった方向を目指しているかというと、おそらくは『晩春』よりは、より娘の側に寄り添っていると思う。もちろんそれは当然小津なりのレヴェルでということだが。
 戦前はボーイズものや(大学生だったり小学生だったり)やもめ男ものなどであり、晩年は完全にオヤジ映画になってしまう小津映画にあって、『麦秋』は、いちばんフェミニンな映画になるのではないか。
 兄嫁と台所でお釣りのやり取りをしているところなど、兄嫁が三宅邦子であることもあって、まるで島津保次郎『兄とその妹』そっくりだし、最後海岸でこの映画の締めとも言うべき会話をするのもこの二人であり、この二人と二本柳のケーキのシーンこそ、小津映画でも、もっとも幸福感あふれるシーンのひとつであろう(この「原節子が買ってきたケーキを大人だけで食べる」シーンは成瀬の印象にも残ったのか、小津大意識大会『娘・妻・母』で再現されている)。
 また、『麦秋』は料亭の描写がとても面白い。女将・高橋とよの娘・淡島千景の私室がメインになっており、ここにその友人たち原節子・井川邦子が集う。本来、男の社交場である料亭に、一人ぽつねんとしているのは逆に客のほうの佐野周二。
 挨拶に来る原節子と佐野周二の会話はその内容とも素人くさいもので、おそらく料亭の使い方としては日本映画史上もっともへんてこりんなものだろう。後年の親父映画の小津としても、かなり女性寄りの描写と思う。
 もっとも親父映画にあっても小津はあまり料亭を使わない。基本的に小津の親父たちは、映画の中では、いわゆる接待をしない。仕事がらみの呑みをしないのだ。芸者もあんまり出てこない(ぼくの記憶に残る芸者遊びは、それこそ桑野通子の『淑女は何を忘れたか』のみだし。他にあるのだろうか?)。そのへんが東宝サラリーマン物と決定的に違うところ。接待ばかりの東宝サラリーマン物と、あまり接待しない松竹/小津サラリーマン物の差異も、比べてみれば結構面白いのかもしれない。高度成長期に東宝サラリーマン物がヒットし、松竹のそれが冴えないのも、むべなるかな?
 小津映画では、もっぱら自分の楽しみのために飲む。あるいは同窓会の相談のために飲み、そして同窓会そのもので飲む。ほかの映画では良くある飲み、上司と部下の組み合わせというのも、『彼岸花』の佐分利と貞二のものくらいか(元上官と部下の『秋刀魚の味』の笠と加東というのもあるが)。男と女にいたっては、コーヒーかラーメンかうなぎ屋かくらいの健全派(例外はもちろん『早春』)。飲み会から見た小津の男たちはとうとう、ボーイズ(学生)の延長に終始している。
 酒場に仕事を持ち込まない。女の接客も要らない(小津映画のバーのホステスたちは、客を相手にせず、されず。たいていはかなり暇そうななまま、接客をしない)。基本的に酒そのものが好きなのだろう。もっとも、つまみは、高橋とよへの冗談だったり、いかに娘たちを嫁がせるかだったり、いかに北竜二をからかうかだったりする。
 その他、恒例の友人・アヤと仲間たちのシーンもある。仲間たち三人が紀子のうちに集まるシーンは、結局二人が不参加でさびしいシーンなのだが、同時に子供たちが一階に大勢集まることで、その寂しさを補っている、絶妙の構成だ。さびしいのににぎやか。
 『晩春』に比べて、この映画では親というものはそれほど重要ではないように思える。
 長兄・笠智衆、仲のよかった不在の次兄、次兄の同級生・二本柳、これら「兄」たちと、その妹・原節の関係は、さいご二本柳一家と、その「妹」世代の原節が、ともに異郷の地に旅立つことを考えれば、まるで『兄とその妹』だ。監督脚本・島津のこの傑作を小津は評価している。『兄とその妹』は中国東北部の満州に旅立ち、『麦秋』は日本の東北部の秋田に赴く。しかも、二本の映画とも、その赴任を働きかけるのが、笠智衆なのだ! 笠は『麦秋』ではヒロインの兄、『兄とその妹』では、兄・佐分利の同窓生、つまりヒロインにとっては兄世代に当たる役回りだ。
 そういえば『兄とその妹』の、佐分利の役名は間宮敬介、その妻・三宅邦子の名はあき子。この三つの名前は奇妙に小津的でもある。あるいは松竹的な名前なのか。もちろん、『麦秋』の原節子一家は間宮姓であった。ちなみに「兄とその弟」ともいうべき映画が『間宮兄弟』(森田芳光)というのはたぶん偶然なのであろう。
 さらに『麦秋』の原節子が重役・佐野周二の秘書であり、オフィスで英文タイプを打つシーンは、『兄とその妹』の桑野通子が原節に先行する原型的女優であるだけに、直接的な引用とすら思わせる。
そうであれば、前述した原節子が同窓生を家に呼ぶシーンは、『兄とその妹』で桑野通子が同窓の友を呼んで催す誕生会からの変奏とも思えてくる。坂本武と佐分利の将棋も、宮口精二と笠の碁に変化している(本来の小津映画の親父たちならすかさず酒席になるところを、しらふで禁欲的に碁を打つなど、これは『兄とその妹』へのあからさまな目配せとしか思われない)。
 そして、佐野周二だ。佐野と秘書・原節子のオフィスは、もっぱらその共通の友人・淡島との気の置けない会話のみで成り立っている不思議なオフィスだ。淡島とのセクハラな会話も、佐野の豪快さで救われている(?)。ただし原節にはセツハラ、もとい、セクハラはないような?
佐野もこの映画的には原節子の「兄たち」のひとりであるかのようだ。美人の秘書にちょっかいを出そうとせず、むしろ友人との話を進めたりする。まあ、振られたら振られたで、友人をからかう材料になるわけだろうし。のちの小津的親父たちの先駆けとも言えるし、戦前松竹映画のモダンさを残したともいえる、小津ならではの不思議な親父キャラだ。
かくて島津保次郎の傑作『兄とその妹』は、いささかのひねりを加えて、小津安二郎の傑作『麦秋』に再生するわけだろう。ここまで品よく繊細に援用すれば、島津も文句のつけようもないはずだ。お見事。
 ま、もっとも、文句をつけようにも、『麦秋』時点で島津はすでに亡くなってはいるのだが。死人に愚痴なし。大体、映画館で島津保次郎のクレジットを見た小津家の者たちは、小津安二郎のペンネームと勘違いしたというエピソードも残っているくらいだ。パクっても文句は言えまい、と小津が考えたのも無理はない。









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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:01 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味5『早春』あるいは金魚の味 池部良淡島千景岸恵子高橋貞二山本和子

 池部良の通勤仲間・岸恵子が「金魚」と呼ばれるのは、目玉が大きくて、煮ても焼いても喰えないズベ公だからだという。
e0178641_1941184.png 目玉の大きさなら同じ仲間の山本和子のほうがかなり大きいと思うが、問題は煮ても焼いても喰えないという、加熱効果の否定にあるのではないだろうか。もっとも煮ても焼いても喰えないはずの金魚を喰ってしまう池部良のほうにも、問題があるのだが。
 池部良が岸恵子と浮気したり、「ちょいちょい帰りが遅くなる」のはなぜか。間違いなく妻・淡島千景が怖いからであろう。
 映画冒頭の寝姿からして淡島は怖い。普通ひとの寝姿というものは映画では横から写されることが多いのだが、この映画ではなぜか足元のほうから写される。かなり異常な姿形だ。池部も病気の友・増田順二も足元から写されるのに、そんなに怖くない。淡島だけが断然怖い。カットが変わって、横から写しても、淡島の寝顔だけが怖い。そのそばに添い寝するかのような池部が胎児のごとく身体を丸めて寝ているのに、淡島の寝顔のみが、凶暴なまでに、怖い。
 寝ていてさえ怖い淡島は、起きるとこれまた怖い。池部を起こすときも怖い。浮気という弱みのある池部を攻めるときも怖い。弱みがなくても攻める、これも怖い。画面中央にバストショットで単体の人物が正面を向いて写る、あの小津特有のショットの中でも、淡島は怖い。怖さが増幅していく感じだ。これでは金魚を食べたり「ちょいちょい帰りが遅くなる」のも道理だ。池部、悪くない、ぼくが許す。
e0178641_1973710.jpg 同じ仲間の高橋貞二の奥さんは「今日から早番」などというところを見ると、水商売関係なのだろうか。だとすれば貞二は日本石油に勤めているので、まさに水と油の夫婦なのだが(小津的には絶対奥さんは水商売でなきゃならんでしょ)、奥さんがいつもは遅番が多い?とすれば、会社から定時に帰る貞二は、家に帰っても奥さんがいないことが多いだろう。そういう貞二が仲間たちとアパートで麻雀をするのはわかる。しかし専業主婦の淡島を家に置いて、仲間のアパートに麻雀をしにいく池部は、明らかに淡島より仲間たちのほうを好ましいと思っているのだ。

 映画の始まりで、明け方近く、夫婦は蒲田の家でガラス戸を開けて寝ている。映画の最後、岡山県三石の事務所では座って事務を執っているだけで汗をかくほどだ。映画の季節は終始、暑い夏で、男は半そで、開襟シャツ、女はノースリーブ、浴衣が多い。なのになぜ『早春』というタイトルなのか。正しいとすれば『盛夏』ではないのか。
 かくも映画の季節とタイトルが乖離していて、いわば題名に偽りありなのに、なぜ誰も突っ込まないのだろう。しょうがないから、不肖わたくしが突っ込む。誤爆だろうけど。
 ここで食べ物が問題になってくるだろう。
 映画に登場する食べ物は、淡島の実家のおでんだったり、客同士が自ら鉄板で焼くお好み焼きだったり、ラーメン屋で(おそらくラーメンの後に)中華まんだったり、狭いアパートで大勢がすし詰めになって食べる湯気を立てたうどんだったり、何もわざわざ、夜に戸を開けて寝るような夏に食べるよりは、冬にふさわしいものばかりだ。小津の食の季節感はどうなっているの、というくらいのものである。
 さらに、小津ギャク的には、ミルクスタンドで食するホットドッグもあり、みんな湯気が出ているホットな食べ物ばかりだ。本当に夏なのか。夏の熱気を、熱のある冬向きの食べ物をもって制しているのではないか。
 アパートの麻雀・うどんシーンで部屋に、すごく目立つ三ヶ月カレンダーが掛けてある、これが4・5・6月のもの。単なる独身ものの更新忘れというのはたやすいが、タイトルと同様、夏の熱気のクールダウンを狙って意図的にそうしていると見たほうが良いのではないか。
 小津ギャグ的避暑。
 冬と春の季節アイテムを混在させることによる、熱さまし。 
 みんなが涼しげな服を着て、汗を拭いている者も多い夏の映画なのに(しかし汗をかいているものは絶無である)なぜ夏らしからぬ描写が散見されるのか。偽りの夏の映画
 夏真っ盛りの季節にあっても、主人公・池部良の心は早春ほどにも冷えている、ということなのだろうか。いや、まだ真冬なのだが、かろうじて、つかの間の情事と友との交流によって、早春程度にはあったまっている、ということか。
 あるいは。
 淡島千景は怖い。怖いは怪談映画。怪談は夏に限る。ということで、映画は「構造上」夏でなければならぬ。しかし、小津は夏の描写が苦手だ。みんながこざっぱりした白い服ばかり着ているのは良い。しかしヒートアップは困る。黒沢お得意の汗ぎらぎらで、手ぬぐいでごしごし顔をこする開襟シャツの三船敏郎なんて図は、もっとも小津が忌避するところだ。かくて夏を裏切る描写が続く、と。
 あるいは、淡島千景は怖い。怖いは怪談映画。その怖さが熱を奪う、と。煮ても焼いても喰えないのは、実は淡島千景のほうだったのだ。夕暮れ時、手にうちわ、浴衣で静かにたたずむ淡島、あれは怪談描写ふうだよね。
 ラスト、三石に独居する池部良の元に、淡島が来る。仲間たちと一緒のときはあれだけ笑顔を振りまく池部が、妻がやっと来ても、笑顔一つ見せるどころか、ほっとすることさえない。むしろその無表情は、困惑、あきらめ、といったところか。「会社から帰っても、家にいて本ばかり読んでいたそうね。変わったのね」と喜ぶ淡島。家にいるのは、おめーが家にいねーからだよ。
 窓の外を汽車が通る。「あれに乗れば明日は東京ね」、そのとき池部は淡島をちらりと見る。一緒に帰りたい、という目ではなく、お前がひとりで帰れよ、というような目で。
 「女は三界に家なしだよ」という諦念の母の元に育った、勝ち気な娘はその母を反面教師として夫に睨みを利かせる。かくて、池部は三石に家なし、か。「耐火」煉瓦の会社から帰ると、家には「耐火」煉瓦みたいなカミさんで。こわいなあ。「ぞうっ」として「シュン」とするわけですよ(三島雅夫の口調でね)。
 小津安「二」郎映画では、「二」階が「娘たちの聖域」として特権化されていた、ということになっているが、この『早春』ではそうはいかない。「二」階に泊まるのが、笠智衆、加東大介と三井弘次、そして淡島とけんかした池部良、すべて男たちの仮の宿となっているからだ。
 通常の安「二」郎映画では、聖域と化した「二」階の住人にネグレクトされるのは、笠智衆などの父親だが、ここではヒロインが拒まれているのだ。
 淡島は「二」階には顔を出す程度で、台所と夫婦の寝室がある一階が彼女の領域である。で、あるから、三石に行って、間借りした「二」階の池部の「仮の宿」に淡島が入っていくことの不幸性というのが直ちに了解されよう。淡島は「二」階に家なし、なのである。
 三石に家なしの池部と、二階に家なしの淡島、なんと不幸そのもののラストシーンではないか。

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:58 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(8) | Comments(0)

小津漬の味6 『秋刀魚の味』あるいは、それを言っちゃあお仕舞いよ

 結果的に小津安二郎最後の作品となった『秋刀魚の味』だが、個人的には岩下志麻がヒロイン、てのがどうも。かわいいのだが、あの、小津独特の正面向いたバストショットでは、彼女のきつさが強調されて、『早春』の淡島千景に匹敵する。
e0178641_20251390.jpg このショットで、彼女が口を機械的に開け閉めして科白言ってるのが、魚が口パクパクしてるみたいに見えてしまう。そういう演技を強いたのは、あくまで小津の演出だったのだが。
 第一、このヒロイン・路子には親友の「アヤ」役がいない。友達いない(出てこない)ヒロインてのも小津としては異色である。異色というより唯一かも。吉田輝雄と一緒に帰りたくて「友達と約束あるの」というけれど。
小津も、きりっとした彼女にあて書きすると、このキャラクターには友達は必要ないと判断したのだろう。
 ほっそりとした姿形の彼女が秋刀魚なんじゃないかしら。
 いや。
 元教師東野英治郎が言うように「魚偏に豊か」がハモ(鱧)なら、その逆、「魚偏に弱い」ならイワシ(鰯)タシマかなー。吉田輝雄(役名・三浦「豊」)と結ばれないのも、イワシ(鰯)はハモ(鱧)ではないので「豊」をくわえ込めないからなのだ、小津的には。
e0178641_20291994.jpg 『秋刀魚の味』実は、鰯の味。鰯じゃタイトル弱いからなあ。それに岩下に「弱」の字は似合わない。
 それを言わしちゃあ(岩下)お志麻い、もとい、お仕舞いよ。

 しかし『秋刀魚の味』冒頭いきなり、ずっこけた。
 女事務員・浅芽しのぶが24になるのに未婚の理由が「父一人娘一人ですから」と聞いて、上司の笠智衆は、こともなげに「じゃあ、いずれはお婿さんだにぃ」というのだ! よりによって、誰あろう笠智衆その人が。
 こともなげに。
 えーーーーーーーー。そんなに簡単に解決できるなら『晩春』『秋刀魚の味』のヒロイン(およびラーメン屋の娘杉村春子)や、『秋日和』の母娘は、あれほど悩む必要ないじゃん! なによこの能天気は。女事務員は笠のその簡単な解決法を聞いて、さびしく微笑むのだが、C調過ぎるぞ笠智衆。それを言っちゃあお仕舞いよ。
 もっとも、「小津映画の娘はナニ悩んでいるんだ、簡単に解決できるではないか」と誰かから言われた小津が、それを皮肉として描いた可能性もある。笠智衆が演じているから皮肉には見えないだけで。佐分利信が重厚かつ無責任そうに(つまり、いつものように)言えば、ギャグになったかもしれない。
 
e0178641_20304269.jpg 池上線石川台駅近くの団地に住む佐田啓「二」・岡田茉莉子夫婦を、岩下志麻と吉田輝雄が同時に訪ねてくるシーンの、あれ(笑)は、いったい、なんなのだ。
 室内に座る岡田茉莉子の背後に巨大な「2」が。はじめ室内の壁かと見えたが、よく考えると、たぶん窓の外の外壁に書いてある「何号棟」かの表示だろう。しかしそれが「1」号棟でも「3」号棟でもなく、なぜ「2」号棟なのか。それをなぜ、わざわざ室内から巨大に見せるのか。それを言っちゃあお仕舞いね。でも、お仕舞いでも、言っちゃおう。
 いつもいつも同じとされる小津映画だが、実は『秋刀魚の味』、いつもの小津映画と微妙に違っているのだ。
 違いその1。前述通りヒロインに女友達がいない。その2。前述どおり、これまでの小津映画を全否定するかの、掟破りの笠発言。他人の娘であっても結婚問題に親身だった小津的親父とは思えぬヒトゴトさ。
 その3。これまでサバサバしたおせっかいおばさん専門の杉村春子が、ヒロインとは無関係な暗い人。岩下志麻のサカナ的冷血の個性ゆえか、時代風潮の変化に対応しているのか、その1と合わせ、ヒロインをサポートする女性が消える。義姉岡田茉莉子も特に応援する描写はない。
 その4。これまで、なぜか(笑)「二」男坊を重視していた小津映画だが、本作では長男佐田啓「二」を重視(ただ相変わらず長男は頼りない感じがあり、二男三上真「一」郎は「明日メシ作ってやるからな」と意外と頼りになる)。
 そう、小津お気に入りのスタア佐田と、突貫小僧「三」代目というべき「三」上を両方出したいのだが、年齢差や人気実力、ストーリー上の要請から佐田啓「二」を長男とせざるを得なかったのだ。小津は悔しかったのだろう(断言)。悔しさのあまり佐田啓「二」の住まう団地に無理やり「2」の刻印を押したのだ!
 同じことは『お早よう』でもしている。
 佐田啓「二」の住むアパート(というよりは団地)が、二度写される。その三ショットとも、団地の外壁には、はっきり「2」の表示が。なぜ1号棟でも3号棟でもなく、「2」号棟なのか。たぶん啓「二」の役名が平「一」郎であることと関係があるのだ。
 もちろん『小早川家の秋』の原節子のアパートでも、室内、原節の背後に巨大な「2」が見えることは同様。小津安「二」郎映画のアパートでは、1号棟も3号棟も4号棟も、もちろん存在しないのだ。そして普通、号棟表示というのは、屋外にあってこそ意味があるので、それを室内から見えて何の意味があるというのか、ということは、無論、聞くだけ野暮というものだろう。
 多分、最初の発想はこうだ。アパートであるからには、それは高層住宅である。室内セットには窓が、構造上なくてはならぬ。しかし、セットのアパート室内から、見える外景は。大部分の凡庸な日本映画では、窓の外にちゃちなミニチュアを建て込んで、町並みなりを表すのだが、それは小津的な美学からすれば、許せるものではない。では、窓の外に棟の外壁が見えれば、より集合住宅らしさも表現できるのではないか、と。単純にして、低予算。しかも、壁好き?な小津の嗜好にも合う。ただの壁であるよりは、号棟表示があったほうがより「らしい」だろう。じゃ、何の数字。もちろん「2」に決まっている、安「二」郎映画ではね。

◎追加◎岸恵子・映画解説 「秋刀魚の味」

岸恵子・映画解説 「秋刀魚の味」


秋刀魚之味(分期)

GoutDuSake-Ozu


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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:57 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(18) | Comments(0)

小津漬の味7『彼岸花』あるいは紳士は何を忘れたか

  「明日、モーニング、どうなさいます?」
  「何だっけ」

 紳士は何を忘れたか。
e0178641_495985.png 『お茶漬の味』が『淑女は何を忘れたか』の変奏的リメイクであることは、誰もが知るところではあるが、まさか『彼岸花』でさえそうであることは、知らなかった。それとも小津ファンの間では周知の事実なのであろうか。
  『淑女は何を忘れたか』『お茶漬の味』で、その振る舞いを批判されるのは栗島すみ子、小暮実千代であるが、『彼岸花』では、もちろん佐分利信である。男女逆転版のリメイクといってよいだろう。
 では、たしなめる側といえば、『淑女は何を忘れたか』では<大阪から来たモダンガアル>桑野通子。『彼岸花』では<京都から来た母娘>山本富士子と浪花千栄子の二人体制。佐分利のポン友、中村伸郎・北竜二らは、『淑女は何を忘れたか』栗島の友人、飯田蝶子・吉川満子に対応する。『彼岸花』では淡島千景、上原葉子らだ。友人たちの交友も、男女逆転しているわけだ。
  『淑女は何を忘れたか』で味方されるのは斎藤達雄だが、『彼岸花』で味方されるのは、有馬稲子(と間接的に田中絹代)、娘を送っていって叱られるのは『淑女は何を忘れたか』で佐野周二、『彼岸花』で佐田啓二。 そしてもちろん『淑女は何を忘れたか』で珍しく頭のよい子を演じて、笑わせてくれる突貫小僧・青年版とも言うべき高橋貞二も『彼岸花』にはいる(「いつもの、普通の、国産の、安いの」高橋の快演が一番印象に残る。ああ、小津で、この突貫青年をもっと見ていたかった)。

 この、まったく同じ話を偽装するために、笠智衆・久我美子親娘の話を紛れ込ませているというのは考えすぎか。しかし、このエピソードはあまりにとってつけたようだし、短いし、もう一人のヒロイン・有馬稲子は肝心のシーンになると、しくしく両手で顔を覆ってしまうし、この二人ヒロインとしてはあまりに弱いのだ(しかも終盤にはまったく顔を見せない)。
 どうしても真のヒロインは、山本・浪花コンビになるだろう。(と、言うことを書いたあと、里見弴の原作を読むと、意外なことに原作では笠智衆・久我美子父娘の話がメインでありました。しかしこの暗いエピソードをメインに映画にするとコメディにならない、それこそ『東京暮色』タッチになってしまうだろう)

 ラストの、長い列車シーンの佐分利は『お茶漬の味』のこれまた長い小暮の列車シーンを思わせるし、『お茶漬の味』の津島恵子の仮病騒ぎは、『彼岸花』の浪花の偽りの人間ドッグ入院騒ぎに対応する。『お茶漬の味』の女たちの温泉旅館での宝塚合唱も、『彼岸花』の男たちの同窓会の合唱に通じている。してみれば『彼岸花』は『淑女は何を忘れたか』と『お茶漬の味』の合わせ技(で、なおかつ男女逆転版)と言うべきか。
 じじつ『淑女は何を忘れたか』には小津大船映画としては珍しく上原謙がちらりと出ているが、対して『お茶漬の味』にも珍しく上原謙夫人が出ている。そして『淑女は何を忘れたか』ヒロイン・桑野通子遺児みゆきが『彼岸花』には出ている。この珍しき連鎖的キャスティングこそ、小津の目配せと強弁しておこう。

 そうして佐分利信。『お茶漬の味』といい『彼岸花』といい『秋日和』といい、女にとっちめられるときは必ず佐分利信。とっちめられ役としては笠智衆ではしゃれにならなかったのだろう。女にとっちめられることがサマになる男、佐分利。『戸田家の兄妹』で理不尽に兄姉をとっちめたことのたたりなのであろう。あのとっちめる佐分利は、かなり後味が悪いものであった。<戦後>の小津は、それを反省して、佐分利を永遠のとっちめられ役にしたのだろうか。
 「彼岸花」の花言葉は「悲しい思い出」「感傷に浸る」であるという(珍しく、まともなシメだ)。

『彼岸花』予告編


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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:55 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味8 『お早よう』あるいは小津は犬派か猫派か 

 子供は主張する。大人はなぜ「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」という、無駄な口を利くのか。
e0178641_212363.jpg そう批判する子供は、しかし、「下の口」から無駄なおならを連発。「上の口」からの無駄なコミュニケーションは許せなくて、「下の口」の無駄口は、いいのか。
 また、主婦たちは、それぞれ得た情報に、ちょっぴりの悪意を加えて、少しずつ違うヴァージョンの「噂」を流し合う。時候の挨拶や、おならコミュニケーションにはない、負の意思伝達。
 さらに主婦たちは泉京子・大泉滉夫婦への、あからさまな差別表示、忌避行為により、彼らに引越しを余儀なくさせる。子供たちが、気づいていれば、時候の挨拶などより、こちらのほうを非難すべきだったろう。「お早よう」は上部構造コミュニケーションと下部構造コミュニケーションの相克なのだろうか。それは、オーバーよぅ。

 そして、だ。
 今回改めてフィルムアート社刊「小津安二郎を読む」を読み返してみたら実に間違いが多い。食物の項で、昼に食べに行くうなぎ屋にほかに客がいないとか(すくなくとも一組はいる)、酒の項『秋刀魚の味』でテーブルに一本しかないビール瓶がショットごとに移動するとか(ちゃんと二本ある)。
 なかでも犬の項の、小津は犬型・猫型で言えば犬型という断定がおかしい。
 「小津の映画に猫が登場したのは『宗方姉妹』のみであろう」と言うが、『早春』で淡島千景が、『お早よう』で東野英治郎が猫を抱いている。『めし』でも、ハラセツがネコを飼っている。
 しかも単に抱いているだけではなくて、ちゃんと話に合わせて登場している。
 前者では猫の妊娠が淡島の妊娠可能性に遡及する元になっているし、後者ではケチ扱いされている三宅邦子宅から干物を頂戴した猫の行状が、それぞれ会話を転がしていく。しかも三宅は、減りが早い軽石に猫いらずを塗ろうかとまで言う(軽石を食べてる子供が危ないが、それ以前に身体に使うものに毒を塗るとは!)
 犬に関しても『東京暮色』の超絶演技を無視しているし。
e0178641_2124329.jpg 山田五十鈴が原節子宅を訪ねる際の、あの奇跡的な(笑)ワン・アクトを。
 今回見直した小津映画で積極的に犬を出しているのは、むしろこれくらいかなあ(『早春』高橋貞二も犬を飼っている)。犬の遠吠えは、時計のカチカチ音と同じ扱いで、(深)夜であることを表現するサウンドエフェクト、姿は見せない。まあ、もっともヴィデオがなかった時代に記憶に頼って書かれた本なので、後出しじゃんけん的に言うのは卑怯な気もするが。
  『お早よう』は、小津映画としては珍しく、引っ掛かりがなく、つるつる進む。もろもろのマスターピースに比べ、軽く作られた、まるで小野津(おやつ)のような映画だ。おかげで、小野津(おのづ)と細部に目がいってしまう。
 実と勇の兄弟が「秋刀魚と豚汁」でご飯を食べている。そこへ叔母の久我美子が帰ってきて、奥の部屋に引っ込む。
  実「おばちゃん」
  節子「なぁに」
 ご飯を食べながら「おばちゃん」と言う実の口は、ご飯をパクつくだけで、映画館DVDも含め何回見直しても、発語している形跡がない。
 「おばちゃん」とは、口を動かしていないのだ。もちろんほとんど口を動かさず発語することは、現実でもありえるが、小津の子役たちは、おおむねハキハキと喋っているではないか。「おばちゃん」と言う発語は別撮りされていて、それを編集するとタイミング、もしくは絵柄が悪いので強引に、別録の声のみ被せた、と言うことも考えられる?
 まさか撮影し忘れた、ということではないだろう? 作品名は忘れたが、ほかの監督たちの映画で、口が動いていないのに別録音の発語がある、と言うのを数回見た記憶がある。小津もこういうB級テクを、ま、いいだろう、とやっていたのかと思うと、「ちょいと」微笑ましい。

 その久我美子が佐田啓「二」のアパート「2」号棟を訪ねる。
椅子に座っている佐田は、久我が帰ると、傍らの全集本の上に載せてある早川ポケミスを手にとって、立ち上がり、机の上にポケミスを投げ出す。
 の、だが、佐田が座っているときには、全集本の上には、ポケミスは載っていないように見える。小さなDVDの画面だからか、大画面でははっきり写っているのか。もし載っていないとすると、座っているところを撮ったときは、本を持って立ち上がることを想定していなかったのか、あるいは全集本の一冊を手に取ることになっていたのか。机の上に投げ出すには全集本では重過ぎて、そぐわない。ポケミスなら、投げ出しても音もそんなにはしない。
 以上は、もし正しいならば、小津は撮影を必ずしも完璧には行わない例になるのではないか。
 ちなみに佐田は早川ポケミスが好きだ。机の傍らにも、らしき本が一冊あるし(これが、その後画面で確認できない>笑)本棚にも五、六冊並んでいる。『秋刀魚の味』の佐田も、畳に寝転んだ傍らに一冊投げ出してあった。さらに言わずもがなだが、ぼくもポケミスが好きだ。ポケミス愛がなかったら、こんなことは発見できない(笑)。
 小津自身は読んだことがあるのだろうか。単にこじゃれた外装(装画・勝呂誉)やポケットサイズによる登用なのだろうか。でも、小津がポケミスを読んでいたなら、なんだかうれしい。
 早川ポケミスといえば、小津の数少ない都会派ミステリ風『非常線の女』昼はオフィスレディー、夜はギャング情婦の洋装派を演じた、和装派アイドル田中絹代がミスキャストとされている。
 特に彼女が拳銃を構えるシーンは誰もが失笑した。しかし、今にして思えば、『セーラー服と機関銃』『風の谷のナウシカ』『セーラームーン』『キューティハニー』その他数限りなく生産される<戦う美少女>ものの、はるかな先駆とは言えまいか。日本のポップカルチャーのいまや主流のひとつであり、狙いとしては正しかったのではないか。まあ、余りに早過ぎたんだけど。
 ただしやはり絹代には目力と言うものがない。言うても詮無いことながら、同年デヴュー高峰三枝子、翌年デヴュー桑野通子、翌々年他社デヴュー原節子が数年早くデヴューしていれば、というところ。もっとも絹代だって、和服で銃を構えれば、興奮する男は少なくとも一人はいたものを。



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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:52 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味9 『東京暮色』成瀬巳喜男とジェームス・ディーンが雑司が谷でめぐり合う

 『麦秋』『晩春』のセルフパロディであったように、『東京暮色』は『東京物語』『麦秋』への返歌であった。
 さらにいえば『東京暮色』は「母色」母の色々を描く映画であった。夫と娘たちを捨てる母・山田五十鈴、不仲の夫を避けて実家に娘と戻る母・原節、堕胎し母にならなかった母・有馬稲子、こういう不幸な母たちを描く「母ショック」な映画なのであった。

 『麦秋』『東京物語』で、老夫婦が「でも、私らは、まぁだいいほうでさぁ」と互いに慰めあうとき、では「いいほう」でないほうとはどういうものであるか、と突っ込まれたのか、自ら突っ込んだのか、「いいほう」でないほうを描くべく『東京暮色』は企図されたと思しい。
不幸な家族のありようを描くさい参照されたのが、おそらくは<女の不幸の総合商社>ミッキーナルセの映画だったと思われる。
 娘連れで実家にかえる原節は、まるで成瀬巳喜男『山の音』の中北千枝子みたいだ。ただ、中北や同じミッキーの『めし』の原節ほどは所帯疲れがしていないのが小津の小津たるゆえんかもしれない。
 夫との関係は成瀬『杏っ子』も思わせる。有馬はミッキー『晩菊』を思わせる。
 ただこの役はもともと岸恵子がやることを想定していたというから、彼女が男とすれ違うさまは『君の名は』に由来するのかもしれない。
 あまり男に頼らない女を描くミッキーの『浮雲』が例外的に特定の男を捜し求める映画だった。森雅之の戯画としての田浦正巳。踏切事故は成瀬『女の座』『腰弁頑張れ』だったか。
 山田は、(ちょいと)苦しいが成瀬『妻よ薔薇のやうに』の逆ヴァージョンかな。この映画が、どちらかというとミッキー的な女優浦辺粂子が一人でやっている、うらぶれた居酒屋から始まるのも暗示的だ。

 妻に男を作って逃げられ(しかも後妻を世話する人もいず)、ひとり息子には死なれ(『麦秋』『東京物語』で若死にするのは次男であり、少なくとも長男は生きている)、長女は親として「無理に押し付けた」夫がだめなやつで、次女もまた不慮の死を迎える。父・笠智衆の不幸はこれでもかとばかりである。いったい人の死因として、山で遭難、踏み切りで電車に轢かれる、という連鎖は、かなりレアケースではないか。この重ね重ねの不幸は確率的には、ほとんどありえない不幸のつるべ打ちといっていいのではないか。ここまで「いいほう」でないとは、小津も冗談に過ぎるドラマチックさではないだろうか。
 そしてもちろん、父と離婚した母がよからぬ商売に手を染めていて、その母に再会した兄弟に、母への対応の違いが出てしまう、といえば『エデンの東』だが、映画的細部への手数は数限りなくあるにもかかわらず、ストーリーの手数は驚くほど少ない小津映画が、この『エデンの東』(55年)の兄弟を姉妹に男女逆転して、ありていに言えば、パクった、のは間違いのないところだろう。
 もっともパクったのは、小津『東京暮色』(57年)一人ではない。田坂具隆『陽のあたる坂道』(58年・日活、これは原作石坂洋次郎からしてすでにパクっているのだが)もそう、もともと長谷川伸「瞼の母」など、日本的な母物と<同じ話>という相性のよさもあるはずだ。

いささか『東京暮色』を弁護したい。
 失敗作というには、あまりに小津的魅力にあふれている。新宿の深夜喫茶のシーン。あまりに非リアルな描写は、違和感というか不思議な魅力というか。マスクをする原節とか、細部の面白さには事欠かない。
 名画座で見たプリントは、画調が暗く焼きすぎていた(あるいは黒く劣化していた)。観客もほかの小津映画ほど笑いがないので、全体としては、暗い映画の印象だった。
 ところが今回DVDで見たら、明るい画調に調整されていて、そんなに暗い映画に見えない。高橋貞二、田浦正巳の笑いどころもあり、結構楽しい映画という印象に変わった。ついでにDVDの画調といえば『彼岸花』も気になった。小津のカラー映画といえば、アグファカラーの原色が強調された画調のプリントを名画座で見てきた。ところが特に『彼岸花』DVDが、妙に色が渋く、原色よりも中間色を重視した焼付けに感じられた。これはどちらのほうが小津の意図を表わした画調なのだろう。

 さらに、名画座とDVDの違いというか、余計な一言を。ネットなどでの意見を見ていると、小津映画をDVD・ヴィデオ・TVなどで見ている人たちも多いようだ。TVモニターやパソコンで、ひとり黙々と見ている彼らは、並木座や文芸坐(新しいほうではない)の満員の観客たちが爆笑に次ぐ爆笑で後期小津映画を見ていることが、果たして理解できるだろうか。その喜劇性ゆえ満座の共感あふれる爆笑の中で見るのと、沈黙の中で視聴するのと、それは同じ映画なのだろうか。喜劇作家でもある小津は、TVモニターの中でも実感されるのだろうか。

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:50 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(8)

小津漬の味10 <小津家の兄妹>あるいはまとめに走らない、まとめ

 あまり小津が好きとは思えない、元松竹助監督・鈴木清順『東京流れ者』は、実は小津大意識大会なのではないか。
 まずストーリーが、「親分と一緒にいるだけで幸せ」な子分・渡哲也が、庄内、佐世保、と地方を<流れる>話。行く先々でトラブルに巻き込まれる。最後は親(分)の死で終わる。親でなく子が流れるわけである。親・子逆転、東京・地方逆転の清順版『東京物語』。
 東京タワーと大きな枯れ木のツーショットは、『秋日和』の最初のショットたちを思わせる。
雪の中の赤い郵便ポスト、赤いスーツ、とやたらと点描される赤は『彼岸花』の赤いヤカンを思わせる。
天井を区切る独特な赤いライトは『秋刀魚の味』の岸田今日子のトリスバーの、天井近くの赤いライトを想起させる。ネオンサインのみで画面を埋めるのは、小津の看板好みを思い出させる。
 最後に死ぬ、裏切り者の親分に、後期小津常連で、小津に「ちょいと似てる」北竜二。小津殺しか。
 そしてこの『東京流れ者』、清順にしては、異様にローアングルが多い気がするのね(笑)。
 そもそも、小津安と清順は、世界娯楽映画史上、どちらかが1位か2位かというくらい、ショットとショットのつながり、シーンとシーンのつながりが「でたらめ」というより、「デジタル」な、かつ極めてユニークな映像重視の映画作家であり、なおかつ意図的なまでの原色重視なのだから、結果として似てくる場合もあるのかもしれない。
 なお、鈴木清順のインタヴュー記事で印象に残っているのは、小津との係わり合いを聞かれて、助監督仲間で安酒を飲んでいたら、小津がやってきて、もっといい酒を飲めといわれたという。助監督の安い給料で飲める酒を飲んでいたのに、金持ちの巨匠にそう言われて、若き清順たちは反発したという。同じような話を山田洋次も回想している。助監督仲間と安い食事をしていると、やはり小津が、いいものを食え、といったという。山田たちも助監督の安い給料で食べるような食事を・・・・以下同文。

 ひょっとしたら、小津映画のことを、日本で一番まともに(笑)考えているのではないかと思いつつある今日この頃、かつてのデジタル小津展ならぬ、電波系小津論としては、ただただ率直に小津の発する電波を受け止めているだけなのであるが。もっとも、電波を受けている、という人は多いがその電波は他人には見えないことも多い(笑)。
 謎めいた小津映画の中でも、生涯独身の小津がなぜ、かくも結婚問題にこだわるのか、というのも疑問のひとつ。いわゆる、他人の芝生は青いというやつか。そこで思い返してみると、小津映画の結婚とは、普通の、いわゆる「結婚」とは、違うのではないかと。後期小津映画は、おおむね結婚問題を中心として話が転がっていく。といっても、それは必ず娘の結婚であり、息子の結婚ではない。娘も『秋刀魚の味』の笠智衆が推奨するお婿さんを取る方法はとらない。息子も結婚後必ず親と同居しない。『秋日和』の三上真一郎も、父・北竜二が自分たち新婚夫婦の家に同居することを、はっきり「邪魔」だと明言する。
 つまり、どういう結婚かというと、その結果、狭義的には家族が増える結婚ではないということだ。必ず家族から人が減る結婚なのだ。必ず人が減ることが、その家族にとって、残される家族構成員にとって、慶事であるかどうか、かなり微妙な問題である。時によって、ヒロインの結婚相手の男をまったく映さないのも、そうしたことではないのか(『晩春』『秋刀魚の味』)。
 ミッキーナルセが一瞬の交通事故で済ませるようなことを、小津安は丸まる一本の映画分の時間を使って描写している、ということではないか。
 みんなが寄ってたかって、酒と食事を楽しみつつ、家族を減らすべく相談しあっている。
 ミッキー映画の不幸が瞬殺の早漏傾向なら、小津映画の「不幸」は遅漏気味。小津安遅漏。礼服を通して「結婚式」と「葬式」がつながる、あれはギャグではなかったのだ(『彼岸花』『秋刀魚の味』)。
 特に『晩春』の笠や『秋日和』の原節は、一人取り残されることにより、家族という括りそのものすら消滅してしまう。この笠や原節が再婚しないのは、そんなことをしたら<家族が増えてしまう>からなのだ。『秋刀魚の味』の長男夫婦が子供が出来ないようにしているのも、『麦秋』の、現状なら近所の二本柳寛家に原節が嫁げば、擬似家族としてのこの二家族に家族がそれぞれ増えてしまう、だから二本柳家ははるか遠くの秋田に行くのである。たらこ、が、たの字、としてタヴー視されるのは(『秋日和』)、その圧倒的な卵の量によるのではないか(勿論当時たらこが関東では新奇の食べ物で、その新奇さゆえにはしたない感じをある種の女性にもたれていたということも推測されるのだが)。
 小津の家族たちは執拗に加算を禁じられている。それは、たとえば、小津安映画のうなぎ屋に昼飯時にほとんど客がいなかったり、『東京暮色』の藤原釜足のラーメン屋にはいつ行っても、ほとんど客がいなかったりすることと関係があるのだろうか。で、あるならば、それは、世の無常とは、たぶん、関係ないのだろう。
 小津安「二」郎の映画ではしばしば「二」男坊が「二」枚目の役割を持つ。そしてこの「二」男坊にはみんな、子供がいない。『早春』の正「二」は幼くして子供を亡くした。『東京暮色』の憲「二」は、逃げ回っているうちに子供を堕ろされた。もしくは、若くてまだ独身か、子供が出来る以前に戦死しているとか。小津映画にあっては、子供を持つことは長男にのみ許されているかのようだ。何らかの禁忌が存在するかのような徹底ぶりではないだろうか。
 日本的なホームドラマの典型として、小津映画は、家族のあらゆる喜怒哀楽、冠婚葬祭を描いて、日本人の共感、ないし郷愁を誘ってきた。
 ただ、一点を除いて。
 そう、小津映画では、いちどとして、新たな生命が家族にもたらされたことはないのだ。
 『東京暮色』の有馬稲子は、妊娠したとたん、まるで懲罰を受けるがごとく、恋人に愛想をつかされ、堕胎し、自殺していく。繰り返す。小津の家族たちは執拗に加算を禁じられている。
 「東京には人が多すぎる」。そういう子供たちの嘆きを、『一人息子』の飯田蝶子も『東京物語』の東野英治郎も、負け犬の言い訳扱いしていたが、小津にあっては、言い訳レヴェルの問題ではなかったのだ。小津映画は、一貫して「人が多すぎる」ことを排除しよう排除しようとしてきていたのだった。

他社作品『宗方姉妹』『浮草』『小早川家の秋』では、そういう<いつもの、結婚話>は、とらない。とらないけれど、それがうまく行っているか、というときわめて疑問だ。この三作が、どういう話か、というと、あやふやで、よくわからない。見た後、ストーリーはあまり印象に残らない。話の核がない感じだ。
 わざわざの他社作品だから<いつもの話>を封印したのは、わかる。わかるが、だからといって、目覚しい冒険というか新たな試みをするわけでもなく(もちろん個々ではそれなりにしているのだが)、かといって<お客さん>として、せいぜいサーヴィスにこれ勤める、というわけでもない。成型しきっていない豆腐という感じがする。あるいは、豆腐屋がとんかつ屋に出張してしまった感じか。
 この三作は、偶然か関西色が強い。喫茶店経営、ドサ回り芸人、老舗個人商店、と小津安らしからぬ主人公たち(なぜかミッキー的でもある)、高峰秀子、上原謙、鴈治郎、京マチ、若尾、など当然のことながら小津安らしからぬ俳優たち(小津安と言うよりは、若尾を除いてミッキー的な俳優たち)。『宗方姉妹』の高峰秀子は、浮き過ぎのあまりミッキー、木下に比べるのもおろかなコント・レヴェル、『浮草』の若尾文子は大映の定食監督の凡庸な演出に劣る。『小早川家の秋』のモリシゲは東宝の定食監督の凡庸な演出に劣る。う~ん、小津、演出が下手過ぎや。小津は、高峰、若尾、モリシゲらの、個性的なスタア俳優の味を生かすことが出来ない。出張では力が出せない内弁慶か。

 『晩春』『麦秋』の紀子に対する友人アヤの役割を演じるのが『早春』では中北千枝子であった。歴代アヤがヒロインに結婚をけしかけるだけの役割に対して、中北はいかに夫をうまく管理するかについて指南する。アヤ上級者。考えてみれば、この映画でヒロインにアドヴァイスするのは、母・浦辺粂子にしても、隣人・杉村春子にしても、<女の不幸の総合商社>ミッキーナルセのテダレでもある。
 対する池部良は、東宝と藤本プロの看板スタアでありながら、なぜか一本もミッキーとはかかわっていない(もし理由があるとすれば、あんまり駄目男ぶりがサマになりそうもないところか)。ミッキー慣れしていない彼が、ミッキーのテダレたちに負けるのは道理である。つまり、<美人女優キラー>の彼が、淡島を含めた四人の非・美人女優を相手にしなければならないのだから、慣れないのもやむをえない。選択の余地なく(笑)彼は岸恵子と割りない仲になるのだが、負け戦になることはあらかじめ決められていたわけで。戦後作品の小津が、ちょっとでも暗い話になると必ずミッキーに似てしまう、そのひとつ。

 小津映画では、しばしば知人・スタッフの名前が内輪ギャグ的に使われるようだ。『お早よう』では、小学校の女性教師が授業でしりとり遊びを教える。指名する生徒の名前は「厚田さん」「清水さん」。考えられない頓珍漢な答えで笑いを誘う。小津のキャメラ番・厚田雄春と、盟友・清水宏だろうか。あるいは戦前からのキネ旬同人・映画評論家の清水千代太、ないし清水晶(キネ旬に『お早よう』評を執筆)が撮影を取材に来ていたのだろうか。きっと現場では、吹き出し笑いをこらえるような内輪受けを誘ったのかもしれない。
 『秋刀魚の味』では、北竜二が同窓生の名前を「下河原」「宮川」という(あと一人は誰だっけ)。下河原は、他社作品『宗方姉妹』『浮草』『小早川家の秋』の美術監督・下河原友雄と、『浮草』撮影・宮川一夫だろうか。松竹作品である『秋刀魚の味』で、かつての他社スタッフの名を「同窓生」として出す。
 『麦秋』で、原節・淡島の女学校時代の同級生の話題が出る。東北弁のササキさん、ニックネームがズーさん。松竹の助監督・監督の佐々木康は、そのズーズー弁からズーさんというあだ名だった。
 『浮草』で劇団が解散する。これからの身の振り方を語るうち、ある団員は「妹の連れ合いが浜松で漬物屋をやっているので」そこに身を寄せるという。木下恵介・忠司・楠田芳子兄妹の実家は、浜松の漬物屋である。
 『早春』の中北千枝子は、役名・富永「栄(さかえ)」。女性名としてはやや、珍しい名前か。千葉伸夫著「小津安二郎と20世紀」によると、川崎長太郎の小説「裸木」は、小津安二郎とその愛人をモデルにした小説で、彼女は後々も、小津とその母親と親しくしていたという。小津の通帳や印鑑を預かる仲だったとか。彼女の名前は森「栄」。わざわざ中北を呼んだのは、そのキャラクターが似ていたのだろうか。
 もっとも『秋日和』で洋裁学校の本音ズケズケ・南美江の役名も桑田「栄」。『東京暮色』の山田五十鈴を寝取った中村伸郎も相馬「栄」(小沢栄太郎は、もともとは小沢栄であったが)。
 で、ぼくがちょっと、これは、と疑惑視(笑)しているのが、『麦秋』で佐野周二が話題にし、『秋日和』で菅原通済と中村伸郎が寿司を注文するシーン。寿司ネタをエロネタにしてるのだが、はまぐりを略して、ハマ、ハマ、と連発する。いや、このシーン見た、小津の伝道師でもある義妹・小津ハマさんは、どう思ったかな、と。
 当時はもちろん、セクハラという言葉、概念はなく、そういう下ネタはむしろ<紳士のたしなみ>ですらあった時代だろうから、もちろんハマさんへの他意はないうえでの、言葉の遊びだったのではないだろうか。もちろん松竹作品では必ず付く美術監督・「浜」田辰雄というのもある。小津の義妹を知らないスタッフ的には、こちらのほうが本命か。

 『小早川家の秋』は軽く作られ、さくさく進むが、深みは、雁治郎の据わった目の中にのみある。
 浪花千栄子と焼けぼっくいの、中村雁治郎、その彼が自宅で使ううちわは、漢字一字「浪」を大きくデザイン化したもの。新珠三千代に、浪花のことを追及されるときも「浪」の字のうちわをパタパタ。まあ『東京物語』で、足おっぴろげて、高峰秀子の顔写真のうちわで、またぐらに風を送った杉村春子には及ばないが。
 雁治郎の酒屋の後とり、小林「桂」樹が〆ている酒屋用前掛け。よく見ると大きく書かれているブランド名は「月桂冠」ならぬ、「月の桂」。この映画には 小津的「二」付き「二」枚目がいないと思ったら、団令子の付き合っているアメリカ人の名前がジョー「ジ」!
 新珠が、意外といい。しつっこく父を追及するときも、怖くならず、感じがいい。ただ、泣いて、顔で手を覆う小津的定番のしぐさのとき、手で隠しきれない顔の部分にしわしわが。本気で顔ゆがめてるんだ。なぜ小津が泣き顔を手で覆わせているか、新珠は、おそらく、わかっていない。そして、それを小津演出は修正しない。
 ラスト、雁治郎の葬列で、原節と司葉子は、札幌の宝田明に嫁ぐ決心の司について話し合う。あなたがいなくなると寂しくなるわ、のあなたは雁治郎でなく司だ。つまり、ここでも、小津にとって、結婚と死は葬列で同列に語られている。小津映画にあって、結婚とは死の比喩であることがわかるだろう。原節が再婚しないのも、やはりそんなことをすると<家族が増えてしまう>ゆえに、ありえないことなのだ。
 ラストは小津映画には珍しく、笠智衆・望月優子夫婦の「感慨」があまりにストレート。かなり多くのカラスも配置されており、ベタといえばあまりにベタ。ここらへんに<他社出向>故のおもねり、ないし小冒険の気配が感じられる。あまりに中途半端で、いかにも内弁慶なのであるが。
 日本映画黄金期のONコンビというべき、小津と成瀬について。成瀬映画には、泣かせたくないのヨ笑わせたいのヨ、でも物語の基本は悲劇、という場合が多いが、それは小津映画にも当てはまるだろう。
 中途半端といえば中途半端、あれもこれものいいとこ取りといえばそうだろう。それが人生のリアル、という見方もあるだろう。

 なお、後日、チェーンの居酒屋でメニューを見ていたら、本当にあったのですね!「月の桂」が。早速頼みました。「発泡活性本醸造」と角書きされた「月の桂 にごり酒」は京都伏見の「株式会社増田徳兵衛商店」のもの。『小早川家の秋』の舞台は京都伏見、小早川酒造の当主・雁治郎の名前は万兵衛だった。
 「月桂冠」と小林「桂」樹をもじった親父ギャグか、と軽く考えていたら実在していたとは。ふりかえってみれば、新聞は毎朝、大学は東都、と大部分の日本映画が企業名などを仮名で通すなか、小津映画のみが大学名、企業名、ブランド名を実名でやってきた。その一環で。もっとも、〆ているのが小林「桂」樹だから、ギャグであることは間違いない。
 小津好き、酒好きとしては、ダイヤ菊に次ぐ指定銘柄になりそうだ。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:45 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(1) | Comments(0)

大曽根辰保「修羅桜」

 「嵯峨三智子」阿佐ヶ谷モーニング特集にて。59年松竹京都。
 松竹映画三千本記念映画、というふれこみが、胡散臭くて、いい。
週刊大衆連載の原作、作者がすごい。江戸川乱歩、角田喜久雄、城昌幸、陣出達朗、村上元三、リレー小説か。伝奇時代テイストの内容からすると、角田喜久雄色が濃厚。ほかの四人はそもそも伝奇時代物なんか書いていないはず、特に乱歩は時代物そのものと無縁のイメージ(この五人の全作はもちろん読んでいないのだが)。
 前半ゆったり、後半はしょり気味。ほんの顔見世の五十鈴はともかく、W二世女優サガミチ(主人公森美樹にまとわりつく、あだっぽい女スリ)クワユキ(純情な隠れキリシタン娘)いい。
 サガミチの親分・伴淳がとにかく強い。こんなに強い伴淳というのも珍しい。が、さらに強いのが白塗りの悪役・近衛十四郎。その群を抜く抜刀術には、やはり目を見張る。こんなに強い近衛が、やさ男兄弟の森美樹、松本錦四郎に最後は負けるのが、まったく解せない。
 近衛の死に際は近衛の顔のアップ、本当は強い近衛に報いたショットだった。この近衛がなぜ白塗りかというと、たぶん色黒の近衛に、血の気のない蒼白白面の殺し屋を演じさせるためだったろうが、白塗りは白塗り。まあ、白塗りの松方弘樹ほど不自然ではないけど。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 09:09 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

倉橋良介「忠臣蔵 暁の陣太鼓」

 「嵯峨三智子」阿佐ヶ谷モーニング特集にて。58年松竹京都。主演森美樹。
 前半は中山安兵衛の「血煙高田馬場」、後半は堀部安兵衛の「忠臣蔵」。一粒で二度おいしいはずだが・・・・まあ、それなり。
この監督はマキノの極め付きを見ているのかどうか知らないが、それなりに健闘しているというべきか。サガミチはこの両方の安兵衛にからむ、あだっぽい姉御。ゴージャス。
 俵星玄馬役・近衛十四郎が豪快に助演する(この時期の松竹京都時代劇では、近衛十四郎のだんながなにげに脇役出演しているので楽しい)。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 09:08 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)