小津漬の味7『彼岸花』あるいは紳士は何を忘れたか

  「明日、モーニング、どうなさいます?」
  「何だっけ」

 紳士は何を忘れたか。
e0178641_495985.png 『お茶漬の味』が『淑女は何を忘れたか』の変奏的リメイクであることは、誰もが知るところではあるが、まさか『彼岸花』でさえそうであることは、知らなかった。それとも小津ファンの間では周知の事実なのであろうか。
  『淑女は何を忘れたか』『お茶漬の味』で、その振る舞いを批判されるのは栗島すみ子、小暮実千代であるが、『彼岸花』では、もちろん佐分利信である。男女逆転版のリメイクといってよいだろう。
 では、たしなめる側といえば、『淑女は何を忘れたか』では<大阪から来たモダンガアル>桑野通子。『彼岸花』では<京都から来た母娘>山本富士子と浪花千栄子の二人体制。佐分利のポン友、中村伸郎・北竜二らは、『淑女は何を忘れたか』栗島の友人、飯田蝶子・吉川満子に対応する。『彼岸花』では淡島千景、上原葉子らだ。友人たちの交友も、男女逆転しているわけだ。
  『淑女は何を忘れたか』で味方されるのは斎藤達雄だが、『彼岸花』で味方されるのは、有馬稲子(と間接的に田中絹代)、娘を送っていって叱られるのは『淑女は何を忘れたか』で佐野周二、『彼岸花』で佐田啓二。 そしてもちろん『淑女は何を忘れたか』で珍しく頭のよい子を演じて、笑わせてくれる突貫小僧・青年版とも言うべき高橋貞二も『彼岸花』にはいる(「いつもの、普通の、国産の、安いの」高橋の快演が一番印象に残る。ああ、小津で、この突貫青年をもっと見ていたかった)。

 この、まったく同じ話を偽装するために、笠智衆・久我美子親娘の話を紛れ込ませているというのは考えすぎか。しかし、このエピソードはあまりにとってつけたようだし、短いし、もう一人のヒロイン・有馬稲子は肝心のシーンになると、しくしく両手で顔を覆ってしまうし、この二人ヒロインとしてはあまりに弱いのだ(しかも終盤にはまったく顔を見せない)。
 どうしても真のヒロインは、山本・浪花コンビになるだろう。(と、言うことを書いたあと、里見弴の原作を読むと、意外なことに原作では笠智衆・久我美子父娘の話がメインでありました。しかしこの暗いエピソードをメインに映画にするとコメディにならない、それこそ『東京暮色』タッチになってしまうだろう)

 ラストの、長い列車シーンの佐分利は『お茶漬の味』のこれまた長い小暮の列車シーンを思わせるし、『お茶漬の味』の津島恵子の仮病騒ぎは、『彼岸花』の浪花の偽りの人間ドッグ入院騒ぎに対応する。『お茶漬の味』の女たちの温泉旅館での宝塚合唱も、『彼岸花』の男たちの同窓会の合唱に通じている。してみれば『彼岸花』は『淑女は何を忘れたか』と『お茶漬の味』の合わせ技(で、なおかつ男女逆転版)と言うべきか。
 じじつ『淑女は何を忘れたか』には小津大船映画としては珍しく上原謙がちらりと出ているが、対して『お茶漬の味』にも珍しく上原謙夫人が出ている。そして『淑女は何を忘れたか』ヒロイン・桑野通子遺児みゆきが『彼岸花』には出ている。この珍しき連鎖的キャスティングこそ、小津の目配せと強弁しておこう。

 そうして佐分利信。『お茶漬の味』といい『彼岸花』といい『秋日和』といい、女にとっちめられるときは必ず佐分利信。とっちめられ役としては笠智衆ではしゃれにならなかったのだろう。女にとっちめられることがサマになる男、佐分利。『戸田家の兄妹』で理不尽に兄姉をとっちめたことのたたりなのであろう。あのとっちめる佐分利は、かなり後味が悪いものであった。<戦後>の小津は、それを反省して、佐分利を永遠のとっちめられ役にしたのだろうか。
 「彼岸花」の花言葉は「悲しい思い出」「感傷に浸る」であるという(珍しく、まともなシメだ)。

『彼岸花』予告編


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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:55 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味8 『お早よう』あるいは小津は犬派か猫派か 

 子供は主張する。大人はなぜ「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」という、無駄な口を利くのか。
e0178641_212363.jpg そう批判する子供は、しかし、「下の口」から無駄なおならを連発。「上の口」からの無駄なコミュニケーションは許せなくて、「下の口」の無駄口は、いいのか。
 また、主婦たちは、それぞれ得た情報に、ちょっぴりの悪意を加えて、少しずつ違うヴァージョンの「噂」を流し合う。時候の挨拶や、おならコミュニケーションにはない、負の意思伝達。
 さらに主婦たちは泉京子・大泉滉夫婦への、あからさまな差別表示、忌避行為により、彼らに引越しを余儀なくさせる。子供たちが、気づいていれば、時候の挨拶などより、こちらのほうを非難すべきだったろう。「お早よう」は上部構造コミュニケーションと下部構造コミュニケーションの相克なのだろうか。それは、オーバーよぅ。

 そして、だ。
 今回改めてフィルムアート社刊「小津安二郎を読む」を読み返してみたら実に間違いが多い。食物の項で、昼に食べに行くうなぎ屋にほかに客がいないとか(すくなくとも一組はいる)、酒の項『秋刀魚の味』でテーブルに一本しかないビール瓶がショットごとに移動するとか(ちゃんと二本ある)。
 なかでも犬の項の、小津は犬型・猫型で言えば犬型という断定がおかしい。
 「小津の映画に猫が登場したのは『宗方姉妹』のみであろう」と言うが、『早春』で淡島千景が、『お早よう』で東野英治郎が猫を抱いている。『めし』でも、ハラセツがネコを飼っている。
 しかも単に抱いているだけではなくて、ちゃんと話に合わせて登場している。
 前者では猫の妊娠が淡島の妊娠可能性に遡及する元になっているし、後者ではケチ扱いされている三宅邦子宅から干物を頂戴した猫の行状が、それぞれ会話を転がしていく。しかも三宅は、減りが早い軽石に猫いらずを塗ろうかとまで言う(軽石を食べてる子供が危ないが、それ以前に身体に使うものに毒を塗るとは!)
 犬に関しても『東京暮色』の超絶演技を無視しているし。
e0178641_2124329.jpg 山田五十鈴が原節子宅を訪ねる際の、あの奇跡的な(笑)ワン・アクトを。
 今回見直した小津映画で積極的に犬を出しているのは、むしろこれくらいかなあ(『早春』高橋貞二も犬を飼っている)。犬の遠吠えは、時計のカチカチ音と同じ扱いで、(深)夜であることを表現するサウンドエフェクト、姿は見せない。まあ、もっともヴィデオがなかった時代に記憶に頼って書かれた本なので、後出しじゃんけん的に言うのは卑怯な気もするが。
  『お早よう』は、小津映画としては珍しく、引っ掛かりがなく、つるつる進む。もろもろのマスターピースに比べ、軽く作られた、まるで小野津(おやつ)のような映画だ。おかげで、小野津(おのづ)と細部に目がいってしまう。
 実と勇の兄弟が「秋刀魚と豚汁」でご飯を食べている。そこへ叔母の久我美子が帰ってきて、奥の部屋に引っ込む。
  実「おばちゃん」
  節子「なぁに」
 ご飯を食べながら「おばちゃん」と言う実の口は、ご飯をパクつくだけで、映画館DVDも含め何回見直しても、発語している形跡がない。
 「おばちゃん」とは、口を動かしていないのだ。もちろんほとんど口を動かさず発語することは、現実でもありえるが、小津の子役たちは、おおむねハキハキと喋っているではないか。「おばちゃん」と言う発語は別撮りされていて、それを編集するとタイミング、もしくは絵柄が悪いので強引に、別録の声のみ被せた、と言うことも考えられる?
 まさか撮影し忘れた、ということではないだろう? 作品名は忘れたが、ほかの監督たちの映画で、口が動いていないのに別録音の発語がある、と言うのを数回見た記憶がある。小津もこういうB級テクを、ま、いいだろう、とやっていたのかと思うと、「ちょいと」微笑ましい。

 その久我美子が佐田啓「二」のアパート「2」号棟を訪ねる。
椅子に座っている佐田は、久我が帰ると、傍らの全集本の上に載せてある早川ポケミスを手にとって、立ち上がり、机の上にポケミスを投げ出す。
 の、だが、佐田が座っているときには、全集本の上には、ポケミスは載っていないように見える。小さなDVDの画面だからか、大画面でははっきり写っているのか。もし載っていないとすると、座っているところを撮ったときは、本を持って立ち上がることを想定していなかったのか、あるいは全集本の一冊を手に取ることになっていたのか。机の上に投げ出すには全集本では重過ぎて、そぐわない。ポケミスなら、投げ出しても音もそんなにはしない。
 以上は、もし正しいならば、小津は撮影を必ずしも完璧には行わない例になるのではないか。
 ちなみに佐田は早川ポケミスが好きだ。机の傍らにも、らしき本が一冊あるし(これが、その後画面で確認できない>笑)本棚にも五、六冊並んでいる。『秋刀魚の味』の佐田も、畳に寝転んだ傍らに一冊投げ出してあった。さらに言わずもがなだが、ぼくもポケミスが好きだ。ポケミス愛がなかったら、こんなことは発見できない(笑)。
 小津自身は読んだことがあるのだろうか。単にこじゃれた外装(装画・勝呂誉)やポケットサイズによる登用なのだろうか。でも、小津がポケミスを読んでいたなら、なんだかうれしい。
 早川ポケミスといえば、小津の数少ない都会派ミステリ風『非常線の女』昼はオフィスレディー、夜はギャング情婦の洋装派を演じた、和装派アイドル田中絹代がミスキャストとされている。
 特に彼女が拳銃を構えるシーンは誰もが失笑した。しかし、今にして思えば、『セーラー服と機関銃』『風の谷のナウシカ』『セーラームーン』『キューティハニー』その他数限りなく生産される<戦う美少女>ものの、はるかな先駆とは言えまいか。日本のポップカルチャーのいまや主流のひとつであり、狙いとしては正しかったのではないか。まあ、余りに早過ぎたんだけど。
 ただしやはり絹代には目力と言うものがない。言うても詮無いことながら、同年デヴュー高峰三枝子、翌年デヴュー桑野通子、翌々年他社デヴュー原節子が数年早くデヴューしていれば、というところ。もっとも絹代だって、和服で銃を構えれば、興奮する男は少なくとも一人はいたものを。



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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:52 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味9 『東京暮色』成瀬巳喜男とジェームス・ディーンが雑司が谷でめぐり合う

 『麦秋』『晩春』のセルフパロディであったように、『東京暮色』は『東京物語』『麦秋』への返歌であった。
 さらにいえば『東京暮色』は「母色」母の色々を描く映画であった。夫と娘たちを捨てる母・山田五十鈴、不仲の夫を避けて実家に娘と戻る母・原節、堕胎し母にならなかった母・有馬稲子、こういう不幸な母たちを描く「母ショック」な映画なのであった。

 『麦秋』『東京物語』で、老夫婦が「でも、私らは、まぁだいいほうでさぁ」と互いに慰めあうとき、では「いいほう」でないほうとはどういうものであるか、と突っ込まれたのか、自ら突っ込んだのか、「いいほう」でないほうを描くべく『東京暮色』は企図されたと思しい。
不幸な家族のありようを描くさい参照されたのが、おそらくは<女の不幸の総合商社>ミッキーナルセの映画だったと思われる。
 娘連れで実家にかえる原節は、まるで成瀬巳喜男『山の音』の中北千枝子みたいだ。ただ、中北や同じミッキーの『めし』の原節ほどは所帯疲れがしていないのが小津の小津たるゆえんかもしれない。
 夫との関係は成瀬『杏っ子』も思わせる。有馬はミッキー『晩菊』を思わせる。
 ただこの役はもともと岸恵子がやることを想定していたというから、彼女が男とすれ違うさまは『君の名は』に由来するのかもしれない。
 あまり男に頼らない女を描くミッキーの『浮雲』が例外的に特定の男を捜し求める映画だった。森雅之の戯画としての田浦正巳。踏切事故は成瀬『女の座』『腰弁頑張れ』だったか。
 山田は、(ちょいと)苦しいが成瀬『妻よ薔薇のやうに』の逆ヴァージョンかな。この映画が、どちらかというとミッキー的な女優浦辺粂子が一人でやっている、うらぶれた居酒屋から始まるのも暗示的だ。

 妻に男を作って逃げられ(しかも後妻を世話する人もいず)、ひとり息子には死なれ(『麦秋』『東京物語』で若死にするのは次男であり、少なくとも長男は生きている)、長女は親として「無理に押し付けた」夫がだめなやつで、次女もまた不慮の死を迎える。父・笠智衆の不幸はこれでもかとばかりである。いったい人の死因として、山で遭難、踏み切りで電車に轢かれる、という連鎖は、かなりレアケースではないか。この重ね重ねの不幸は確率的には、ほとんどありえない不幸のつるべ打ちといっていいのではないか。ここまで「いいほう」でないとは、小津も冗談に過ぎるドラマチックさではないだろうか。
 そしてもちろん、父と離婚した母がよからぬ商売に手を染めていて、その母に再会した兄弟に、母への対応の違いが出てしまう、といえば『エデンの東』だが、映画的細部への手数は数限りなくあるにもかかわらず、ストーリーの手数は驚くほど少ない小津映画が、この『エデンの東』(55年)の兄弟を姉妹に男女逆転して、ありていに言えば、パクった、のは間違いのないところだろう。
 もっともパクったのは、小津『東京暮色』(57年)一人ではない。田坂具隆『陽のあたる坂道』(58年・日活、これは原作石坂洋次郎からしてすでにパクっているのだが)もそう、もともと長谷川伸「瞼の母」など、日本的な母物と<同じ話>という相性のよさもあるはずだ。

いささか『東京暮色』を弁護したい。
 失敗作というには、あまりに小津的魅力にあふれている。新宿の深夜喫茶のシーン。あまりに非リアルな描写は、違和感というか不思議な魅力というか。マスクをする原節とか、細部の面白さには事欠かない。
 名画座で見たプリントは、画調が暗く焼きすぎていた(あるいは黒く劣化していた)。観客もほかの小津映画ほど笑いがないので、全体としては、暗い映画の印象だった。
 ところが今回DVDで見たら、明るい画調に調整されていて、そんなに暗い映画に見えない。高橋貞二、田浦正巳の笑いどころもあり、結構楽しい映画という印象に変わった。ついでにDVDの画調といえば『彼岸花』も気になった。小津のカラー映画といえば、アグファカラーの原色が強調された画調のプリントを名画座で見てきた。ところが特に『彼岸花』DVDが、妙に色が渋く、原色よりも中間色を重視した焼付けに感じられた。これはどちらのほうが小津の意図を表わした画調なのだろう。

 さらに、名画座とDVDの違いというか、余計な一言を。ネットなどでの意見を見ていると、小津映画をDVD・ヴィデオ・TVなどで見ている人たちも多いようだ。TVモニターやパソコンで、ひとり黙々と見ている彼らは、並木座や文芸坐(新しいほうではない)の満員の観客たちが爆笑に次ぐ爆笑で後期小津映画を見ていることが、果たして理解できるだろうか。その喜劇性ゆえ満座の共感あふれる爆笑の中で見るのと、沈黙の中で視聴するのと、それは同じ映画なのだろうか。喜劇作家でもある小津は、TVモニターの中でも実感されるのだろうか。

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:50 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(8)

小津漬の味10 <小津家の兄妹>あるいはまとめに走らない、まとめ

 あまり小津が好きとは思えない、元松竹助監督・鈴木清順『東京流れ者』は、実は小津大意識大会なのではないか。
 まずストーリーが、「親分と一緒にいるだけで幸せ」な子分・渡哲也が、庄内、佐世保、と地方を<流れる>話。行く先々でトラブルに巻き込まれる。最後は親(分)の死で終わる。親でなく子が流れるわけである。親・子逆転、東京・地方逆転の清順版『東京物語』。
 東京タワーと大きな枯れ木のツーショットは、『秋日和』の最初のショットたちを思わせる。
雪の中の赤い郵便ポスト、赤いスーツ、とやたらと点描される赤は『彼岸花』の赤いヤカンを思わせる。
天井を区切る独特な赤いライトは『秋刀魚の味』の岸田今日子のトリスバーの、天井近くの赤いライトを想起させる。ネオンサインのみで画面を埋めるのは、小津の看板好みを思い出させる。
 最後に死ぬ、裏切り者の親分に、後期小津常連で、小津に「ちょいと似てる」北竜二。小津殺しか。
 そしてこの『東京流れ者』、清順にしては、異様にローアングルが多い気がするのね(笑)。
 そもそも、小津安と清順は、世界娯楽映画史上、どちらかが1位か2位かというくらい、ショットとショットのつながり、シーンとシーンのつながりが「でたらめ」というより、「デジタル」な、かつ極めてユニークな映像重視の映画作家であり、なおかつ意図的なまでの原色重視なのだから、結果として似てくる場合もあるのかもしれない。
 なお、鈴木清順のインタヴュー記事で印象に残っているのは、小津との係わり合いを聞かれて、助監督仲間で安酒を飲んでいたら、小津がやってきて、もっといい酒を飲めといわれたという。助監督の安い給料で飲める酒を飲んでいたのに、金持ちの巨匠にそう言われて、若き清順たちは反発したという。同じような話を山田洋次も回想している。助監督仲間と安い食事をしていると、やはり小津が、いいものを食え、といったという。山田たちも助監督の安い給料で食べるような食事を・・・・以下同文。

 ひょっとしたら、小津映画のことを、日本で一番まともに(笑)考えているのではないかと思いつつある今日この頃、かつてのデジタル小津展ならぬ、電波系小津論としては、ただただ率直に小津の発する電波を受け止めているだけなのであるが。もっとも、電波を受けている、という人は多いがその電波は他人には見えないことも多い(笑)。
 謎めいた小津映画の中でも、生涯独身の小津がなぜ、かくも結婚問題にこだわるのか、というのも疑問のひとつ。いわゆる、他人の芝生は青いというやつか。そこで思い返してみると、小津映画の結婚とは、普通の、いわゆる「結婚」とは、違うのではないかと。後期小津映画は、おおむね結婚問題を中心として話が転がっていく。といっても、それは必ず娘の結婚であり、息子の結婚ではない。娘も『秋刀魚の味』の笠智衆が推奨するお婿さんを取る方法はとらない。息子も結婚後必ず親と同居しない。『秋日和』の三上真一郎も、父・北竜二が自分たち新婚夫婦の家に同居することを、はっきり「邪魔」だと明言する。
 つまり、どういう結婚かというと、その結果、狭義的には家族が増える結婚ではないということだ。必ず家族から人が減る結婚なのだ。必ず人が減ることが、その家族にとって、残される家族構成員にとって、慶事であるかどうか、かなり微妙な問題である。時によって、ヒロインの結婚相手の男をまったく映さないのも、そうしたことではないのか(『晩春』『秋刀魚の味』)。
 ミッキーナルセが一瞬の交通事故で済ませるようなことを、小津安は丸まる一本の映画分の時間を使って描写している、ということではないか。
 みんなが寄ってたかって、酒と食事を楽しみつつ、家族を減らすべく相談しあっている。
 ミッキー映画の不幸が瞬殺の早漏傾向なら、小津映画の「不幸」は遅漏気味。小津安遅漏。礼服を通して「結婚式」と「葬式」がつながる、あれはギャグではなかったのだ(『彼岸花』『秋刀魚の味』)。
 特に『晩春』の笠や『秋日和』の原節は、一人取り残されることにより、家族という括りそのものすら消滅してしまう。この笠や原節が再婚しないのは、そんなことをしたら<家族が増えてしまう>からなのだ。『秋刀魚の味』の長男夫婦が子供が出来ないようにしているのも、『麦秋』の、現状なら近所の二本柳寛家に原節が嫁げば、擬似家族としてのこの二家族に家族がそれぞれ増えてしまう、だから二本柳家ははるか遠くの秋田に行くのである。たらこ、が、たの字、としてタヴー視されるのは(『秋日和』)、その圧倒的な卵の量によるのではないか(勿論当時たらこが関東では新奇の食べ物で、その新奇さゆえにはしたない感じをある種の女性にもたれていたということも推測されるのだが)。
 小津の家族たちは執拗に加算を禁じられている。それは、たとえば、小津安映画のうなぎ屋に昼飯時にほとんど客がいなかったり、『東京暮色』の藤原釜足のラーメン屋にはいつ行っても、ほとんど客がいなかったりすることと関係があるのだろうか。で、あるならば、それは、世の無常とは、たぶん、関係ないのだろう。
 小津安「二」郎の映画ではしばしば「二」男坊が「二」枚目の役割を持つ。そしてこの「二」男坊にはみんな、子供がいない。『早春』の正「二」は幼くして子供を亡くした。『東京暮色』の憲「二」は、逃げ回っているうちに子供を堕ろされた。もしくは、若くてまだ独身か、子供が出来る以前に戦死しているとか。小津映画にあっては、子供を持つことは長男にのみ許されているかのようだ。何らかの禁忌が存在するかのような徹底ぶりではないだろうか。
 日本的なホームドラマの典型として、小津映画は、家族のあらゆる喜怒哀楽、冠婚葬祭を描いて、日本人の共感、ないし郷愁を誘ってきた。
 ただ、一点を除いて。
 そう、小津映画では、いちどとして、新たな生命が家族にもたらされたことはないのだ。
 『東京暮色』の有馬稲子は、妊娠したとたん、まるで懲罰を受けるがごとく、恋人に愛想をつかされ、堕胎し、自殺していく。繰り返す。小津の家族たちは執拗に加算を禁じられている。
 「東京には人が多すぎる」。そういう子供たちの嘆きを、『一人息子』の飯田蝶子も『東京物語』の東野英治郎も、負け犬の言い訳扱いしていたが、小津にあっては、言い訳レヴェルの問題ではなかったのだ。小津映画は、一貫して「人が多すぎる」ことを排除しよう排除しようとしてきていたのだった。

他社作品『宗方姉妹』『浮草』『小早川家の秋』では、そういう<いつもの、結婚話>は、とらない。とらないけれど、それがうまく行っているか、というときわめて疑問だ。この三作が、どういう話か、というと、あやふやで、よくわからない。見た後、ストーリーはあまり印象に残らない。話の核がない感じだ。
 わざわざの他社作品だから<いつもの話>を封印したのは、わかる。わかるが、だからといって、目覚しい冒険というか新たな試みをするわけでもなく(もちろん個々ではそれなりにしているのだが)、かといって<お客さん>として、せいぜいサーヴィスにこれ勤める、というわけでもない。成型しきっていない豆腐という感じがする。あるいは、豆腐屋がとんかつ屋に出張してしまった感じか。
 この三作は、偶然か関西色が強い。喫茶店経営、ドサ回り芸人、老舗個人商店、と小津安らしからぬ主人公たち(なぜかミッキー的でもある)、高峰秀子、上原謙、鴈治郎、京マチ、若尾、など当然のことながら小津安らしからぬ俳優たち(小津安と言うよりは、若尾を除いてミッキー的な俳優たち)。『宗方姉妹』の高峰秀子は、浮き過ぎのあまりミッキー、木下に比べるのもおろかなコント・レヴェル、『浮草』の若尾文子は大映の定食監督の凡庸な演出に劣る。『小早川家の秋』のモリシゲは東宝の定食監督の凡庸な演出に劣る。う~ん、小津、演出が下手過ぎや。小津は、高峰、若尾、モリシゲらの、個性的なスタア俳優の味を生かすことが出来ない。出張では力が出せない内弁慶か。

 『晩春』『麦秋』の紀子に対する友人アヤの役割を演じるのが『早春』では中北千枝子であった。歴代アヤがヒロインに結婚をけしかけるだけの役割に対して、中北はいかに夫をうまく管理するかについて指南する。アヤ上級者。考えてみれば、この映画でヒロインにアドヴァイスするのは、母・浦辺粂子にしても、隣人・杉村春子にしても、<女の不幸の総合商社>ミッキーナルセのテダレでもある。
 対する池部良は、東宝と藤本プロの看板スタアでありながら、なぜか一本もミッキーとはかかわっていない(もし理由があるとすれば、あんまり駄目男ぶりがサマになりそうもないところか)。ミッキー慣れしていない彼が、ミッキーのテダレたちに負けるのは道理である。つまり、<美人女優キラー>の彼が、淡島を含めた四人の非・美人女優を相手にしなければならないのだから、慣れないのもやむをえない。選択の余地なく(笑)彼は岸恵子と割りない仲になるのだが、負け戦になることはあらかじめ決められていたわけで。戦後作品の小津が、ちょっとでも暗い話になると必ずミッキーに似てしまう、そのひとつ。

 小津映画では、しばしば知人・スタッフの名前が内輪ギャグ的に使われるようだ。『お早よう』では、小学校の女性教師が授業でしりとり遊びを教える。指名する生徒の名前は「厚田さん」「清水さん」。考えられない頓珍漢な答えで笑いを誘う。小津のキャメラ番・厚田雄春と、盟友・清水宏だろうか。あるいは戦前からのキネ旬同人・映画評論家の清水千代太、ないし清水晶(キネ旬に『お早よう』評を執筆)が撮影を取材に来ていたのだろうか。きっと現場では、吹き出し笑いをこらえるような内輪受けを誘ったのかもしれない。
 『秋刀魚の味』では、北竜二が同窓生の名前を「下河原」「宮川」という(あと一人は誰だっけ)。下河原は、他社作品『宗方姉妹』『浮草』『小早川家の秋』の美術監督・下河原友雄と、『浮草』撮影・宮川一夫だろうか。松竹作品である『秋刀魚の味』で、かつての他社スタッフの名を「同窓生」として出す。
 『麦秋』で、原節・淡島の女学校時代の同級生の話題が出る。東北弁のササキさん、ニックネームがズーさん。松竹の助監督・監督の佐々木康は、そのズーズー弁からズーさんというあだ名だった。
 『浮草』で劇団が解散する。これからの身の振り方を語るうち、ある団員は「妹の連れ合いが浜松で漬物屋をやっているので」そこに身を寄せるという。木下恵介・忠司・楠田芳子兄妹の実家は、浜松の漬物屋である。
 『早春』の中北千枝子は、役名・富永「栄(さかえ)」。女性名としてはやや、珍しい名前か。千葉伸夫著「小津安二郎と20世紀」によると、川崎長太郎の小説「裸木」は、小津安二郎とその愛人をモデルにした小説で、彼女は後々も、小津とその母親と親しくしていたという。小津の通帳や印鑑を預かる仲だったとか。彼女の名前は森「栄」。わざわざ中北を呼んだのは、そのキャラクターが似ていたのだろうか。
 もっとも『秋日和』で洋裁学校の本音ズケズケ・南美江の役名も桑田「栄」。『東京暮色』の山田五十鈴を寝取った中村伸郎も相馬「栄」(小沢栄太郎は、もともとは小沢栄であったが)。
 で、ぼくがちょっと、これは、と疑惑視(笑)しているのが、『麦秋』で佐野周二が話題にし、『秋日和』で菅原通済と中村伸郎が寿司を注文するシーン。寿司ネタをエロネタにしてるのだが、はまぐりを略して、ハマ、ハマ、と連発する。いや、このシーン見た、小津の伝道師でもある義妹・小津ハマさんは、どう思ったかな、と。
 当時はもちろん、セクハラという言葉、概念はなく、そういう下ネタはむしろ<紳士のたしなみ>ですらあった時代だろうから、もちろんハマさんへの他意はないうえでの、言葉の遊びだったのではないだろうか。もちろん松竹作品では必ず付く美術監督・「浜」田辰雄というのもある。小津の義妹を知らないスタッフ的には、こちらのほうが本命か。

 『小早川家の秋』は軽く作られ、さくさく進むが、深みは、雁治郎の据わった目の中にのみある。
 浪花千栄子と焼けぼっくいの、中村雁治郎、その彼が自宅で使ううちわは、漢字一字「浪」を大きくデザイン化したもの。新珠三千代に、浪花のことを追及されるときも「浪」の字のうちわをパタパタ。まあ『東京物語』で、足おっぴろげて、高峰秀子の顔写真のうちわで、またぐらに風を送った杉村春子には及ばないが。
 雁治郎の酒屋の後とり、小林「桂」樹が〆ている酒屋用前掛け。よく見ると大きく書かれているブランド名は「月桂冠」ならぬ、「月の桂」。この映画には 小津的「二」付き「二」枚目がいないと思ったら、団令子の付き合っているアメリカ人の名前がジョー「ジ」!
 新珠が、意外といい。しつっこく父を追及するときも、怖くならず、感じがいい。ただ、泣いて、顔で手を覆う小津的定番のしぐさのとき、手で隠しきれない顔の部分にしわしわが。本気で顔ゆがめてるんだ。なぜ小津が泣き顔を手で覆わせているか、新珠は、おそらく、わかっていない。そして、それを小津演出は修正しない。
 ラスト、雁治郎の葬列で、原節と司葉子は、札幌の宝田明に嫁ぐ決心の司について話し合う。あなたがいなくなると寂しくなるわ、のあなたは雁治郎でなく司だ。つまり、ここでも、小津にとって、結婚と死は葬列で同列に語られている。小津映画にあって、結婚とは死の比喩であることがわかるだろう。原節が再婚しないのも、やはりそんなことをすると<家族が増えてしまう>ゆえに、ありえないことなのだ。
 ラストは小津映画には珍しく、笠智衆・望月優子夫婦の「感慨」があまりにストレート。かなり多くのカラスも配置されており、ベタといえばあまりにベタ。ここらへんに<他社出向>故のおもねり、ないし小冒険の気配が感じられる。あまりに中途半端で、いかにも内弁慶なのであるが。
 日本映画黄金期のONコンビというべき、小津と成瀬について。成瀬映画には、泣かせたくないのヨ笑わせたいのヨ、でも物語の基本は悲劇、という場合が多いが、それは小津映画にも当てはまるだろう。
 中途半端といえば中途半端、あれもこれものいいとこ取りといえばそうだろう。それが人生のリアル、という見方もあるだろう。

 なお、後日、チェーンの居酒屋でメニューを見ていたら、本当にあったのですね!「月の桂」が。早速頼みました。「発泡活性本醸造」と角書きされた「月の桂 にごり酒」は京都伏見の「株式会社増田徳兵衛商店」のもの。『小早川家の秋』の舞台は京都伏見、小早川酒造の当主・雁治郎の名前は万兵衛だった。
 「月桂冠」と小林「桂」樹をもじった親父ギャグか、と軽く考えていたら実在していたとは。ふりかえってみれば、新聞は毎朝、大学は東都、と大部分の日本映画が企業名などを仮名で通すなか、小津映画のみが大学名、企業名、ブランド名を実名でやってきた。その一環で。もっとも、〆ているのが小林「桂」樹だから、ギャグであることは間違いない。
 小津好き、酒好きとしては、ダイヤ菊に次ぐ指定銘柄になりそうだ。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:45 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(1) | Comments(0)

大曽根辰保「修羅桜」

 「嵯峨三智子」阿佐ヶ谷モーニング特集にて。59年松竹京都。
 松竹映画三千本記念映画、というふれこみが、胡散臭くて、いい。
週刊大衆連載の原作、作者がすごい。江戸川乱歩、角田喜久雄、城昌幸、陣出達朗、村上元三、リレー小説か。伝奇時代テイストの内容からすると、角田喜久雄色が濃厚。ほかの四人はそもそも伝奇時代物なんか書いていないはず、特に乱歩は時代物そのものと無縁のイメージ(この五人の全作はもちろん読んでいないのだが)。
 前半ゆったり、後半はしょり気味。ほんの顔見世の五十鈴はともかく、W二世女優サガミチ(主人公森美樹にまとわりつく、あだっぽい女スリ)クワユキ(純情な隠れキリシタン娘)いい。
 サガミチの親分・伴淳がとにかく強い。こんなに強い伴淳というのも珍しい。が、さらに強いのが白塗りの悪役・近衛十四郎。その群を抜く抜刀術には、やはり目を見張る。こんなに強い近衛が、やさ男兄弟の森美樹、松本錦四郎に最後は負けるのが、まったく解せない。
 近衛の死に際は近衛の顔のアップ、本当は強い近衛に報いたショットだった。この近衛がなぜ白塗りかというと、たぶん色黒の近衛に、血の気のない蒼白白面の殺し屋を演じさせるためだったろうが、白塗りは白塗り。まあ、白塗りの松方弘樹ほど不自然ではないけど。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 09:09 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

倉橋良介「忠臣蔵 暁の陣太鼓」

 「嵯峨三智子」阿佐ヶ谷モーニング特集にて。58年松竹京都。主演森美樹。
 前半は中山安兵衛の「血煙高田馬場」、後半は堀部安兵衛の「忠臣蔵」。一粒で二度おいしいはずだが・・・・まあ、それなり。
この監督はマキノの極め付きを見ているのかどうか知らないが、それなりに健闘しているというべきか。サガミチはこの両方の安兵衛にからむ、あだっぽい姉御。ゴージャス。
 俵星玄馬役・近衛十四郎が豪快に助演する(この時期の松竹京都時代劇では、近衛十四郎のだんながなにげに脇役出演しているので楽しい)。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 09:08 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

ミュリエル・バルベリ「優雅なハリネズミ」

 昨秋に早川書房から出版されたフランス小説の翻訳(訳・河村真紀子)。当時もっと話題になる本かと思ったが、さほど知られてはいないようだ。帯のコピーを書き写すと、

 フランスの「本屋大賞」受賞!
   日本人紳士オヅさんとの出会いが、パリの天才少女と アパルトマン管理人の人生を変える。
 口コミからはじまり、世界的なミリオンセラーに成長した 日本への愛にあふれる奇蹟の物語。

が、表で、帯の裏は、

 ★本書を読み解くキーワード
 猫 レッド・オクトーバーを追え 椿 マルクス セップク 小津安二郎 芭蕉 カント 侘 ヒカルの  碁 戦争と平和 ブレードランナー 風とともに去りぬ エミネム 観葉植物 アンナ・カレーニナ 谷口 ジロー 宗方姉妹 ミラーニューロン 苔寺 茶 夏の雨   (引用に際して一部省略)
 
 アパルトマン(日本で言えば高級マンション)の女管理人ルネは、図書館員のアンジェル(!)に、ヴィム・ヴェンダースの初期作品が好きだと話す。「アンジェルは、へえ、じゃあ、<東京画>は見ました? と私に訊きました。そして、<東京画>は小津監督に捧げられたすばらしいドキュメンタリー映画で、それを観るともう絶対に小津監督を知りたくなるのだと言いました。その言葉どおり、私は小津監督に夢中になり、人生で始めて映画というものに心のそこから笑い、そして泣きました。」
 これと前後する文章を引用すれば、「午後九時、ビデオデッキに小津監督の映画<宗方姉妹>のカセットを入れる。小津監督の映画は今月これで十本目です。なぜ十本も? それは小津監督が私を生物学的運命から救ってくれた天才だからです」。
 すごいほれ込みようだけど、いま引用していて、思ったのはフランス人がいちいち名前に監督つけるかとか、パリの図書館には少なくとも十本の小津があるのかとか。このルネも、もともと"日本びいき"のようだ。緑茶を飲む時、コーヒーも同時に淹れる。飲むのは緑茶、コーヒーは飲まずに香りだけ楽しむ。なんて贅沢・・・・らしいんだけど。緑茶には緑茶のほのかな香りがあって、コーヒーと一緒だったら、緑茶の香りはぶち壊しだろう。日本人には考えられない飲み方だ。でも、フランス人的には小粋でおしゃれな飲み方なのか(笑)。
 もっとも昔、喫茶店でコーヒーを頼んだら、飲んだあとに昆布茶を出されたことがあって閉口したが(でも、飲んだ)ま、日本人もあまり大きなことは言えないか。

 もう一人のヒロイン、パロマは日記好き。「だから決めたのです。この学年が終わって十三歳になる日、つまり、次の六月十六日に自殺します。(中略)実際わたしにとって大切なのは死ぬという行為ではなくて、死ぬための方法です。わたしの日本びいきな部分で考えれば、もちろんセップクです。"日本びいき"というのはつまり、日本に対する憧れの気持ちで考えると、ということです。わたしは中学校の第四学年だから第二外国語があって、もちろん日本語を選択しています。(中略)あと何ヶ月かしたら、好きなマンガを原文で読めればいいなと思っています。(中略)でもそれは、運命の日が近づくということでもあります。」
 このすぐあと、セップクは苦しそうだからヤメ、で、毎日ママの睡眠薬を一錠ずつ盗んでいると、告白する。ころころ考えが変わる、夢見る乙女のかわいい日記ですな。著者は小津の誕生日と死んだ日が同じというエピソードを知って、こういう設定にしたのだろうか。

 この二人のアパルトマンに、日本人の老紳士オヅさんがやってきて、実は小津監督の遠い親戚だという彼は、たちまち二人のアイドルになる。この関係性は、まるで少女漫画みたい。ここから先のビター・スウィートな物語は、なかなか読ませる。「フランスで今世紀最大のベストセラー」というのがいまいちどういうことなのかわからないけれど、中身の面白さは保証しますぜ。って、ぼくが保証しても(笑)。誰かの評でも、本書のもっとも日本的な部分は、その少女趣味にあるのでは、というのを読んだ記憶があるが、その通りだと思う。大人の物語でありつつ、日本的な少女趣味を濃厚に漂わせている快作。大体小津ファンの住むアパルトマンに小津の親戚の老紳士が来るなんて設定は、太田和彦か、夢見る乙女しか考えないだろう。「これは友達の話なんですが」ではじまる友達の話はたいていその人自身のことだとすると、小津の親戚、ということは著者にとっては小津の分身といっていいのだろうか。そう思って読むと、日本人のイメージする小津とオヅさんの乖離がとても面白い。文科系女子のカルチャー批評でありつつ、優れて面白い物語なのだ。
 訳者あとがきによると、翻訳刊行の昨秋の時点で、著者は夫ともども念願の京都に長期滞在しているという。そうか、小津の中でも特に「宗方姉妹」にこだわるのも、京都好きのせいか。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-18 06:15 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津安二郎「宗方姉妹」

 前にミュリエル・バルベリの小説「優雅なハリネズミ」を読んだ際、この女性フランス人著者が、数ある小津映画の中から、特に「宗方姉妹」をフィーチャーしているのを見て、頭の中に?マーク。「宗方姉妹」は、特に高峰秀子のぶりっ子演技が鼻について、とにかく見苦しかった記憶がある。どすの聞いた低音の声で、顔も若いころから大人の美人顔、つまり幼い愛らしさが徹底的に似合わない人で、しかも頭のよい人が、いやいや、無理してぶりっ子演技をしている暑苦しさが感じられたもので。高峰秀子がまた、演技がうまくて、100パーの演技力で、ぶりっ子を完全カバーしているのだから、暑苦しささらに二倍増し。
 しかし、著者の「宗方姉妹」への思い入れに突き動かされて(笑)DVDにて、再見いたしました。
 <そういうもの>と、覚悟を決めて、見てみると、デコちゃんの演技も、そうは苦にならない(笑)。むしろ、これは日本の女優さんではなくて、フランスあたりの女優演技なのだ、と思い込むと、まったく苦にならない(笑)。デコの役は、上原謙の仕事が「かぐや」ということが何のことかわからず、むしろ「ファニチャー」と考えるとわかる<日本語より英語のほうがわかる娘>(笠智衆の言)だし、そういう笠も山村總も英字やドイツ語を読んでいる。上原もフランスへ長期赴任しているし、小津戦後の映画では、最も欧米よりの映画で登場人物についても、フランス人に親しみやすかろう人ばかりの小津映画だ。そして、ストーリーは、成就しなかった恋のカップルが再会して、やけぼっくいになるかならないかの、フランス映画お得意のアムールな展開。見合いがどうしたとか、自分の結婚より親を優先するだとか、他の小津映画の話は、あんまり欧米人にはぴんと来ないこともあるだろうし。
 上原謙がやはり、すばらしい。「淑女は何を忘れたか」の、ほんのゲスト出演を除いて、同じ松竹でありながら、小津映画にはついぞ出演なく、時は流れて新東宝で初の本格出演。しゃべりも小津調の束縛からまったく自由で、上原本来のさわやか好青年の見本みたいなすばらしさ。このフランス帰りの青年実業家と、美老人・笠の合体した姿が「優雅なハリネズミ」の日本人紳士・オヅさんなのかも。と、すると、長女・田中絹代が女管理人ルネに、次女高峰秀子がパロマに発展したのだろうか。さすがに、フランス人にはデコ演技がぶりっ子過ぎて、パロマは13歳という設定になったと。
 山村・田中の家は猫がぞろぞろ、多頭飼いだが、これもバルべりの猫好きには、フィットしたのだろうし。そして、バルべりの<少女まんが脳>から、この映画を見てみると、絹代とデコの姉妹、その父、上原、上原のガールフレンド高杉早苗の立ち位置、関係は、ほとんどそのままで、きわめて少女漫画的ですらある。なんと小津映画が少女漫画そのままの展開をするのだ。そういう視点で見てみると、「宗方姉妹」なかなか快作に見えてきた(笑)。これは、これで、すばらしいぞ、と。小原譲二の撮影は、DVDで見てさえ、美しいし。
 そして出演者、絹代、デコ、上原、高杉早苗、堀雄二、斎藤達雄、坪内美子、河村黎吉、みんなみんな戦前松竹おなじみの面々であり、戦後松竹を離れて、あるいは他社専属やフリーになったものばかり。現役の松竹専属・笠を加えて、これはもはや、本家松竹ですら実現しない、幻の松竹映画そのものではありませんか。みんな、帰らぬ夢なのよ。冒頭の斎藤達雄教授が可笑しい。落語の枕的な登場も面白いし、小津調のしゃべり方が妙にぎこちないのも可笑しい。
 非・松竹組で、藤原釜足はいつもの感じ。安居酒屋の千石規子、この人は若いころからひねたおばさん役の人だが、ここでは珍しく、ひねた若い女の役。柄の悪い、トウの立った女だが、若い女は若い女で。絹代・デコ姉妹が退屈そうに店にいて、客にほとんど愛想を振りまかないバーに比べたら、わたしゃ、こっちのほうがいいわな断然。

 なお、ネットをうろついているときに目に付いたのが「優雅なハリネズミ」本国で映画化、7月公開、とのこと。予告も見たが、日本受けは、本に比べて、いまいちかな。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-18 05:35 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津安二郎「青春の夢いまいづこ」

 京橋にて。「生誕百年 映画女優 田中絹代」大特集。32年、松竹蒲田、無声、20ftp。
 前半は愉快でモダンな青春喜劇。
 江川宇礼雄の愉快な父・武田春郎(「晴曇」では医者の役)が楽しい。押しかけてきた葛城文子・伊達里子母娘を撃退するところは爆笑モノ。
小津映画としては、例外的に<息子の結婚>を扱うが、しかし愉快にその花嫁候補を撃退するところに、一喜劇にとどまらない小津らしさが隠されている?
 家族が増えてはならないのだ。今回は未見だが、「落第はしたけれど」が、例外的に絹代嬢を妻とする高田稔、というのもあるけれどね。もっとも本作でも絹代嬢はベーカリーの看板娘。ほんとは江川といい仲なのだが、落第生・斎藤達雄と同情婚。
 武田・江川の好漢父子、しかし後半の社会人篇では、ラストの江川のヒステリー的びんた連続が、痛々しい。小津の映画の暴力は、いつも度を越えて、痛いものばかりだ。

◎追記◎
小津安二郎 - 青春の夢いまいづこ/Yasujiro Ozu - Where Now Are the Dreams of Youth(1932)

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# by mukashinoeiga | 2009-07-18 04:34 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味・ディープ 笠智衆の巻

 小津安「二」郎映画が、(なぜか)「二」男坊を重視したり、「二」枚目の芸名・役名で「二」に固執したこと、なぜか画面に大きく「2」の字を映すことは、「小津漬の味」に書いた。
 いや、たった今、気づいたんだけど。・・・・。
 小津映画の常連俳優にして、小津映画の一方の象徴でもある、笠智衆。・・・・。
 独特の口調で知られる。・・・・。
「いや、よく見ればぜんぜん似てないがにぃ」
「じゃあ、いずれはお婿さんだにぃ」・・・・。

 語尾でにぃにぃ言わしている・・・・!
 えっ。なに、これ。
 これも小や津ギャグ!?
 考えてみれば、笠智衆、他の監督の映画では、それほどなまりを強調してはいないはずだ。と、思う。・・・・。小津映画でのみ、語尾「にぃ」が突出している気もする。・・・・。
 小津、「にぃにぃ」言わせたいだけなんじゃないの。小津はあてがきで、一語一句脚本どおりにしゃべることを俳優に強要したという。
「いや、よく見ればぜんぜん似てないさ」「ぜんぜん似てない」
「じゃあ、いずれはお婿さんかな」「お婿さんかい」
 上記の台詞回しを小津が気に入るかどうかは別にして、「にぃ」を「回避」するせりふは、いくらだって、書けたはずなのだ。
 もっとも、たぶんギャグでなしに、小津は家族間の会話を、まったく異なる方言の集合体とすることにも、固執する。方言自体に、小津を誘発するものがあることは確かだろう。
 う~ん、小津映画、深い。・・・・(馬鹿)。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-18 03:00 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)