成瀬る7 非成瀬的?傑作「鰯雲」淡島千景木村功桂樹司葉子水野久美新珠三千代見明凡太郎杉村春子鴈次郎

 昔、ぼろぼろのフィルムで見た時はさして印象に残っていななかった作品だが、改めて見たら、実にすばらしい。ぼく的には、成瀬ベストテンに入るクラス。この映画はすばらしい。成瀬映画の中でも、あまり評価されないのが不思議なくらいだ。それとも例によってぼくの映画の見方がおかしいのか。
e0178641_23112524.jpg 『鰯雲』 (1958・原作和田伝・脚色橋本忍)は、いくつかの意味で、いつもの成瀬映画とは違う。
 いつもの町場のごみごみした路地ではなく、田畑が広がる農村部を舞台としている。場所は違っても、やはりさくさくと進行していく快調成瀬ドラマ。
 ヒロイン淡島千景は、新聞記者・木村功の取材に自らの主張を堂々と述べる非成瀬ヒロイン。そして、映画早々からその新聞記者と情事を重ねる。これも成瀬パターンとしては珍しい、未亡人の恋。
 幾組かの男女の恋の成立、というのも成瀬としては異例ではないか。淡島・木村、小林桂樹・司葉子、太刀川寛・水野久美、新珠三千代・見明凡太郎、のそれそれの恋。元夫婦の杉村春子・中村鴈次郎の和解。かくも多くの恋が成就する、異色の成瀬映画。淡島を除いては、すべてハッピーエンド。
 家庭、路地、町内、と、ある意味「密室」ドラマの成瀬としては、珍しい「空間移動」ドラマだ。二つの田舎と街(小田原?)をめぐる三都?物語。田舎では不自由な暮らしを強いられている恋人たちも、都会では自由な独身同士の付き合いが享楽できるだろう。その享受された自由は、やがて田舎にもフィードバックされるだろう。成瀬としてはなんというハッピーエンド。
 脚色・橋本忍としては『コタンの口笛』同様、もっとも低刺激なお話だろうが、成瀬映画としては、なかなかあなどれない。ある意味、かなりモダンな展開となっている。
 この映画では、あまりに多くの登場人物が出て来るのだが、それを成瀬は天才的に裁いて、さくさくと流れるように進行させていく、呆然とするほど見事だ。いま、二時間程度の上映時間で、これだけの人物数・家族数の登場人物を、さばききれる映画作家は世界中探しても、あまりいないのではないか。
 その代わり、細かい登場人物は消える。たとえば、淡島千景のひとり息子は、物語の整合性を最低限保証するだけしか出てこないし、姑・飯田蝶子は途中で消えてしまう。この姑が消えたおかげで、登場人物は、ほぼ善人のみとなる。あるいは、小林桂樹の実母・杉村春子の二度目の夫は、出てこない。この辺の省略の仕方は本当に天才的だ。
 よく映画が長大な原作のダイジェスト版に過ぎなくて、単にあらすじを追うだけの味気ないもの、という批判があるが、成瀬や三隅剣次、違った、三隅研次などの真の映画的天才とも言うべき物語作家はどんなに長い複雑な話でも、すっきりさくさくと魅せ切ってしまうという好例だろう。無論、もうひとりの天才橋本忍の構成もあるだろうが。
 そうして描かれるのは、田舎では実現不可能な、カップル単位の自由な生き方が、都会では簡単に実現してしまう、という「戦後民主主義」の勝利だ。田舎では、みんなから非難される行為(年配の女性たちが若い女を注視して、「ありゃー(もう)男を知り尽くしているからだじゃー」と噂し合う)が、都会では、みんなから温かく見守られることになるだろう(いまみたいに、まるきり没交渉の都会になる、その前段階の街場的都会)。
 そこでは、大げさに言えば人情と友愛的モダニズムの、理想的な都市空間が称揚されている。戦前成瀬のモダニズムと違い、戦後成瀬のこの種のモダニズムは無理なくドラマに接ぎ木されていると思う。 『石中先生行状記』とともに、ここでの成瀬は、おおらかでコミカルな世界を楽しんでいる。
 唯一非成瀬的なヒロイン淡島千景を除いては。さすが意地悪ミッキーだけのことはある。

 以上、1~7と、小津とともに日本映画黄金期のONコンビともいえる成瀬について、くだらない感想を書いてきたが、成瀬に関しては、生誕100年の成瀬特集を京橋フィルムセンターで見た際に書いたもので、その特集で見た映画に限ったメモ書きである。未見作中心に見に行き、同日ならついでに既見作も見た。特集上映のすべてに行ける訳ではないので、見逃した作品、既見ゆえに見送った作品も当然あった。それらについては、書いていない。だから代表作ともいうべき『流れる』や『浮雲』がラインナップされていない、奇妙な成瀬感想文になってしまった。以下で若干の補足をしていきたい。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:23 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback(1) | Comments(4)

成瀬る8 『娘・妻・母』の非・松竹メロ性

 東宝オールスタアによるホームドラマ(1960・脚本・井手俊郎・松山善三)。まあ成瀬としては思い切り肩の力を抜いた企画品だが、オールスタアの出入りをさばく交通整理はさすがで、型どおりの話で見せきってしまう。凡庸な監督がオールスタア映画を手がけると、スタアの交通整理にていっぱいで、肝心の映画がなおざりになることが多いなか、さすがは交通整理の名人・成瀬だ。やはりこの映画を見るのは何度目かだが、それでも楽しめてしまう。もはや、名人の落語みたいなものですな。
 主役は原節子で、当時はそのキスシーンが売りといえば売りだったのだろう。伊豆への慰安旅行のバスが横転して、夫に死なれた原節子は(交通事故が多い成瀬でも、思い切り派手なのがおかしい)仲代達矢とのつかの間の逢瀬のあと、母・三益愛子も込みで引き受けてもらうという実利のため、上原謙のもとに再婚する。このメインの話が、ああ、つくづく成瀬は戦前松竹メロがいやなんだなあ、と苦笑させられる。というより、まるきり合わないのね夢物語は。
 戦前松竹メロドラマの基本は、「いろいろな男がヒロインを狙うけど、でも私(ヒロイン)は純情一筋よ」というもの。実利狙いで玉の輿に乗る原節はいかにも非・松竹メロドラマで。明確に自分の意志で仲代をあきらめ上原との再婚を決めるのは原節子自身である。
 戦前松竹メロドラマは、基本的に、さまざまな苦難を乗り越えてヒロインが純情を貫くというもので、それは松竹史上最大のシリーズ『男はつらいよ』にまで通底している。あのシリーズのマドンナたちは、<フラれる側の男>から見た松竹メロドラマの残滓で、男をヒロインが選ぶ基準が純愛であることは一貫していたのだ。
 成瀬ヒロインは苦難を乗り越えるのをさっぱりとあきらめる。女の側のほうがあきらめるのが、成瀬。あきらめるとはいえ、主体は女性の側にある。そうして、半ば実利で原節が嫁ぐ相手が、戦前松竹メロを代表する上原謙、ミスター・松竹メロその人というキャスティングが、いかにも皮肉で、成瀬らしい。成瀬も上原も大好きなぼくとしては、もうニヤニヤしてしまう。
 逆に、男に振られる形で、主体が女の側にない形で松竹メロを裏切るのが小津。『晩春』『秋刀魚の味』のヒロインは消極的な失恋をしたあと、お見合いで結婚する。『東京暮色』の有馬稲子は男に捨てられて、半ば自殺のような踏み切り事故で命を落とす。『風の中の牝鶏』の虐待される田中絹代。こういうことは成瀬では決して起こらないだろう。同様にリアリズムで松竹メロを拒否しても、男目線の小津、女目線の成瀬というくらいは、違うふたりだ。
 ところで、小津版『エデンの東』の『東京暮色』は『浮雲』の森雅之のパロディみたいな田浦正巳が笑わせ、『早春』は妻と愛人に挟まれた池部良という、まさしく成瀬そのものの設定だし、小津は何かと成瀬を意識している。
 では、かつて「小津はふたり要らない」といわれたという成瀬は小津を意識している映画があるのかというと、続『晩春』とも言うべき『山の音』とともに、まさに本作『娘・妻・母』がそれなのでは。冒頭クレジットのバックは例の荒い麻布?模様だし、『麦秋』の原節のように、同じく原節が買ってきて、夜遅く大人だけで食べる高価なイチゴのケーキとか(その高価なケーキも『麦秋』より安そうなのが成瀬らしい)、『生まれてはみたけれど』同様の8ミリ上映会がさざなみを起し、兄弟からたらいまわしにされかかる老母三益に一番親身になるのが実娘の原節というのは、あからさまに『東京物語』だし、『東京物語』で親を邪険にした杉村春子が今度は子供たちに邪険にされる側に回り、と小津意識大会であると邪推することも可能だ(笑)。ラストカットは、ほとんど唐突に笠智衆だし。そもそも、この映画のメインの話は、兄(一家の家長)森雅之と、その妻・高峰秀子も心配する、原節子の再婚先。原節の結婚話なのだ。小津と違って、みもふたもない成瀬は、ちゃんと原節を再婚させる。しかもいささか実利めいた落ち着き先として。さらに、その相手は、小津が苦手とする?上原謙だ。あからさまな小津への挑発ではないか(妄想モード)。
 ちなみに、今回見たDVDのおまけの予告編、原節、デコちゃんの予告編用のくさいナレーションに爆笑。成瀬の管轄を外れると、とたんにクサくなるのだ(普通、当時の日本映画で予告を作るのは助監督の仕事)。またこのDVDには通常のモノラル音声のほか、<パースペクタ・ステレオフォニック・サウンド>版も選択できるようになっている。これは東宝スコープ用の立体音響として採用された<3チャンネル擬似ステレオ方式>とのこと。どうりでこの映画には、成瀬らしからぬクサいBGMが全編をおおっていたのか、納得。そういうところはちゃんと期待にこたえる成瀬なのだ。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:21 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback(3) | Comments(2)

小津漬の味

小津安二郎映画には、数々の親父ギャグが隠されている?
                by おづおづと・・・・昔の映画 

1 淑女はナニを忘れても「二」は忘れない
   小津映画のヒロインたちと、その恋人たちの名前には、隠された共通点があった!

2 『東京物語』東山千栄子の死因は原節子だった?
   老母・東山千栄子は老人虐待のせいで、殺された?
   老父・笠智衆は、なぜあれほど嫌われているのか?

3 『秋日和』あるいは君の名は
   小津は、自分似の俳優と、原節子の結婚話をニヤニヤ物語る

4 『麦秋』問題、あるいは兄とその妹
   『晩春』の原節子も『麦秋』の原節子も、同じ役名「紀子」
   しかしこの二人、実はギャグともいえるほど正反対で

5 『早春』あるいは金魚の味
   最初から最後まで夏の盛りを描いた映画はなぜ『早春』と題されたか?

6 『秋刀魚の味』あるいは、それを言っちゃあお仕舞いよ
   秋刀魚も出てこないのに、なぜ秋刀魚の味か?
   小津安「二」郎映画の団地は、なぜ必ず「2」号棟であるか?

7 『彼岸花』あるいは紳士は何を忘れたか
   『戸田家の兄妹』の呪い だから、あなたは、とんがらかっちゃだめよ

8 『お早よう』あるいは小津は犬派か猫派か
   誤解される小津 ついに、とうとう、B級映画作家だった小津  

9 『東京暮色』あるいは成瀬は二人要らない 
   成瀬巳喜男とジェームス・ディーンが雑司が谷でめぐり合う

10  <小津家の兄妹> あるいはまとめに走らない、まとめ

11-1 <番外編>ミュリエル・バルベリ「優雅なハリネズミ」
   フランス版「本屋大賞」ベストセラー小説。小津映画ファンの住むパリの
   アパルトマンに、日本人紳士オヅさんがやってきた。

11-2 少女漫画としての『宗方姉妹』
   日本的な少女趣味のバルベリの視点から、『宗方姉妹』を再見すると・・・・

12-1 『青春の夢いまいづこ』
12-2 『母を恋わずや』
12-3 『和製喧嘩友達』


13-1 小津漬の味ディープ・笠智衆の巻
13-2 小津漬の味ディープ 小津の色紙の巻
13-3 小津漬の味ディープ 小津「東京物語」熱海の宿の不思議


◎記事の順番を最適にするため、各記事は、実際の掲載時間を、順次繰り下げてあります。

●近日公開予定●
黒い沢ほどよく明か黒沢明映画の正体
川島あり川島雄三映画の正体
おゲイさん乾杯木下恵介映画の正体
愛と清順の駄目出し鈴木清順映画の正体
彼と彼女と取りマキ~ノたちマキノ雅弘映画の正体
大魔剣三隅研次映画の正体
危険な英夫鈴木英夫映画の正体
ますますムラムラの悶獣増村保造映画の正体
妄想の器橋本忍映画の正体
Vシネの花道90年代最強伝説三池崇史映画の正体
しぃみず学園清水宏映画の正体
溝口賛歌(けんじぃ)溝口健二映画の正体

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:13 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味1 淑女はナニを忘れても「二」は忘れない

 小津安「二」郎映画を、親父ギャグ的視点から読み直すにあたって、まず考えたいのは、不在なる「二」と偏在する「二」の、ふたつの「二」であろう。
 不在なる「二」とはなにか。

e0178641_2240173.jpg その前にここでおもに言う小津安「二」郎映画とは、『淑女は何を忘れたか』から始まり『戸田家の兄妹』を経由し、戦後の『晩春』から遺作の『秋刀魚の味』にいたる小津式ホームドラマを指す。もっとも小津安「二」郎的な映画たちといえよう。
 さて不在なる「二」とは、物語の中心に位置しながら、不在となっている「二」男坊のことである。
 『戸田家の兄妹』の佐分利信演じる昌「二」郎は外地にいて母と妹の不遇を防げず、しかし帰還後彼女たちを救うヒーロー的存在。
 『麦秋』の昌「二」、『東京物語』の同じく昌「二」はともに戦死していて、しかしその不在ゆえに『麦秋』では同級生二本柳寛と妹原節を、『東京物語』では妻原節と老いた両親を、それぞれ結ぶ絆になった。いずれも名前に「二」を持つ「二」男坊である。

 では偏在する「二」とは何か。『淑女は何を忘れたか』から『秋刀魚の味』にいたる安「二」郎映画にあって、ヒロインと仲良くなったり、あるいは結婚してしまう「二」枚目の男たちのことである。具体的に彼らの俳優名を列記しよう。
 佐野周「二」、佐田啓「二」、鶴田浩「二」、「二」本柳寛。
佐野は『淑女は何を忘れたか』で、佐田は『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』で、鶴田は『お茶漬の味』で、「二」本柳は『麦秋』で、ヒロインと仲の良い「二」枚目を演じている。

e0178641_22544467.jpg しかしすべての安「二」郎映画の「二」枚目が芸名に「二」を持つわけではない。その場合はどうなるか。 『戸田家の兄妹』の佐分利信は役名・昌「二」郎、『早春』の池部良は役名・正「二」、『東京暮色』の田浦正巳(有馬稲子をコマす、れっきとした「二」枚目)は役名・憲「二」、すべて「二」なる「二」枚目たち。彼らは二枚目であるだけでなく、おそらく二男坊なのであろう。
 つまり、たいていの小津安「二」郎映画の「二」枚目は、芸名か役名に「二」を持っている。なんという、くだらない(笑)隠しギャグ。
 彼らが特に「二」枚目ではない役を演じるときは「二」は免除される。佐分利は『お茶漬の味』では役名・茂吉、『彼岸花』では役名・渉、『秋日和』では宗一、田浦は『早春』で役名・幸一。
小津と野田高梧は脚本を書くとき、具体的な俳優を決めてから、彼ら彼女らの個性に配慮したあて書きをしているという。完全に意図的ネーミングなのだ。もちろん彼らが、映画の中で必ずしも下の名前を呼ばれるわけではないが、配役表にはそう明記されている。
 さらに主役だけではなく、小津安「二」郎が愛した常連出演者には、めったやたらと、「二」がつく芸名の持ち主が多い。
 突貫小僧戦後青年版ともいうべき「二」枚目半ゆえに正確にはどの娘とも結びつかないが、愛すべき好青年高橋貞「二」、お茶らけた戯画としての北竜「二」(娘同然の後妻をもらったり、ただの候補に終わったにしろ仮にも、あの原節子の再婚相手に擬せられた小津的親父トリオ随一の"艶福家")、みんな「二」枚目は「二」の名前を持つ。
 後期作常連の須賀不「二」男。増田順「二」もいる。戦前でも小津安「二」郎映画に主演作「二」本の岡譲「二」。愛すべき大山健「二」というのも忘れちゃいけない。
 下手な本職俳優よりも愛された菅原通(つう=2)済を、加えて、これが偶然で通りますか、どうか。『早春』での彼の役名は「菅井のツーさん」であり、小津は確実に意識しているはずなのだ。
 特に「二」本柳寛なんて、アクロバティックな(?)裏技を使ってまで。でもその裏技のせいでぼくたちはたいへん魅力的な「二」本柳寛を『麦秋』で見ることができるわけなのですね。

 さらに言えば芸名に「二」を持つ「二」枚目は、役名に絶対「二」はつかない。全部はあげないが、幸一、正彦、平一郎、謙吉、宗太郎、周一、などだ。例外は戦前岡譲「二」の役名・襄「二」(『非常線の女』)、でもこれはこれで「二」の二「乗」てな駄洒落かと思われますな。また岡田時彦なども周「二」、謙「二」などの役名を演じており、実は安「二」郎、戦前からしばしばやっておるのです。
 ちなみに『晩春』役名・昌一の宇佐美淳、『宗方姉妹』役名・宏の上原謙、『秋刀魚の味』役名・豊の吉田輝雄らが、ヒロインと思い思われでありながら結局失恋し合うのは、役名にも芸名にも「二」がないせいなのだ!
こんなどうでもよい親父ギャグを人知れず行うのは世界広しと言えど小津安「二」郎くらいのものだろう。
 ただし、芸名に「二」がつくのは、松竹映画の俳優自体に多いことは確か。岡譲「二」あたりがルーツか。まさか快優・大山健「二」にちなんだわけではあるまい。佐野周「二」の居候だった佐田啓「二」が佐野の名前を引き継いだあたりがきっかけか。松竹的「二」枚目は「金も力もなかりけり」なやさ男が主流であり、それに「~二」という名前が似つかわしかったのか。モダンで、しかしマッチョではない好青年。長男に田舎で家を継いでもらって、余り者の二男は都会に出てくる。その都会の優男に「~二」という名前がピッタリだった、というのが松竹映画二枚目のコンセプトか(似たような名前で「~次」では、時代劇調になり、モダンさに欠けると判断されたのか。三井弘次を参照されたい)。
 しかし小津安「二」郎が、徹底して「二」枚目の芸名・役名で「二」に固執したのは事実である。
 他社出張作品『宗方姉妹』『浮草』『小早川家の秋』には、なぜか、「二」なる「二」枚目は出てこない。『宗方姉妹』は原作があったせいかとも思えるが、ついてもよさそうな『浮草』の川口浩、『小早川家』の宝田明の役名にも「二」はつかない。もっとも川口浩は一粒種という設定だから、「二」がつくわけはないか。他社では親父ギャグを遠慮したのか、調子を変えようとしたのか。いずれにしろこの隠しギャグは松竹映画の小津にのみ固有のようだ。
                
e0178641_2241377.jpg では、「娘たち」は、どうか。
 小津ヒロインたちの役名で、戦前戦後を通じて繰り返し登場し、印象的なのは「節子」「紀子」「時子」。
 「節子」が『淑女は何を忘れたか』以来五回、「紀子」が『晩春』以来三回、「時子」が『非常線の女』以来四回。
 別に小津映画を代表する女優というべき原「節子」は『晩春』以来六回の出演数を誇る。さらに『秋刀魚の味』には松竹の新人女優・牧「紀」子も出演している。
 多分にヒロインの年長の関係者として、「秋子」と言うのも多い。「秋子」は『風の中の牝鶏』以来五回。
 驚くべき?ことには、「節」「紀」「時」は、ほぼ同じ意味なのだ。時、もしくは時期時節を指す。「秋子」だって「春子」「夏子」「冬子」がないのになぜか多い。ここでさらに愕然となるのは「秋」は「とき」とも読むことだ。「秋」と書いて「とき」は「重要な時期」という意味。
 つまり、ほとんどの小津ヒロインは「同じ名前」なのだった。なんと。
 小津安「二」郎的「二」枚目の名前が「二」ばかり、「二」男坊ばかりというのは単に内輪ギャグとしても、このヒロイン名への固執は何だろう。女は移ろう季節、時節の象徴ということなのか。 
 小津映画の父親のおはこの科白「もう、そろそろ、もうそろそろ、嫁(い)かないと」とセットになった名前ということなのか。

 広辞苑をひも解いてみると、「紀」の説明に「中国では一回り12年」とあり、「節」の説明に「節季、すなわち一年を12ヶ月に分けた各月の前半の称」とあり、「時」の説明に「一昼夜の区分。現在では午前と午後をおのおの12等分。昔は十二辰刻が広く行われ、午前午後をそれぞれ6等分」とある。中国、その影響下の日本において「時」は12という数字と密接なつながりを持つ。
 小津のヒロインたちがしばしば二十四歳であるのは、当時の結婚適齢期「上限」であるという「ドラマ性」ばかりでなく、それが12の倍数だからかもしれない。「節」季は、二十四「節」季あり、一日は二十四「時」間。時節が一回りし、次のステージに進まなければならない、その区切りがたまたま、当時の結婚適齢期に一致したことが、小津映画が結婚問題に「こだわる」理由のひとつと、推測される。あるいは、いわゆる結婚適齢期そのものが、こうした時間の制度に呪縛された結果の産物なのかもしれない。その呪縛は、勿論現在では効力を失っているが。
 これも但し書きがつくが、上記の女性名は小津以外の松竹映画(および他社映画)でもたびたび耳にした記憶があり、これまた松竹映画のブランド?的な役名、あるいは戦前日本の流行りの名前のようにも思える。この「松竹的好み」(男優芸名の「二」にしても、女優役名の偏向にしても)を先導したのは、城戸四郎なのか、脚本部長だった野田高梧なのか、小津安「二」郎の「陰謀」なのか、それとも松竹における集団的無意識?なのか、興味深いといえば興味深い。
 ただ、小津がより強くこだわっているのは確実だろう。

 小津が60回め還暦の誕生日、しかも12月12日のその日になくなるという、不謹慎を承知の上で言うと、最大の小津ギャグもここに、兆候があったのか。
 その日が近づくと、小津の頭の中では次のようなせりふがリフレインしていたのだろう。
「もう、そろそろ、もうそろそろ、逝かないと」
 不謹慎ついでに、だから、死亡時刻60回目還暦12121240分、というのは、「ちょいと」長生きし過ぎたのではないだろうか。

What Did the Lady Forget? / 淑女は何を忘れたか (1937)

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:11 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味2 『東京物語』東山千栄子の死因は原節子だった?

 まさに「意外な犯人」というべきではないか。原節によるセツハラ。節子の嫌がらせ。
 ここで時系列にそって、検証してみよう。

一日目    笠智衆・東山の老夫婦、熱海の旅館へ
その夜    旅館の混雑、若者たちの宵っ張りの遊びの雑音で、眠り浅し
二日目朝   前夜あまり寝られず、東山、海岸の桟橋でめまい
その午後   旅館に辟易して、長女・杉村春子の美容院に戻るが、夜七時から講習会番で「とうとう、宿無し」になる
その夕方   おじいさんは、旧友・十朱久雄を訪ね、おばあさんは、原節のアパートへ
深夜12時頃 桜むつ子の居酒屋で、笠・十朱・東野、邪険にされる。「もう12時よ、帰ってよ」と桜むつ子
深夜12時  原節のアパート。時計が12時を告げるとき、原節は東山を肩叩き。会話を交わして、やっと寝る
その深夜   笠・東野、杉村宅に帰宅。ののしられる
三日目朝   原節の出勤に合わせて、東山、アパートを出る   
その夜21時 尾道行き夜行列車に乗る
四日目    東山、列車内で体調悪化、三男の大坂志郎を頼って大阪下車


Tokyo Story (1953) [Subtitulos Español & Inglés/Spanish & English Subtitles]

◎追記◎以下の「裁判」コントは、被告はもちろん原節子検事は丹波哲郎の声音を脳内に思い浮かべて、読んでいただくと、いっそう楽しめるかと(笑)。

「つまり、被告は、前夜寝不足で、ふらふらの68歳の老婦人を、真夜中まで寝かせなかったのですね。老人虐待じゃないですか」
「いーえ。おかあさまは大変お元気で、あたくしが何度かもう、寝ましょうといっても、ちっとも眠いといった風には。前の晩睡眠不足だったなんて、あたくし、一向に」
「夜更かしのあなたに遠慮して、眠いと言い出せなかったんじゃないですか」
「いーえ。おかあさま大変お元気で。あたくし、寝不足になんてちっとも見えませんでしたわ」
「それは脚本や演出がでたらめということですか」
「いーえ。脚本などというものは、あたくし、一向に」
「会話に『夕べは音がうるそうて、ちっとも眠れんかったんよ』という話がなかったですか」
「いーえ。存じません」
「仮に前夜寝不足でないにしても、いいですか、当時の田舎の老婦人は普段、今よりももっと早く、そう遅くとも9・10時頃には床についていたのではありませんか。その上でさらに前夜は」
「異議あり。当時の田舎の老婦人の就寝時間など、何の根拠もなく、また当該老女の普段の睡眠習慣も不明で、全くの当て推量に過ぎません」
「異議を認めます」
「では、夜の夜中に、寝かせずに肩叩きをするのは、かえって老体への負担になるのではありませんか」
「異議あり。夜中に爪を切ると親の死に目に会えない、という俗諺はありますが、夜中の肩叩きは人生の肩叩き、という俗諺などありません。第一科学的根拠がありません」
「異議を認めます」
旅館での寝不足、次の夜の夜更かし、さらに三日目の夜行列車の旅、という老人にとって、体のバランスを崩すだろう強行日程が、老婦人の死期を早めたのではないですか」
「さあ、あたくし」
「異議あり。熱海行きと、尾道帰郷の計画、実行には被告は全く関与していません」
「異議を認めます」
「では。あなたの義父は、あなたのアパートには、ひとりしか泊まれない、だからお前だけ泊まれ、と義母に言いましたね。おかしいと思いませんか」
「ええ、それは、あたくしも後で聞いておかしいと思いました」
「なぜですか」
「その前にいらしたときに、あたくしの亡夫・昌二が、電車が無くなったからと、お酔いになったお友達を、この部屋に連れてきたことがあった、とおとうさまたちに言ったことがあるからです」
「つまり、ご主人のお友達が何名なのかあなたは言わなかったけれども、最小一名にしても、あなたの部屋には、あなた、ご主人、そのお友達と、最低三人は泊まれたはずだ、と。当然ご両親は知っていたはずなのに、なぜ義父は、一人しか、泊まれないから、などと」
「おかあさま、大変豊かであられて、ま、冗談ですけど(笑)」
「冗談に紛らせているけれど、あなた、その理由を知っているんじゃないですか」
「いーえ。あたくしが。どんな理由ですかしら」
「つまり義父はお酒を飲みたかったのではないですか。あなたのところに泊まってはせいぜいお銚子で一本二本。女二人は飲まない。景気が悪いことおびただしい。十朱久雄ら友人と痛飲したい。そこで、義母をあなたに押し付けた」
「はあ。ですが、それはおとうさまのお考えだったかもしれないことであって、あたくしは、一向に」
「いや、何をいいたいかというとですね、あなたと義父の間になんらかの共犯関係」
「異議あり」
「つまり、あなたの名前は紀子です。芸名は節子。本名は昌江。おお、だんなさんの名前は昌二でしたね。いや、それはともかく、『紀』『節』は『時』を意味します。そして、義父は老婦人の形見としてあなたに彼女の懐中時計を渡します。これはどういうことでしょう」
「さあ。おっしゃる意味がわかりかねます」
「普通女性から女性への形見分けに懐中時計はないんじゃないですか。欲しがるのは、あなたの義姉・杉村春子のように着物とか。貰って嬉しいですか時代遅れの懐中時計」
「ですけれど、その選択はおとうさまのもので、あたくしの希望というものでは」
「そこです。あなたと義父の間には『時』をめぐる共犯関係があるのです。なぜ、あなたが10時でなく11時でもなく、12時まで睡眠不足の義母を寝かせなかったのか」
「・・・・存じません」
「いえ、もう、あなたにも、わかっているはずです。紀子さん。なぜ『12時』なのかが」
「あ、お・・・・小や津ギャグ?」
◎追記◎もちろん、夜の12時は同時に24時であって、12も24も、小津安「二」郎にとっては、次のステージに進むべき数字、「」の倍数という、小津にとって、特別な数字なのだろうか。
(この辺の事情については、くわしくは★小津漬の味1淑女はナニを忘れても「二」は忘れない★を参照あれ)。


e0178641_1472868.jpg 説明なく平気で何日もジャンプし、あるショットの次のショットが、必ずしも次の瞬間、あるいは翌日を意味しない小津映画にあって、東京滞在中はわりと時間的に連続しているのが『東京物語』だと思う。しかしそうであっても、前夜寝不足でふらふらの東山千栄子が夜の12時まで元気に起きていたり、同じく笠智衆が12時まで痛飲していたり、まあ、それはそれで大変元気なのはいいわけですが、「通俗」リアリズムとしては、それまでの笠・東山描写に比べれば、「ちょいと」無理やりでしょう。
 しかし小津映画が、そういったある種の「通俗」リアリズムをあからさまに無視した上で、なおかつ、こういっていいのか、より高いリアルを実現してしまった、と。現実とは一味違った、謎めいた映像とたたずまいの中に、誰もが感じる平凡な日常の機微を封じ込めてしまった。奇跡としかいいようがないハイブリットな映画として。 杉村春子の店で講習会を行う、というのは老父母を「放置」するための作為である。何のための作為かというのは明らかである。
 笠智衆は男の旧友たちと痛飲し、男たちの本音を語らせるため。東山千栄子は原節と女同士の親密な会話で、姑と嫁との理想的関係を描くため。しかし、明らかに講習会は夜の数時間で終わっていて、笠が帰ってくる深夜には杉村は熟睡している。「宿無し」というのは笠の過剰な被害妄想である。
 それこそ金車亭あたりで浪曲を楽しみ、外食すれば済む話である。あるいは、強引に「宿無し」にしたのは、笠の深謀遠慮である。老妻を原節に押し付け、好きな酒を楽しむための。そして、出来れば十朱あたりの家に泊まりたいがゆえの。しかしその作戦は無様に失敗し、結局は娘の家に戻らざるをえない失態を招く。ああ無常。
 一方の老妻は、この映画にあってはある種の理想性をともに担う嫁のアパートに一夜の宿をゲット。しかし、その描写が八時九時であれば、状況的に「おかあさま、もうおねえさまのほうへお戻りになられては」的な会話が必要になってくる。それではこの二人の理想性というか、様式的な仲のよさが崩れてしまう。帰還不能点である十二時はそうして選ばれた必然であった。二人だけで仲むつまじく一夜を共にすることで、理想性は担保され、老婦人にとってこの東京旅行は、ハッピーエンドになった。たとえそれが老婦人の死期を早めてしまおうとも。
 ま、それはそれとして、『東京物語』の「彼ら」はなぜ異様なまでに「嫌われている」のか。
 桜むつ子の居酒屋での常連・東野英治郎の嫌われよう。笠など初めて連れて来た客の前で、ああののしられるのは、相当嫌われてなければ出来ないのではないか。嫌われているのに「邪険なところも女房によう似とる」と、逆にやに下がるのだから、全く、わかっていない。
 笠智衆も、酔っ払って深夜のご帰還、たった「それだけ」のことで、長女・杉村春子にひどい言われよう(まあ東野というオマケを連れて来たこともあるが)。彼女は、若い頃の父は相当酒癖が悪く「お母さんを泣かせた」という。「あたしたち、嫌でねえ」。
 東山千栄子も原節に「あんたも(夫の酒癖で)苦労した組か」と同情していた。
 その結果長男の家でも酒は振舞われた様子はないし、長女は自分の夫に、たぶん甘党で父とは違う優しい男(中村伸郎)を選んだ。杉村の笠への怒りようを見れば、彼女の家庭では、おそらく午前様など許されないのではないか。自分の言うことを聞く髪結いの亭主を夫にすべく、杉村は職業を逆算して、美容師になったのだ。もちろん逆算したのは小津と野田高梧である。
 かつての酒癖を知らない原節のみが酒を供する。
 映画の現在では仏様のような笠智衆も、若い頃は、子供たちのトラウマになるくらい、ひどい夫、父親だったのだろうか。
 そして、長男(山村總)・長女(杉村春子)・二男(なくなった昌「二」)・三男(大坂志郎)がすべて親元を離れ、当時としては尾道からかなり遠いはずの東京・横浜・大阪に散っている。次男は亡くなっているので不明だが、残りの三人は東京弁、大阪弁をマスターし、完全に尾道弁を捨てている(親に対してさえ)。まるで故郷や親を忘れたいと言うかのように。
 最後、東山が死の床についた時に一家が集まって、尾道弁、東京弁、大阪弁を、けっして混じり合わせようとしないのは、考えてみると異様である。マイルドな、流れるような脚本と、演出にだまされてしまうけれども。これは父・中村雁治郎の急を聞いて駆けつけた小早川家の面々も同様で、大阪弁・名古屋弁・東京弁が一家を飛び交う。故郷に帰っても、もはや言葉すら違う家族たちの、(少なくとも)言葉上の極端な差異。
 末っ子・香川京子(彼女が生まれた頃から、父は人が変わったようにいい人になった、と長女は証言)のみが、父にいいイメージを持っているようだ。彼女だけ地元に残り、教育長だった役人の父を受けて、小学校教師になっている。家庭内での言葉はもちろん尾道弁。
 ちなみに二十代前半と思われる(少なくとも小津ドラマのセオリーからすれば、二十四歳未満と推測される)香川京子を現在六十八歳の東山が産んだとすると、当時としては相当の高齢出産だろう。
それだけ若いころの東山がタフだったのかも知れず、だからその老後は思いのほかあっけなかったとも取れるが、意外や意外(ここから妄想モード)、東山は香川を「産んで」はいないという、隠し設定があるのかもしれない。
当時立派に物心がついていた兄・姉たちは、その父を嫌って、尾道から遠く離れたのだ! 老父母にもっとも親身であったのが、二男の嫁・原節(という非血縁者)であるなら、実子の中で最も老父母に尽くす末っ子が、実は異母兄妹であるというのも、平仄が合っているのではないか?? しかし、家族たちの間では、心優しい香川に配慮して、あるいは教育長であった父の世間体に配慮して、だんまりを決め込んでいるのだ。そういう妄想モードでこの映画を見直してみると、ラスト、非血縁者の原節と香川京子が仲良く手を取り合い、東京に遊びに来てね、行くわ、という会話が、別の意味合いを帯びてくる。
汽車で尾道をあとにする原節、それを見送りたいけれど教室で子供たちを教えざるを得ない香川のカットバック、別の哀切が見えてはこないか(見えるのは、私だけか)。
 あるいはより現実的に考えると、東山に高齢出産をさせた父に、それなりに大きくなった兄・姉たちが嫌悪を感じて故郷や親を離れていったのだろうか。なんせ、昔は年をとってから出来た子供を「恥かきっ子」と称していたくらいだし。 
 親を邪険にする子供たちに世の無常を見る、というのが『東京物語』に関する一般評だけれど、邪険にされるにはされるだけの理由が父にある。かつての「悪行」を体験していない末娘と嫁だけが、父に優しい。
 笠・東野は嫌われ者として昔からの類・友なのだろうか。ぼくの狭い見聞からしても、嫌われ者同士は、結構仲がいいのだ。
 少なくとも馴染みの居酒屋の女将に邪険にされることは、世の無常、親子の断絶とは全く関係ないことのはずであるのだから。桜むつ子は、しゃれや冗談ではなく、あからさまに東野を嫌っていたように見える。

Cuentos de Tokio - Tokyo monogatari - Voyage a Tokyo - Tokyo Story - Yasujiro Ozu - 1953



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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:08 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(20) | Comments(0)

小津漬の味3 『秋日和』あるいは君の名は

原節子・司葉子の母娘二人がとんかつ屋「若松」で食事をする。
 母「ああ、お腹いっぱい」
 娘「ビール残ってるじゃない」
 母「勿体ない、飲んじゃおか」
というシーンがある。瓶から残りをコップに注ぐと、実はほとんどなかったという落ちがつくのだが、ここで注目すべきは、この二人はそろって、なんと、大量のサラダを残したままなのだ。ビールを残すことは勿体なくて、サラダを残すのは勿体なくないのか、この母娘は!
 しかもこのサラダ、二人の分ともに、食べ散らかした後というより、きれいに盛り付けたままの感じで、赤いトマト片、緑のもの(ブロッコリか、パセリか)、白いポテトサラダ?(あるいは白っぽい緑という感じなので、千切りキャベツか)、と色もきちんと計算されたように置かれている。小津ギャグ世界においては、女もとんかつとビールをしっかりお腹に収めて、サラダには手をつけない。
 小津的にはサラダの色とりどりのヴィジュアルが欲しかったのだろう。特に赤いトマト片が目立ち、まるで吉田輝雄と佐田啓二のとんかつ屋場面(『秋刀魚の味』)のビール瓶のごとく、赤いトマトがショットごとに移動するのだ(女優の顔を交互に写すと各自それぞれのサラダも写るので、画面上ではあたかもサラダの彩りが動いているような効果を見せる)。サラダは食わないが、人を食うのが小津式か。
 ただしこのサラダは常に画面の底辺に位置し、当然ピントは女優の顔に合わせているのでサラダへのピントぼけており、なおかつ非常に地味であるので、映画館で何回か見たときは全く気づかず、最近DVDで見たときに始めて目に留まったもの。映画館では当然二人の女優の顔を中心に見ているので、気づくわけがない。小津がどういうつもりでやっているのか。意味がないものだと思う。DVDの小さな、フラットな画面を見ていてこそ、気がついた(のち、新文芸坐での小津特集の際、大画面で確認した)。
◎追記◎次の予告編クリップの1分09秒あたりの司葉子のテーブルに、証拠のサラダが鮮明に写っている。このブログのまま、見るとたぶん、見づらいが、ユーチューブに飛んで、静止画像にすると、とんかつは食べて空になっているのに、サラダのみ残っているのが、わかる(笑)。
ただし、この予告編に使われたショットは、おそらくNGショットの流用であり、実際に本編に使われたショットとは、まるで違う。本編では、もっと地味。当時の日本映画の予告編は、OKショットではなく、NGショットの流用が多かった。経済的節約か、あるいはもったいない精神か。

推測するに、たぶん食後を表すのに、皿が完全に空であるより、肝心のとんかつのみが消えていたほうが、より「から」「食事の後」感が出るだろうということか。「完全な無」では、むしろ「無」感が、出ないという?
 しかし、繰り返すが、観客は主に原節子や司葉子を見ているので、皿を見るものはいないと思うが(笑)。

この母娘の名前は、原節が「秋子」、司が「アヤ子」。あやや。
 「アヤ」というのは小津世界においては伝統的に?「ヒロイン原節子の仲のいい親友」の名前ではなかったか。ヒロイン原節の結婚についてアドヴィスする役目(『晩春』『麦秋』)。
 タイトルが「秋日和」、原節が「秋子」。ここからは、根拠なしの推測になるが(いつも、そうか?)、小津的初期設定では秋子がメインのヒロインだったのではないか。
 秋子を再婚させる話。そうなれば『晩春』『麦秋』と原節嫁入り三部作となる。その挫折した痕跡が司の役名に残った、と見るべきだろう。
 なぜ挫折したのか(断言)。
 仮説1。司の相手が佐田啓「二」。原節の(とりあえずの)相手が北竜「二」。一本の映画に、「二」枚目の「二」は「二」人は要らない、ということなのか。われわれはこれを専門用語で、後期小津の常連俳優の名を取って、須賀不「二」男の法則という。
 仮説2。北竜「二」は、おちょくったほうが面白いいじり易いキャラだから、原節と結ばれては面白くない。で、はい失格。そのときの小津の「こいつはいつもの奥の手で」は、真の結婚相手を一瞬たりとも写さないことだ。しかし司の相手の佐田をバリバリ写して、原節の相手を一切写さないというのも釣り合いが取れない。
 仮説3。北竜「二」の顔は口髭もあって「ちょいと」安「二」郎に似ている。杉村春子(『晩春』)なら絶対「ちょいと似てる」というくらい似てる(「こっから上は違うけど」)。なんせ、『秋刀魚の味』では、笠智衆が岸田今日子を亡妻に似ていると言うそばから、「そりゃあ、よく見れば全然似てないがにぃ」。全然似てないのを似ていると言うのが小津映画の、似ていると言うレヴェルだから、北竜「二」は、なんとしたって小津安「二」郎に「ちょいと」似ている。当ブログは極端な面倒くさがりだから、北竜「二」と小津安「二」郎の顔写真をならべるようなことはしないが、ぜひ見比べていただきたい。くりそつである。
 安「二」郎似の俳優と原節を結婚させるというのは、いくら小津でも面映い。面映いけど面白い。で、当時小津と原節子が噂になっているよ、という自虐ギャグで北竜「二」を登用。お約束で振られてみましたの図。
 仮説4。ひとり娘のあるやもめの再婚は小津的に、やっぱり「不潔」だから。
 かくて「アヤ子」の「アヤ」役・岡田茉莉子が、原因か結果は知らず、強調されることになるのだ。「アヤ子」が「アヤ」の役を果たせないのだから。果たせないどころか、原節の結婚話に感情的に反発して、アトヴァイス役ですらなくなるのだから。
 いやいや、冗談じゃなしに、仮説3の、振られてみましたギャグをやりたいための小津的冗談が『秋日和』だったのかも。
 一般には笠智衆が小津安二郎の分身的存在だとする説も根強いが、ヴィジュアル的には北竜「二」こそ「ちょいと」ふさわしいと思う。しかも『秋日和』『秋刀魚の味』の道化めいた役回りは、「ちょいと」似ているだけに、明らかに自虐ギャグの様相を呈しているわけだろう。 

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:03 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味4 『麦秋』問題、あるいは兄とその妹


 一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

 『晩春』で、一人娘を抱えたやもめ男の再婚をさんざん「不潔」呼ばわりした挙句、二年後の『麦秋』で、自らさっさと一人娘を持つやもめ男の後妻に納まる紀子の、言行不一致は、とても同一作者による同一女優の「同一人物」とも思えない仕儀である。ここまで逆だと、立派にギャグだと思う。
 もっとも佐分利信も矛盾の総和が人生だというくらいだから(『彼岸花』)何の不思議もないのだが、つまり明らかに『麦秋』は『晩春』の、すべてにおいて逆張りなのだろう。 『晩春』というタイトルは、季節の一時期とともに、「オールドミス」であるヒロインの状況を示すものとされるが、原作が広津和郎「父と娘」であることを考えれば、「晩」が老父を「春」が娘をも指す、ある種の言いかえと見ることもできる。
 小津映画を親父ギャグ的視点から読み返すこと。
 で、あるならば『晩春』の二年後に同じ女優による同じ役名のヒロインで、同様に結婚問題を扱う『麦秋』の発音が、
 ばんしゅん
 ばくしゅう
と酷似しているのも、ほとんど駄洒落の域に達していよう。
 『晩春』では父ひとり娘ひとりの紀子が描かれ、その親子関係は聖性を帯び、いやむしろ何がしかの妖しささえ漂わせていた。では今度はその聖性を剥ぎ取った紀子ではどうか。
 と小津は考える。かくて『麦秋』では『晩春』と真逆の、大家族が紀子に与えられた。父親には俗臭芬々たる菅井一郎が選ばれた。菅井ではさすがの紀子も「萌え」ないだろう。駄目押しに、父には伴侶・東山千栄子(これ以上ないほど俗な重量感)、老後を穏やかに過ごせるまほろば・大和も付け合わされ、至れり尽くせりといえる。
 もう「私が嫁げば、父は・・・・」などと心配することはできない。さらに『晩春』の聖なる父・笠智衆には、今度は俗なる兄の役割を付す。たぶん紀子は死んだ次兄ほどにはこの長兄を好きではない(なぜ笠智衆が「兄」であるかについては、実はちゃんと理由がある)。
 こういう実験条件では、紀子は、やはり父にはまったく配慮を示さず、さっさと嫁に行く。彼女の給料の一部が家に入らないと、なぜか両親は田舎に引っ込まなければならないと話されるにもかかわらず(この設定、彼女が両親二人分の生活費を支える、というのはいささかおかしいように思われる。900円もするケーキを買ってる場合ではないと)。
 そして『晩春』では三島雅夫の、ひいては笠智衆の再婚を、あれだけ「不潔」と言い切っていた紀子は、さっさと、何のためらいもなく、こぶつき二本柳寛の後妻に収まってしまうだろう。この違いよう。この、冗談ともいうべき不誠実。紀子さん、そりゃないよ、三島雅夫に悪いと思わないのか?
 常に同じような役者が同じような役回りを繰り返し演じ続けるのが小津映画だとされる。確かにそうなのだが、その中にあって原節のみは、きわめて特殊だといわざるを得ないのも事実だ。『晩春』の光り輝く娘から、戦争未亡人へ、そして『秋日和』の笠智衆的役回りの母親へ。
 原節子を除く、杉村春子、戦前からの三宅邦子などなどが、ほぼ差異を感じさせない役回りを延々と演じている中に、原節子だけが「なまもの」みたいだ。
 特に三宅邦子なんて、1930年代から1960年代まで、毎度毎度、いつもの、家庭婦人だ。小津以外の映画でも、妻でもない、母でもない、女でもない、家庭婦人としか言いようがない役柄を終始一貫して演じ続けた。若い頃は、娘役などもあったのだが、とても似合ったとは思えない。はたちの娘を演じたときも、あの落ち着いた言い回し、態度だったのだ。驚異の冷凍食品女優。いつ食べても同じ味。
 ほぼ、不動であるかのような小津映画の俳優たちにあって、原節子だけがいろいろなシチュエーションを楽しまれてる、気がする。プレイとして、遊ばれている、気がする。
 いや実は戦前大アイドルの田中絹代も、いっとき『風の中の牝鶏』で文字通り「墜とされる」のだが、それ以降は『宗方姉妹』『彼岸花』と、きわめてまっとうな存在に収まっている。原節子だけが、たいへんに怪しい扱いをされているように思える。
 気のせいだろうか。
 しばしば同じ話、と見られることもあるが、つまり明らかに『麦秋』は『晩春』の、すべてにおいて逆張りなのだ。 結婚相手は親に勧められるままから、一応親に無断で自分で決める。相手も親が望んだ相手から、親が失望・落胆する相手へ。この『麦秋』化は、どういった方向を目指しているかというと、おそらくは『晩春』よりは、より娘の側に寄り添っていると思う。もちろんそれは当然小津なりのレヴェルでということだが。
 戦前はボーイズものや(大学生だったり小学生だったり)やもめ男ものなどであり、晩年は完全にオヤジ映画になってしまう小津映画にあって、『麦秋』は、いちばんフェミニンな映画になるのではないか。
 兄嫁と台所でお釣りのやり取りをしているところなど、兄嫁が三宅邦子であることもあって、まるで島津保次郎『兄とその妹』そっくりだし、最後海岸でこの映画の締めとも言うべき会話をするのもこの二人であり、この二人と二本柳のケーキのシーンこそ、小津映画でも、もっとも幸福感あふれるシーンのひとつであろう(この「原節子が買ってきたケーキを大人だけで食べる」シーンは成瀬の印象にも残ったのか、小津大意識大会『娘・妻・母』で再現されている)。
 また、『麦秋』は料亭の描写がとても面白い。女将・高橋とよの娘・淡島千景の私室がメインになっており、ここにその友人たち原節子・井川邦子が集う。本来、男の社交場である料亭に、一人ぽつねんとしているのは逆に客のほうの佐野周二。
 挨拶に来る原節子と佐野周二の会話はその内容とも素人くさいもので、おそらく料亭の使い方としては日本映画史上もっともへんてこりんなものだろう。後年の親父映画の小津としても、かなり女性寄りの描写と思う。
 もっとも親父映画にあっても小津はあまり料亭を使わない。基本的に小津の親父たちは、映画の中では、いわゆる接待をしない。仕事がらみの呑みをしないのだ。芸者もあんまり出てこない(ぼくの記憶に残る芸者遊びは、それこそ桑野通子の『淑女は何を忘れたか』のみだし。他にあるのだろうか?)。そのへんが東宝サラリーマン物と決定的に違うところ。接待ばかりの東宝サラリーマン物と、あまり接待しない松竹/小津サラリーマン物の差異も、比べてみれば結構面白いのかもしれない。高度成長期に東宝サラリーマン物がヒットし、松竹のそれが冴えないのも、むべなるかな?
 小津映画では、もっぱら自分の楽しみのために飲む。あるいは同窓会の相談のために飲み、そして同窓会そのもので飲む。ほかの映画では良くある飲み、上司と部下の組み合わせというのも、『彼岸花』の佐分利と貞二のものくらいか(元上官と部下の『秋刀魚の味』の笠と加東というのもあるが)。男と女にいたっては、コーヒーかラーメンかうなぎ屋かくらいの健全派(例外はもちろん『早春』)。飲み会から見た小津の男たちはとうとう、ボーイズ(学生)の延長に終始している。
 酒場に仕事を持ち込まない。女の接客も要らない(小津映画のバーのホステスたちは、客を相手にせず、されず。たいていはかなり暇そうななまま、接客をしない)。基本的に酒そのものが好きなのだろう。もっとも、つまみは、高橋とよへの冗談だったり、いかに娘たちを嫁がせるかだったり、いかに北竜二をからかうかだったりする。
 その他、恒例の友人・アヤと仲間たちのシーンもある。仲間たち三人が紀子のうちに集まるシーンは、結局二人が不参加でさびしいシーンなのだが、同時に子供たちが一階に大勢集まることで、その寂しさを補っている、絶妙の構成だ。さびしいのににぎやか。
 『晩春』に比べて、この映画では親というものはそれほど重要ではないように思える。
 長兄・笠智衆、仲のよかった不在の次兄、次兄の同級生・二本柳、これら「兄」たちと、その妹・原節の関係は、さいご二本柳一家と、その「妹」世代の原節が、ともに異郷の地に旅立つことを考えれば、まるで『兄とその妹』だ。監督脚本・島津のこの傑作を小津は評価している。『兄とその妹』は中国東北部の満州に旅立ち、『麦秋』は日本の東北部の秋田に赴く。しかも、二本の映画とも、その赴任を働きかけるのが、笠智衆なのだ! 笠は『麦秋』ではヒロインの兄、『兄とその妹』では、兄・佐分利の同窓生、つまりヒロインにとっては兄世代に当たる役回りだ。
 そういえば『兄とその妹』の、佐分利の役名は間宮敬介、その妻・三宅邦子の名はあき子。この三つの名前は奇妙に小津的でもある。あるいは松竹的な名前なのか。もちろん、『麦秋』の原節子一家は間宮姓であった。ちなみに「兄とその弟」ともいうべき映画が『間宮兄弟』(森田芳光)というのはたぶん偶然なのであろう。
 さらに『麦秋』の原節子が重役・佐野周二の秘書であり、オフィスで英文タイプを打つシーンは、『兄とその妹』の桑野通子が原節に先行する原型的女優であるだけに、直接的な引用とすら思わせる。
そうであれば、前述した原節子が同窓生を家に呼ぶシーンは、『兄とその妹』で桑野通子が同窓の友を呼んで催す誕生会からの変奏とも思えてくる。坂本武と佐分利の将棋も、宮口精二と笠の碁に変化している(本来の小津映画の親父たちならすかさず酒席になるところを、しらふで禁欲的に碁を打つなど、これは『兄とその妹』へのあからさまな目配せとしか思われない)。
 そして、佐野周二だ。佐野と秘書・原節子のオフィスは、もっぱらその共通の友人・淡島との気の置けない会話のみで成り立っている不思議なオフィスだ。淡島とのセクハラな会話も、佐野の豪快さで救われている(?)。ただし原節にはセツハラ、もとい、セクハラはないような?
佐野もこの映画的には原節子の「兄たち」のひとりであるかのようだ。美人の秘書にちょっかいを出そうとせず、むしろ友人との話を進めたりする。まあ、振られたら振られたで、友人をからかう材料になるわけだろうし。のちの小津的親父たちの先駆けとも言えるし、戦前松竹映画のモダンさを残したともいえる、小津ならではの不思議な親父キャラだ。
かくて島津保次郎の傑作『兄とその妹』は、いささかのひねりを加えて、小津安二郎の傑作『麦秋』に再生するわけだろう。ここまで品よく繊細に援用すれば、島津も文句のつけようもないはずだ。お見事。
 ま、もっとも、文句をつけようにも、『麦秋』時点で島津はすでに亡くなってはいるのだが。死人に愚痴なし。大体、映画館で島津保次郎のクレジットを見た小津家の者たちは、小津安二郎のペンネームと勘違いしたというエピソードも残っているくらいだ。パクっても文句は言えまい、と小津が考えたのも無理はない。









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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:01 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味5『早春』あるいは金魚の味 池部良淡島千景岸恵子高橋貞二山本和子

 池部良の通勤仲間・岸恵子が「金魚」と呼ばれるのは、目玉が大きくて、煮ても焼いても喰えないズベ公だからだという。
e0178641_1941184.png 目玉の大きさなら同じ仲間の山本和子のほうがかなり大きいと思うが、問題は煮ても焼いても喰えないという、加熱効果の否定にあるのではないだろうか。もっとも煮ても焼いても喰えないはずの金魚を喰ってしまう池部良のほうにも、問題があるのだが。
 池部良が岸恵子と浮気したり、「ちょいちょい帰りが遅くなる」のはなぜか。間違いなく妻・淡島千景が怖いからであろう。
 映画冒頭の寝姿からして淡島は怖い。普通ひとの寝姿というものは映画では横から写されることが多いのだが、この映画ではなぜか足元のほうから写される。かなり異常な姿形だ。池部も病気の友・増田順二も足元から写されるのに、そんなに怖くない。淡島だけが断然怖い。カットが変わって、横から写しても、淡島の寝顔だけが怖い。そのそばに添い寝するかのような池部が胎児のごとく身体を丸めて寝ているのに、淡島の寝顔のみが、凶暴なまでに、怖い。
 寝ていてさえ怖い淡島は、起きるとこれまた怖い。池部を起こすときも怖い。浮気という弱みのある池部を攻めるときも怖い。弱みがなくても攻める、これも怖い。画面中央にバストショットで単体の人物が正面を向いて写る、あの小津特有のショットの中でも、淡島は怖い。怖さが増幅していく感じだ。これでは金魚を食べたり「ちょいちょい帰りが遅くなる」のも道理だ。池部、悪くない、ぼくが許す。
e0178641_1973710.jpg 同じ仲間の高橋貞二の奥さんは「今日から早番」などというところを見ると、水商売関係なのだろうか。だとすれば貞二は日本石油に勤めているので、まさに水と油の夫婦なのだが(小津的には絶対奥さんは水商売でなきゃならんでしょ)、奥さんがいつもは遅番が多い?とすれば、会社から定時に帰る貞二は、家に帰っても奥さんがいないことが多いだろう。そういう貞二が仲間たちとアパートで麻雀をするのはわかる。しかし専業主婦の淡島を家に置いて、仲間のアパートに麻雀をしにいく池部は、明らかに淡島より仲間たちのほうを好ましいと思っているのだ。

 映画の始まりで、明け方近く、夫婦は蒲田の家でガラス戸を開けて寝ている。映画の最後、岡山県三石の事務所では座って事務を執っているだけで汗をかくほどだ。映画の季節は終始、暑い夏で、男は半そで、開襟シャツ、女はノースリーブ、浴衣が多い。なのになぜ『早春』というタイトルなのか。正しいとすれば『盛夏』ではないのか。
 かくも映画の季節とタイトルが乖離していて、いわば題名に偽りありなのに、なぜ誰も突っ込まないのだろう。しょうがないから、不肖わたくしが突っ込む。誤爆だろうけど。
 ここで食べ物が問題になってくるだろう。
 映画に登場する食べ物は、淡島の実家のおでんだったり、客同士が自ら鉄板で焼くお好み焼きだったり、ラーメン屋で(おそらくラーメンの後に)中華まんだったり、狭いアパートで大勢がすし詰めになって食べる湯気を立てたうどんだったり、何もわざわざ、夜に戸を開けて寝るような夏に食べるよりは、冬にふさわしいものばかりだ。小津の食の季節感はどうなっているの、というくらいのものである。
 さらに、小津ギャク的には、ミルクスタンドで食するホットドッグもあり、みんな湯気が出ているホットな食べ物ばかりだ。本当に夏なのか。夏の熱気を、熱のある冬向きの食べ物をもって制しているのではないか。
 アパートの麻雀・うどんシーンで部屋に、すごく目立つ三ヶ月カレンダーが掛けてある、これが4・5・6月のもの。単なる独身ものの更新忘れというのはたやすいが、タイトルと同様、夏の熱気のクールダウンを狙って意図的にそうしていると見たほうが良いのではないか。
 小津ギャグ的避暑。
 冬と春の季節アイテムを混在させることによる、熱さまし。 
 みんなが涼しげな服を着て、汗を拭いている者も多い夏の映画なのに(しかし汗をかいているものは絶無である)なぜ夏らしからぬ描写が散見されるのか。偽りの夏の映画
 夏真っ盛りの季節にあっても、主人公・池部良の心は早春ほどにも冷えている、ということなのだろうか。いや、まだ真冬なのだが、かろうじて、つかの間の情事と友との交流によって、早春程度にはあったまっている、ということか。
 あるいは。
 淡島千景は怖い。怖いは怪談映画。怪談は夏に限る。ということで、映画は「構造上」夏でなければならぬ。しかし、小津は夏の描写が苦手だ。みんながこざっぱりした白い服ばかり着ているのは良い。しかしヒートアップは困る。黒沢お得意の汗ぎらぎらで、手ぬぐいでごしごし顔をこする開襟シャツの三船敏郎なんて図は、もっとも小津が忌避するところだ。かくて夏を裏切る描写が続く、と。
 あるいは、淡島千景は怖い。怖いは怪談映画。その怖さが熱を奪う、と。煮ても焼いても喰えないのは、実は淡島千景のほうだったのだ。夕暮れ時、手にうちわ、浴衣で静かにたたずむ淡島、あれは怪談描写ふうだよね。
 ラスト、三石に独居する池部良の元に、淡島が来る。仲間たちと一緒のときはあれだけ笑顔を振りまく池部が、妻がやっと来ても、笑顔一つ見せるどころか、ほっとすることさえない。むしろその無表情は、困惑、あきらめ、といったところか。「会社から帰っても、家にいて本ばかり読んでいたそうね。変わったのね」と喜ぶ淡島。家にいるのは、おめーが家にいねーからだよ。
 窓の外を汽車が通る。「あれに乗れば明日は東京ね」、そのとき池部は淡島をちらりと見る。一緒に帰りたい、という目ではなく、お前がひとりで帰れよ、というような目で。
 「女は三界に家なしだよ」という諦念の母の元に育った、勝ち気な娘はその母を反面教師として夫に睨みを利かせる。かくて、池部は三石に家なし、か。「耐火」煉瓦の会社から帰ると、家には「耐火」煉瓦みたいなカミさんで。こわいなあ。「ぞうっ」として「シュン」とするわけですよ(三島雅夫の口調でね)。
 小津安「二」郎映画では、「二」階が「娘たちの聖域」として特権化されていた、ということになっているが、この『早春』ではそうはいかない。「二」階に泊まるのが、笠智衆、加東大介と三井弘次、そして淡島とけんかした池部良、すべて男たちの仮の宿となっているからだ。
 通常の安「二」郎映画では、聖域と化した「二」階の住人にネグレクトされるのは、笠智衆などの父親だが、ここではヒロインが拒まれているのだ。
 淡島は「二」階には顔を出す程度で、台所と夫婦の寝室がある一階が彼女の領域である。で、あるから、三石に行って、間借りした「二」階の池部の「仮の宿」に淡島が入っていくことの不幸性というのが直ちに了解されよう。淡島は「二」階に家なし、なのである。
 三石に家なしの池部と、二階に家なしの淡島、なんと不幸そのもののラストシーンではないか。

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:58 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(8) | Comments(0)

小津漬の味6 『秋刀魚の味』あるいは、それを言っちゃあお仕舞いよ

 結果的に小津安二郎最後の作品となった『秋刀魚の味』だが、個人的には岩下志麻がヒロイン、てのがどうも。かわいいのだが、あの、小津独特の正面向いたバストショットでは、彼女のきつさが強調されて、『早春』の淡島千景に匹敵する。
e0178641_20251390.jpg このショットで、彼女が口を機械的に開け閉めして科白言ってるのが、魚が口パクパクしてるみたいに見えてしまう。そういう演技を強いたのは、あくまで小津の演出だったのだが。
 第一、このヒロイン・路子には親友の「アヤ」役がいない。友達いない(出てこない)ヒロインてのも小津としては異色である。異色というより唯一かも。吉田輝雄と一緒に帰りたくて「友達と約束あるの」というけれど。
小津も、きりっとした彼女にあて書きすると、このキャラクターには友達は必要ないと判断したのだろう。
 ほっそりとした姿形の彼女が秋刀魚なんじゃないかしら。
 いや。
 元教師東野英治郎が言うように「魚偏に豊か」がハモ(鱧)なら、その逆、「魚偏に弱い」ならイワシ(鰯)タシマかなー。吉田輝雄(役名・三浦「豊」)と結ばれないのも、イワシ(鰯)はハモ(鱧)ではないので「豊」をくわえ込めないからなのだ、小津的には。
e0178641_20291994.jpg 『秋刀魚の味』実は、鰯の味。鰯じゃタイトル弱いからなあ。それに岩下に「弱」の字は似合わない。
 それを言わしちゃあ(岩下)お志麻い、もとい、お仕舞いよ。

 しかし『秋刀魚の味』冒頭いきなり、ずっこけた。
 女事務員・浅芽しのぶが24になるのに未婚の理由が「父一人娘一人ですから」と聞いて、上司の笠智衆は、こともなげに「じゃあ、いずれはお婿さんだにぃ」というのだ! よりによって、誰あろう笠智衆その人が。
 こともなげに。
 えーーーーーーーー。そんなに簡単に解決できるなら『晩春』『秋刀魚の味』のヒロイン(およびラーメン屋の娘杉村春子)や、『秋日和』の母娘は、あれほど悩む必要ないじゃん! なによこの能天気は。女事務員は笠のその簡単な解決法を聞いて、さびしく微笑むのだが、C調過ぎるぞ笠智衆。それを言っちゃあお仕舞いよ。
 もっとも、「小津映画の娘はナニ悩んでいるんだ、簡単に解決できるではないか」と誰かから言われた小津が、それを皮肉として描いた可能性もある。笠智衆が演じているから皮肉には見えないだけで。佐分利信が重厚かつ無責任そうに(つまり、いつものように)言えば、ギャグになったかもしれない。
 
e0178641_20304269.jpg 池上線石川台駅近くの団地に住む佐田啓「二」・岡田茉莉子夫婦を、岩下志麻と吉田輝雄が同時に訪ねてくるシーンの、あれ(笑)は、いったい、なんなのだ。
 室内に座る岡田茉莉子の背後に巨大な「2」が。はじめ室内の壁かと見えたが、よく考えると、たぶん窓の外の外壁に書いてある「何号棟」かの表示だろう。しかしそれが「1」号棟でも「3」号棟でもなく、なぜ「2」号棟なのか。それをなぜ、わざわざ室内から巨大に見せるのか。それを言っちゃあお仕舞いね。でも、お仕舞いでも、言っちゃおう。
 いつもいつも同じとされる小津映画だが、実は『秋刀魚の味』、いつもの小津映画と微妙に違っているのだ。
 違いその1。前述通りヒロインに女友達がいない。その2。前述どおり、これまでの小津映画を全否定するかの、掟破りの笠発言。他人の娘であっても結婚問題に親身だった小津的親父とは思えぬヒトゴトさ。
 その3。これまでサバサバしたおせっかいおばさん専門の杉村春子が、ヒロインとは無関係な暗い人。岩下志麻のサカナ的冷血の個性ゆえか、時代風潮の変化に対応しているのか、その1と合わせ、ヒロインをサポートする女性が消える。義姉岡田茉莉子も特に応援する描写はない。
 その4。これまで、なぜか(笑)「二」男坊を重視していた小津映画だが、本作では長男佐田啓「二」を重視(ただ相変わらず長男は頼りない感じがあり、二男三上真「一」郎は「明日メシ作ってやるからな」と意外と頼りになる)。
 そう、小津お気に入りのスタア佐田と、突貫小僧「三」代目というべき「三」上を両方出したいのだが、年齢差や人気実力、ストーリー上の要請から佐田啓「二」を長男とせざるを得なかったのだ。小津は悔しかったのだろう(断言)。悔しさのあまり佐田啓「二」の住まう団地に無理やり「2」の刻印を押したのだ!
 同じことは『お早よう』でもしている。
 佐田啓「二」の住むアパート(というよりは団地)が、二度写される。その三ショットとも、団地の外壁には、はっきり「2」の表示が。なぜ1号棟でも3号棟でもなく、「2」号棟なのか。たぶん啓「二」の役名が平「一」郎であることと関係があるのだ。
 もちろん『小早川家の秋』の原節子のアパートでも、室内、原節の背後に巨大な「2」が見えることは同様。小津安「二」郎映画のアパートでは、1号棟も3号棟も4号棟も、もちろん存在しないのだ。そして普通、号棟表示というのは、屋外にあってこそ意味があるので、それを室内から見えて何の意味があるというのか、ということは、無論、聞くだけ野暮というものだろう。
 多分、最初の発想はこうだ。アパートであるからには、それは高層住宅である。室内セットには窓が、構造上なくてはならぬ。しかし、セットのアパート室内から、見える外景は。大部分の凡庸な日本映画では、窓の外にちゃちなミニチュアを建て込んで、町並みなりを表すのだが、それは小津的な美学からすれば、許せるものではない。では、窓の外に棟の外壁が見えれば、より集合住宅らしさも表現できるのではないか、と。単純にして、低予算。しかも、壁好き?な小津の嗜好にも合う。ただの壁であるよりは、号棟表示があったほうがより「らしい」だろう。じゃ、何の数字。もちろん「2」に決まっている、安「二」郎映画ではね。

◎追加◎岸恵子・映画解説 「秋刀魚の味」

岸恵子・映画解説 「秋刀魚の味」


秋刀魚之味(分期)

GoutDuSake-Ozu


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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:57 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback(18) | Comments(0)

小津漬の味7『彼岸花』あるいは紳士は何を忘れたか

  「明日、モーニング、どうなさいます?」
  「何だっけ」

 紳士は何を忘れたか。
e0178641_495985.png 『お茶漬の味』が『淑女は何を忘れたか』の変奏的リメイクであることは、誰もが知るところではあるが、まさか『彼岸花』でさえそうであることは、知らなかった。それとも小津ファンの間では周知の事実なのであろうか。
  『淑女は何を忘れたか』『お茶漬の味』で、その振る舞いを批判されるのは栗島すみ子、小暮実千代であるが、『彼岸花』では、もちろん佐分利信である。男女逆転版のリメイクといってよいだろう。
 では、たしなめる側といえば、『淑女は何を忘れたか』では<大阪から来たモダンガアル>桑野通子。『彼岸花』では<京都から来た母娘>山本富士子と浪花千栄子の二人体制。佐分利のポン友、中村伸郎・北竜二らは、『淑女は何を忘れたか』栗島の友人、飯田蝶子・吉川満子に対応する。『彼岸花』では淡島千景、上原葉子らだ。友人たちの交友も、男女逆転しているわけだ。
  『淑女は何を忘れたか』で味方されるのは斎藤達雄だが、『彼岸花』で味方されるのは、有馬稲子(と間接的に田中絹代)、娘を送っていって叱られるのは『淑女は何を忘れたか』で佐野周二、『彼岸花』で佐田啓二。 そしてもちろん『淑女は何を忘れたか』で珍しく頭のよい子を演じて、笑わせてくれる突貫小僧・青年版とも言うべき高橋貞二も『彼岸花』にはいる(「いつもの、普通の、国産の、安いの」高橋の快演が一番印象に残る。ああ、小津で、この突貫青年をもっと見ていたかった)。

 この、まったく同じ話を偽装するために、笠智衆・久我美子親娘の話を紛れ込ませているというのは考えすぎか。しかし、このエピソードはあまりにとってつけたようだし、短いし、もう一人のヒロイン・有馬稲子は肝心のシーンになると、しくしく両手で顔を覆ってしまうし、この二人ヒロインとしてはあまりに弱いのだ(しかも終盤にはまったく顔を見せない)。
 どうしても真のヒロインは、山本・浪花コンビになるだろう。(と、言うことを書いたあと、里見弴の原作を読むと、意外なことに原作では笠智衆・久我美子父娘の話がメインでありました。しかしこの暗いエピソードをメインに映画にするとコメディにならない、それこそ『東京暮色』タッチになってしまうだろう)

 ラストの、長い列車シーンの佐分利は『お茶漬の味』のこれまた長い小暮の列車シーンを思わせるし、『お茶漬の味』の津島恵子の仮病騒ぎは、『彼岸花』の浪花の偽りの人間ドッグ入院騒ぎに対応する。『お茶漬の味』の女たちの温泉旅館での宝塚合唱も、『彼岸花』の男たちの同窓会の合唱に通じている。してみれば『彼岸花』は『淑女は何を忘れたか』と『お茶漬の味』の合わせ技(で、なおかつ男女逆転版)と言うべきか。
 じじつ『淑女は何を忘れたか』には小津大船映画としては珍しく上原謙がちらりと出ているが、対して『お茶漬の味』にも珍しく上原謙夫人が出ている。そして『淑女は何を忘れたか』ヒロイン・桑野通子遺児みゆきが『彼岸花』には出ている。この珍しき連鎖的キャスティングこそ、小津の目配せと強弁しておこう。

 そうして佐分利信。『お茶漬の味』といい『彼岸花』といい『秋日和』といい、女にとっちめられるときは必ず佐分利信。とっちめられ役としては笠智衆ではしゃれにならなかったのだろう。女にとっちめられることがサマになる男、佐分利。『戸田家の兄妹』で理不尽に兄姉をとっちめたことのたたりなのであろう。あのとっちめる佐分利は、かなり後味が悪いものであった。<戦後>の小津は、それを反省して、佐分利を永遠のとっちめられ役にしたのだろうか。
 「彼岸花」の花言葉は「悲しい思い出」「感傷に浸る」であるという(珍しく、まともなシメだ)。

『彼岸花』予告編


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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 10:55 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)