三原橋にて。「生誕百年 今井正監督特集・第一部」特集。72年、松竹=渥美清プロダクション。

コメディ俳優・渥美清が、その絶品の、ナチュラル・ボーン・コメディセンスを捨てて、シリアス演技に挑戦。3/2(金)まで、上映中。
中国戦線を、病気送還されて帰国する兵隊・渥美は、玉砕を覚悟した同僚兵から、家族に当てた、遺書を多数預かる。
「内地に帰ったら、家族に届けてくれ」
しかし、敗戦国に帰った復員兵は、まず自ら食うものを確保しなければならない。
自作の掘っ立て小屋に住み着き、担ぎ屋、必死の思いで買ってきたコメを、朝鮮人バイヤー・朴さん(田中邦衛)に買い叩かれる。
少し前までの敵軍、アメリカ軍払い下げの食材くず(というより、アメリカ軍の食べ残しの残飯生ごみ)を、米軍放出栄養満点シチューに、「改造」して、駅前マーケット闇市で売る。そのシチューには、使用済みコンドームも入っている。
そのコンドームだって、アメリカ兵が、日本女性に突っ込んだものに、違いない。二重三重に貶められる、敗戦国民。
生きるに必死で、日本全国に散らばる遺族に、なかなか遺書を届けられないのは、戦後直後の事情、アメリカ軍の無差別市民テロとも言うべき空襲で、多くの都市が破壊され、遺族そのものも多くが死に、生き残った者も、地方への疎開を余儀なくされ、あらゆるインフラが寸断されているので、大勢が「行方不明」という扱いだ。
先の東北大震災でも、今でも、三千名強が、行方不明という状況だ。その多くは、亡くなっているのだろうが、その亡くなっているという確認が、されていない。いったん、決定的事態になったら、徹底的に、全てが、寸断される。

ということで、乏しいお金をやりくりしながら、手探りの状態で、渥美は、全国の遺族に、兵隊たちの遺書を、届けること、戦後八年。
今から考えれば、各地方の役場に問い合わせの手紙を書き、あるいは地方新聞に、三行広告でも、出せば、とも思うが、いや、そういうことも実際にしたのを、映画は省略しているのか、実直に、渥美は、長い時間と乏しい旅費で、地方を訪ねまわる。
あるいは、とりあえず郵便で所在確認。確認が取れたところは、すばやく持参。
しかし、・・・・そんなに、ほいほい届けたら、映画の絵には、ならないわけですな。
日本各地を旅し、そのたび各地の絵がロケされる、全国縦断ロケ。日本映画の定番、観光地案内というか、寅さんですね。必ず、寂しい冬の海が映し出され、そこで人々は出会う。
いや、人が人と出会うのに、冬の海辺というのは、まず選択肢には、ふつうないのですが、絵になる、という点で、映画は、必ず、うそ寂しい海辺で、ひとと人は、会うのですね。
以下、ネタバレがあります。
最初のうちは、それなりに順調。
元内相・加藤嘉、医師・松村達雄は、亡き息子の最後の手紙を届けてくれたことを、率直に喜ぶ。
しかし、それ以後は、やっとの思いと犠牲を払って届けた手紙を、「もう、あたしには、どうでもいいの」と無視されたり、届けないほうがよかったケースもあり、悲惨な状況。
仕舞いには、北村一夫の遺書を届けたら、なんと当の北村一夫本人が出てくる始末。部隊は全滅したが、俺は古参兵なりの知恵で、生き延びた、こんな遺書を、戦後八年もかけて、届ける渥美は、時代遅れの、お人よしのバカだと、ののしる始末。
たしかに、渥美清は、極めつけの、お人よしの、愚直なだけのバカだ。
あるいは、岡田民主党幹部のような、コチコチの原理主義者のロボコップか。
コメデイ演技を封印し、シリアス一直線の、渥美の、渾身の力作は、しかし、どんどん、バカ映画?に、なっていく。
遺書を書いた北村本人に遺書を届けたり、亡き戦友の妻(相変わらずエロい長山藍子、子供心にTVに出ている長山藍子は、エロいなーと、思っておりました>笑)は、再婚した夫との家庭が、崩壊するし。渥美自身も、新たな職を失うし。
渥美が、亡き夫たちの遺書を、届けることによって、妻ら遺族らは、どんどん不幸になっていく。あるいは、吉田日出子のようにあらゆる知性を喪失し、無反応、小川真由美のように、夫の遺書を開封することが重荷で、ついに死ぬ直前まで、開封さえ出来ない。
戦争が奪った、命と、時間は、もう二度と帰らない。<配達>に八年もかけた渥美の思いは、ほとんどが、無視され、不幸を招く。悲惨、徒労の仕事を、渥美清は、演じている。
その理由は、つまり、明白である。敗戦、焼け野原、食にも住にも窮する、サヴァイヴァル、苛酷な環境激変のゆえに、弱いものほど、貧しいものほど、過去を顧みる余裕も、習慣もないのだ。
死んだもののことなど、もう、どうでもいい。生きている自分たちの、今日のコメ、明日の安住のみこそが、大切なのだ。死んだ夫の、せいぜい便箋一枚、二枚の遺書なぞという、今日明日の差し迫った食料、住居、幸福追求の前には、何の役にもたちはしない。
もうひとつは、日本人独特の、昨日の不幸、苦しみ、被害を、「次の日」には、けろっとして、忘れ去る能力。真に、デジタルな思考法?
広島長崎への原爆、大規模な日本全国への、無差別非戦闘員大量虐殺テロというべき空襲の、犯人・アメリカを、簡単に許し、その戦後チャリティーに、全面的に頼ってしまう。
ぼくは、
常々大笑いしてしまうのだが、こういう、過去の恨みつらみを、水に流す、忘れっぽいデジタル民族がいて、そして、そのお隣りの国は、歴史を改ざんして、資料や証言を捏造して、
ありもしない<被害>をでっち上げてまで、
過去の<民族的苦痛>を、日々国民挙げて<リニューアル>している、明白な嘘をついても、次の瞬間には、嘘を言った当人が、その嘘を真実と信じてしまう、そういう心性の人たちの国々が、ある。そういう、おかしみ。
そういう国が、隣どうしというのが、まあ、神様のいたずらというか、プラティカル・ジョークというか、実に、面白い(笑)。
というわけで、マジメな今井正と、マジメな渥美清のコラボである本作は、まじめでないぼくが見ていると、だんだんギャグ映画の様相を呈していく。実は、年をとってとみに涙もろくなっているので、目を潤ませつつ、ぼくは、笑っているのです。
ちなみに遺書のあて先は、父親、妻、恋人、姉、弟。
いちばん、切実にその遺書を欲しがっているだろう姉(博多の倍賞千恵子)、弟(釜石の志垣太郎)は、結局その遺書は届けられず、どうでもいい、恋人未満(香山美子)、開封すること自体が苦痛で出来ない妻(小川真由美)、空襲で発狂し、遺書すら認識できないた妻(吉田日出子)などには、届けられるという不条理。
妻たちは、所詮仮のつながり、血肉を分けた父親のみが、渥美に感謝する。といっても、冒頭の加藤嘉は、遺書の中の父親批判(いかにも、戦後的発想を、戦争中の軍人がするというのは、左翼フィクションでは、よくあること)に愕然とする。
ここで、
母親に当てた遺書が一通もないのも、左翼・今井正らしい。遺書を見て、涙にかきくれるというのは、戦争否定の、左翼・今井正には、ご不満か。
ちゃんと、靖国神社は、茶化しの対象だし。
いっそ、完全茶化しの遺書配達人・渥美清を、見てみたかった。監督は、もちろん、森崎東ね。
◎追記◎とは、言うものの、左翼作家のお決まりは、日本という国の体制、支配階級の横暴が、悪い、一般庶民は、悪くない、というのが、基本のスタンスのはず。
ところが、本作では、簡単に過去の悲劇を忘れるのは、今の生活にかつかつの一般庶民の方。
特に、出し遅れの証文みたいな、数年~8年前の、死んだ夫、死んだ恋人、つまり<元オット><元カレ>の、便箋1・2枚の遺書など、現在の<女の幸せ>には、まったく何の役にも立たないという、庶民の、女の、リアリズム。
そう、<庶民のリアリズム><女のリアリズム>のまえには、いささか、<共産党左翼作家>今井正も、カタナシというところか。職人に徹して、とりあえず、作った映画。
だから、ラストの、渥美清の呆然とした顔が、とってもリアル(笑)。
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