人気ブログランキング |

2010年 03月 28日 ( 1 )

木村威夫VS鈴木清順 ~桜のなぞ~

 ある時期から、清順映画には桜が付き物になっている。映画の桜といえば、清順。清順映画といえば、桜。
 そもそもの始まりは「けんかえれじい」のイースター祭の夜の教会からの帰り道、高橋英樹と浅野順子がお手手をつないで桜並木の下を歩くシーンが、あまりに素晴らしかったからだ。
 ここで木村威夫の作った美術セットは、簡素なもので、まるで演劇の舞台セットのような土手の道。後方に素朴な教会が建っており、それはおそらく遠近法を利用した、何分の一かのサイズのミニチュアのはずだ。
 作り物の、ほどよろしき太さの幹に、紙の造花を数え切れないほどつけたものを、何本か。これでは、とても並木とはいえないが、人物がシネスコ画面の左から右へ歩いて、また次のショットでも左から右へ、このショットをつなぎ合わせれば、延々と桜並木を歩いているように見える寸法。それゆえ、か知らず、背景は漆黒の闇。英樹が、この闇に乗じて、女学生道子さんの手を握っても、「キロクちゃん、案外臆病なのねえ」と純真な道子さんは、笑う、そのための闇であるし、繰り返し繰り返し同じ舞台セットを使いまわしても、ばれないための闇でもある。
 清順映画にしては異色の情緒てんめんたる音楽に乗せて、紙の花びらが桜吹雪として、闇に散る。
 偶然出会った不良硬派の先輩が、持っていた棒切れで、桜の枝を打つ。
 ほどよろしきタイミングで、ほどよろしく紙の花びらが散っていく。その、絵のような美しさ。
 清順の惚れ惚れとする<絵になるショット>は、数多いが、その中でも一二を争う名場面。キムタケ美術を生かしきった、ため息の出る名場面なのだ。
 この、映画ファンの伝説となった名ショット(それは清順にあっては、本当に多いのだが)以降、ほかの事はあんまり繰り返さない清順が、なぜか桜ショットだけは、どの映画でも撮るようになる。
 なるのだが。しかし、もちろんそれらは「けんかえれじい」ほどは、キマらない。
 理由ははっきりしている。みんな、実際に咲いている、本物の桜を実景撮影しているからだ。それらは、おそらく名木として名高い各地のエリート桜なのだろうが、いかんせん、桜というのは、特に動画映像として撮影されたものは、本物の美に、はるかに及ばないのだ。誰が撮っても、清順が撮っても、きれいには見えない。
 数少ない成功例は、「ツィゴイネルワイゼン」の、微妙に色味をずらしたショットくらいか。それでも、肉眼で見る本物の圧倒的美には、近づけない。おそらくだが、桜花の魅力は、この花びら一枚一枚の微細な美と、数本、数十本、時には数百本単位の圧倒的な量の固まりの美と、同時にあるので、人間の肉眼なら、瞬時瞬時で<望遠>と<超接写>を繰り返せるし、おそらく<同時に望遠と接写>も可能だろう(あくまで心理的にだが)。しかし、映像は、人間の肉眼ほど器用ではない。

 清順も(あるいはキムタケも)清順ファンも、おそらく誤解している。「けんかえれじい」の夜桜並木のシーンが素晴らしいのは、桜ではなかったのだ。
 もともとは舞台美術出身のキムタケが、その舞台的効果を映画美術に注入した。映画的リアリズムとかけ離れた、シンプルな舞台的セット。しかし、それは短いため、ショットに次ぐショットを積み重ねて、桜並木を完成させる映画的テクニックをも駆使している。舞台的効果と映画テクニックのハイブリッドわざ。単なる紙吹雪が、白黒シネマスコープ・サイズの絶妙ショットの連なりの中で、桜吹雪と化す。舞台と映画の、木村威夫と鈴木清順の、奇跡的な結合。その美しさ。
 このセットを、ただの、凡庸な監督に与えても、ただの、閉まらない、安っぽいものにしかならないだろう。まさに、木村威夫VS鈴木清順そのものだ。
 それなのに、以後連発される、あまり効果のない桜実写。う~ん。

by mukashinoeiga | 2010-03-28 22:49 | 清順の光と影すべって狂ってる | Trackback(1) | Comments(0)