小栗康平「伽倻子のために」南果歩園佳也子古尾谷雅人蟹江敬三浜村純
京橋にて。「逝ける映画人を偲んで 2011-2012」特集。84年、劇団ひまわり。
タイトルロールの伽倻子は、カヤコと、読む。南果歩演じる伽倻子の養母役に、園佳也子、というのは、何かの冗談か。
南果歩も在日というが、園佳也子もそうなのか。ちなみに、この映画では、ふたりとも、日本人の役。
なお、今回の追悼特集に選ばれたのは、撮影監督・安藤庄平追善。安藤のキャメラは、いつもながら、素晴らしい。
景色を撮っても、常に観光絵葉書にしかならない、木村大作とは、もちろん雲と泥の差だ。
舞台は、1950年代の北海道、東京。戦前は樺太にいた少年と少女の一家、その変遷を背景に、成長したふたりの物語。
青年(呉昇一)は、祖父母が玄界灘をわたって日本に密航してきた、在日朝鮮人の子。
少女(南果歩)は、本名ミワコ。おそらく日本人の母親の子だが、母に捨てられて、在日(浜村純)の、もらいっ子になった。その際、ミワコから、朝鮮的な伽倻子に、改名された。
朝鮮人による逆創氏改名か(笑)。やはり浜村も、海を渡って日本に密航してきた口。浜村は日本人妻(園佳也子)をもらい、この二人が南果歩の養父母となる。
ふたりの男女の、青春の愛と別れを描き、ある部分では共感しつつ、たしかに、それなりには、いいのだよ。ついつい思わずセックスしちゃうとか、孤独な青年が、夜に、人の家々を覗き込む、寺山修司的のぞき行為とか。
ほら、青年は、人々が寝静まったころに、夜の町をはいかいして、自分とは「無関係」な、夜の町を覗きまわるもんなんだよ(笑)。私が、そうだったから、間違いない(笑)。寺山修司もお仲間だったのだろう(笑)。
映画としては、それなりにいいのだが、しかし、
1 青年と少女が歩くシーン(複数)で、その歩き方の、まあ、下手なこと。小栗康平は、どんな凡庸な監督でも、そこそこはこなす、主人公とヒロインを並んで歩かせることすら、まともに出来ない。演出の未熟が、あからさまに露呈してしまう。
もちろん新人二人の歩き方の不出来は、監督の責任である。
2 これがデヴューの南果歩はともかくとして(まあ、かわいい。ただし丸顔なのに、貧乳。せっかくのヌードだけど)、青年・呉昇一に、主役オーラ皆無。最初から最後まで、出ずっぱりの主人公が、見ていてちっとも楽しくないのは、はっきり言って苦痛であります。
友人役として、ちらりと出てくる古尾谷雅人のほうが、よっぽど、オーラあり。
3 そもそもこの映画、くるくる場所、時制が変わり、いき戻りしつつ、交差し、かく乱する。ある時期の(ある種の)アヴァンギャルド映画にはありがちだが、だからナンなの、とまったく効果がわからない。まあ、下手だから、意味がなく、趣味でやっているとしか、思われない。
たぶん<青春の彷徨><青春の自分探し>のメタファー的表現なのだろうが。
ただ、単に、そのつどつどの、エモーションを断ち切っているだけに、思われる。
4 青年は在日ゆえに、自分の居場所が確定できない。少女は、半分在日?、しかも、貰われっ子ゆえに、自分の居場所が確定できない。さらに、このふたりは、故郷の樺太を、ソ連軍に奪われ、戻ることも出来ず、彼らにとっての、何重の意味でも<異郷>である、北海道、そして東京に住まざるを得ず、居住地すら、アイデンティファイできない。
ゆえに、この映画の表現として、樺太、北海道各地、東京が、何の説明もなしに、まるで地続きであるかのように編集され、ショットが変わるたびに、登場人物は、今、どこに居るのか、観客は、手探り状態で、画面を見なければならない。
また、大勢の登場人物が、説明なしに輩出するため、特に家族関係も、観客は手探り状態で、見ながら判別しなければならない。
5 冒頭か、主人公の子供時代の回想シーンで、彼の祖母が、かの民族独特の「恨み節」?を、呪詛のようにつぶやき歌い、体をゆする。
大意は、こうだ。「私は、若いころ玄界灘を渡って、この国に来た。でも、まさか、40年も、この<盗人の国>で、過ごそうとは、思わなかった。40年も、この<盗人の国>で、生きるのさえ、心苦しいのに、今、また、私のかわいい娘が、先に逝ってしまった。ああ、なんて、不幸な私だ」。
これがかの民族特有の恨というものか。「私の娘」と言うのは、主人公の母親に当たる。
しかし勝手に密航・密入国しておきながら、しかも勝手に40年も住んでおきながら、日本を<盗人の国>呼ばわりは、逆に、かの民族の<盗人根性>そのものでは、ないか。かの民族こそ盗ッ人たけだけしいではないか。
左翼小栗康平は、おそらくこの老母に同情する立場で、このシーンを撮ったのだろうが、自分の不幸を常に他人のせいにする、かの民族固有の恨こそが、問題なのだ。
6 実は、朝鮮民族の名前というのは、朝鮮固有のものでは、まったくない。
かなり昔のある時期、いっせいに、民族固有の名前を捨てて、いわゆる中華風の名前に変えたという。<半万年の朝鮮の歴史>の、大部分が、中国の属国であったため、中国風の名前に、民族いっせいに切り替え、宗主国さまに、こびへつらったのだ。
時を経て、今度は、日本が支配するようになると、今度も、またいっせいに<創氏改名>に、いたる。
そして、現在は、日本では、いわゆる二つ名の通名を駆使し、アメリカでは、ジョンとかスーザンとか、名乗っている。こういう<民族性向>ながら、なぜか(笑)日本統治下の創氏改名のみ、強制されて、仕方なく改名させられた、とほざくのは、まことに不可解なのだが。
もとっから、かの民族に、ご大層なアイデンティティなどなかったのを、青春ゆえに、主人公は、悩む。
青年は、悩むものなのだ(笑)。どんな、どこの民族の、青年さえ。うーん。
7 親を捨て、青年と駆け落ち、東京で同棲生活を送る南果歩に対して、怒りの養父母・浜村純と園佳也子。
しかし、親兄弟、故郷を捨て、玄界灘を密航して、密入国の、浜村純に、娘の駆け落ちを怒る資格があるのか、と、まじめ?な愁嘆場で、思わず、爆笑してしまいました。園佳也子が日本人とは思えない、火病振りで、笑えるのは、ご愛嬌で。
ラスト、当の昔に分かれた、南果歩の実家近くの道で、無心に遊ぶ少女に、年を重ねた「青年」は、遭遇する。
「年、いくつ?」
「みっつ」
「名前は?」
「ミワコ」
まあ、女性のほうが、強いわなあ。
◎追記◎短い出番ながら、実に実に印象的な<深夜の彷徨者>蟹江敬三が出てくるところから、前述ラストまで、たぶん、きわめて日本的な感性による描写が続くが、それは、映画の登場人物がおおむね在日である本作にとっては、失敗ないし失速なのではなかろうか。
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by mukashinoeiga | 2013-05-07 10:09 | 珍品・怪作の谷 | Comments(0)