久松静児「神坂四郎の犯罪」
阿佐ヶ谷にて。「現代文学栄華館-昭和の流行作家たち」特集。56年、日活。
かなり知名度が高い、つまり<名作と誉れが高い>映画なので、昔から、見たいと思っていたものの一つ。
雑誌編集長の森繁久弥が、会社の金200万円の横領と、文学少女・左幸子への「心中」偽装殺人の罪で、起訴される。ほとんどのシーンが裁判劇となる、日本映画では、珍しい構成。各証人の証言にあわせて、回想シーンが、それぞれ挿入される。
事務員・高田敏江、雑誌社顧問の評論家・滝沢修、妻・アラタマ、などが証人に立つが、みな、勝手に自分に有利な証言をする。左幸子は死んでいるので、残された日記が朗読される。
果たして、モリシゲは、本当に横領犯人で、愛人を心中に見せかけて、殺したのだろうか。それとも、モリシゲが主張するように、雑誌社社長・清水将夫や、顧問・滝沢修の謀略によるものか。
この当時の日本映画には珍しい、裁判劇。たぶんに、このジャンルお得意のアメリカ映画に影響されたものか(原作・石川達三)。
しかし、この裁判劇、かなり、甘甘。法と論理と証拠に基き展開するはずの裁判劇が、情念と、くだぐだあいまいな私怨のやり取りに終始し、論理も法理もまったくなし。当時の名作○○選では必ず登場する本作だが、どこがいいんだか、優れているんだか、まったくわからない。凡作が、ある種の<当時の状況>により、<問題作>にフレーム・アップされる典型のひとつかと。
本作のモリシゲの演技が評価されている。しかし、白か黒か、あいまいな二重性を演じ切れてはいない。モリシゲは、いつも<奥がない><下心丸わかり>のナイス・キャラを演じるには長けているのだが、<悪人か、冤罪なのか>あいまいな、二重性のキャラを、まったく演じられない。<思わずにじみ出るスケベ心>を、演じて絶品なのに、スケベなのか、スケベでないのか、人によって評価が、違う、なるキャラを演じうる演技力ではないのは、明白なのに。
しかも、モリシゲが「社長に、はめられた」と証言するたびに、傍聴席の社長は、あきらかにたじろぐ。清水将夫、そんなに、たびたび、たじろいでいたら、自分がモリシゲをはめたこと、丸わかりだろ。都合が悪くなると、よよよ、と泣き崩れる後輩女優・高田敏江を見習えよ(笑)。まあ、清水将夫に<繊細な演技設計>を求めるほうが無理なんだけども。
そういう意味では、やはりモリシゲに暴露される滝沢修は、清水将夫どうよう、たじろぐのだが、まだ滝沢のほうが、暴露されてうろたえているのか、思いもよらぬ誹謗におろおろしているのか、まだ、判別しがたい演技で、さすが、清水将夫より、演技に一日の長がある(笑)。
当時の日本映画としては珍しい裁判劇だが、展開がずさんすぎる。残念。
そして、こんな映画を<問題作>、モリシゲの演技をほめるのは、明らかに<時代的過失>。モリシゲ演技の美質は、こんなところにはない。
なお、蛇足だが、本作上映の後半に、たびたび、音声が途切れる。ついには、かなり長時間の音声なし(映像はふつうに流れる)。とうとう上映中断、スタッフが「16ミリ映写機の故障です。このまま音声不完全な映写を続けますが、途中退場でも、最後まで見られても、招待券、または返金対応する」とアナウンス。ぼくを含めた大部分の客は最後まで見て、終了後、招待券を受け取る。途中退場は数名。
再開後、意外と、持ちこたえる音声。でも、裁判劇で、台詞が聞こえないのは、論外で、かなりの台詞を聞き逃したことになる。
映写機には、フィルムの映像面に当てて、映像をスクリーンに投影拡大する、光源ランプとは別に、サウンドトラックに光を当てて、光学録音を再生する、音声用ランプがあり、この音声用ランプが、電灯ランプ同様「いつかは切れる」わけで。完全に切れる前の、明滅状態による、音が出たり出なかったり状態、と思われる。しかし、経験上(ぼくは35ミリ映写機しか経験がないが)この光学音声再生用ランプが、切れるのは、珍しい。しょうがないといえば、しょうがないトラブル。ラピュタ阿佐ヶ谷の対応も、ほぼベストで。
なお、故障したのは16ミリ映写機なので、このあとの35ミリ「新しい背広」「女侠一代」は支障なく上映されるようだが、16ミリ「一刀斎は背番号6」は上映中止。本作「神坂四郎の犯罪」「女侠一代」「一刀斎は背番号6」と、珍しくラピュタを固め見しようとしたのに、残念。
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by mukashinoeiga | 2011-12-13 23:54 | 面白メロドラ日記 久松静児 | Trackback(19) | Comments(0)

