内田吐夢「千両獅子」
京橋にて。「よみがえる日本映画vol.2 東映篇-映画保存のための特別事業費による」特集。58年、東映京都。
非常に繊細でセンシティヴな(同じか)快作、といっていいのか、どうなのか。
しかし、きわめて印象的。
実は将軍の御落胤、旗本の殿様の、市川右太衛門が、浪人姿で、江戸を徘徊し、庶民とよしみを通じて、悪を正す。原作・山手樹一郎の通俗きわまる娯楽時代小説の映画化。これぞ、東映通俗時代劇のきわみ。
しかも、スタア右太衛門の一人二役という、東映時代劇ずぶずぶのお約束もあり(スタアを一本の映画で二度楽しめる)ザ・東映時代劇、ザ・スタア映画そのもの。
そういう映画と思わせて、しかしきわめて、緊張感がある画面が連打される。白黒シネマスコープを生かした、横長の映像の、きっちり端正な、さりげなくただならぬ映像たち。キャメラのパンニングのたしかさ。
そして、ラストは、東映チャンバラらしからぬアンチ・クライマックス、最後の大立ち回りはなく、きわめて耽美的?なラストが用意されている。
この特集でも、もう一回上映があるので、一応、以下、ネタバレだ。その前に、吐夢トム吐ー夢、とは。
内田吐夢と言えば、1980年頃に「ぴくちゃあ通信」氏が同人誌でやったOLD映画人気投票でもそうだったが、OLD映画ファンにとっての人気監督のひとりで、ぴくちゃあ氏らの監督人気投票でも、ベストテン内に入っていた。
ところがその頃から、OLD映画にはまりだしたぼくなどは、内田吐夢、だれそれ状態。名画座でも上映されないし、てか、たんにぼくの目の中に入っていなかっただけなのか。
いや、それだけでも。内田吐夢の映画を何本か見ていえるのは、もちろん重要な作品を見逃しているのかも、というなかでいえるのは、内田吐夢はしっかりした作劇の中に、時々ハッタリや、ケレンを、挟む。しっかりかつハッタリ、で評価されていたのか、と。
しかし。
微温的なハッタリ。ケレンなのに、熱がない。当時はそれなりに評価されていたゆえの、人気監督ベストテン入りなのだろうが、ハッタリもケレンも、いかにも紋切り型に見えてしまう。微温かつビミョー。
そつのないハッタリ。そつのないケレン。
ぼくには、そう思えるのだが。
というわけで、以下ネタバレで、結末に触れます。
スタア右太衛門の一人二役。
ひとりは、将軍家御落胤の旗本。通俗時代劇のお約束に従って、浪人に身をやつし、市中を徘徊。悪を憎み、強きをくじき、弱きを助ける。仮にBとする。
いまひとりは、やはり御落胤を名乗る「葵太郎」、大勢の配下を連れ、豪商、将軍家に、押し込み強盗の、盗賊頭領。金も盗めば、人も殺す。仮にAとする。
ところが、このふたりは、同じ顔、同じ体型の一人二役だけあって、実は、兄弟。
ある武士夫婦が、長男Aをもうける。そののち、その妻が、好色な将軍の目に留まり、側室に。夫は、忌避に触れ、排除される。
妻が、将軍とのあいだに御落胤Bを産む。Bは旗本に。このBを慕うのが、老中の娘の姫・大川恵子。
長男Aは、だから、御落胤では、ない。しかし御落胤の「葵太郎」を名乗り、次々盗みを働く。姫・大川恵子も、かどわかす。
弟Bは、当然兄Aに似ているし、しかも、おせっかいな性格から、いつも「葵太郎」の盗賊現場に、いる。
南町奉行所奉行・山形勲は、当然弟Bを捕縛する。そして、現代では絶対に理解されない、奇妙な論理に従い、その老母(将軍の元側室なのに)をも、捕縛。
母子をそれぞれ乗せた駕籠を、大勢の役人たちが囲み、山形勲を先頭に、奉行所に向かう、真っ暗闇の江戸の街。橋に差し掛かると、葵太郎が、現われる。
「葵太郎」は、将軍家から盗んだ五万両の千両箱を、支度金だという。何の支度金か。
ここで、行われるのは、エスピオナージュ物の定番、橋の上での互いの捕虜交換と、なる。
兄Aの「葵太郎」は、五万両と姫を差し出す。
弟Bは老母を差し出す。
兄Aは、将軍に母を取られて、これまでずっと母の愛を知らなかった。これから、親孝行したいという。
老母も、長らく会うことすらかなわなかった子と、余生を暮らしたいと瞬時に判断する。
弟Bも、それを理解して、母を送り出す。
兄と弟の間で、母の委託が一瞬の了解のもとに、行われる。
それは、それでいい。あるいは、なみだなみだの感動モノの名場面になりうるかもしれないのだが。
しかし。
母は交換されるのだ。弟Bの、いいなづけと。かわいい大川恵子と。老母・松浦築枝が。
なんとも言いようもない、何がしかの倒錯性が、匂うのだ。母の愛を知らない兄に母を譲り渡す、作りようによっては、感動ドラマにもなりようものなのに、かすかな倒錯のにおいが。これが職人に納まりきれない、吐夢の意匠か。
時代劇のお約束の、ラスト大立ち回りを省いても、こういう結末になることこそが。
もちろん橋の上で、山形勲の南町奉行所の捕り方たち、旗本・右太衛門と老母、対する盗賊団「葵太郎」と手下たち、その人質の大川恵子姫、大勢が入り乱れているのだから、お約束の乱闘になるのは、きわめてたやすいことなのだ。それなのに。
しかし、そのあえやかな倒錯性は、微なるがゆえに、緊張感はあるが、あいさつに困る。感応できなければ、ただの、単なるクライマックス抜き、なんだから。アンチ・クライマックスに、クライマックスを感じ得れば、いいのだが・・・・。しかし、その倒錯の匂いは、吐夢が、意図したものなのか、どうかは、ヨクワカラナイ。
●追記●つまり、母親と花嫁が等価に<捕虜交換>されるわけなのだが、いや、そのはずなのだが。
兄Aも弟Bも、実は、かわいい大川恵子のことなど、眼中には、ないのだ。
兄弟がひたすら目を注ぐ<欲望の対象>は、年老いた、上品そうな松浦築枝なのだ。いや、もちろん<欲望の対象>といっても、性的なそれではなく、孝行の愛なのではあるが、ここで重要なのは、本来等価に<捕虜交換>されるべき二人のうち、花嫁が無視される結果、老母こそが、この映画のクライマックスでは、<嫁ぎ行く花嫁>の光芒、<花嫁>のエロスを帯びてしまうことだ。
弟・右太衛門、奉行・山形勲のいる木橋の中央から、静々と老母を帯同する形の、兄・右太衛門が、花嫁に付き添う花婿に見えてしまうのは、やむをえない。ただの盗品の五万両の返還に対し、盗賊の兄は<支度金>という。母親という<花嫁>を、弟の前から、永遠に連れ去ってしまうための<支度金>。
<お約束>の<爽快なクライマックスの大チャンバラ>がないだけに、倒錯性だけが残る。それが内田吐夢の、内なる吐夢なのだろうか。
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by mukashinoeiga | 2011-05-15 00:11 | 旧作日本映画感想文 | Comments(0)

