山本薩夫「天狗党」仲代達矢若尾文子十朱幸代加藤剛
神保町にて。「幕末映画血風録・第五回江戸文化歴史検定開催記念特集」。69年・大映京都。
幕末尊皇攘夷の、実質的な先陣を切ったのは、水戸藩の、若者たちである。しかし、それは、時期早尚であり、無謀な、少数派の<謀反>の、扱いをされた。私見だが、水戸藩は、倒すべき江戸幕府と地理的にも、あまりに近く、頼るべき京都と、あまりに遠かった。地政学的に無謀だった。そのうえ時期早尚、さらに、あまりに先鋭化していたための、先覚者の悲劇であった。水戸天狗党は、その典型であった。
さて、山本薩夫映画の中でも、この「天狗党」は、あまり、上映されない。なぜか。
理由は簡単。
1 典型的大映プログラム・ピクチャアである。要は、娯楽時代劇である。内容的にもさほど傑出はしていないし、天狗党自体が地味。しかも、仲代達矢が主演、大映としても傍流であろう。
2 天狗党は、時の権力にはむかう、高々数千~数百の、私的戦闘集団である。であるゆえに、その実態は、内ゲバ、疑心暗鬼による同士討ちの連続であった。
これは、明らかに左翼~日本赤軍~新左翼の、内ゲバ闘争の暗黒史と見事にダブり、まるで、左翼武闘派の末路を比喩しているかのよう。
共産党・山本薩夫の映画を、熱烈支持している左翼諸君にとって、わが身の醜悪さを鏡を見ているようで、脂汗たらーり、忌避しても当然ではないか。
かくて、あまり上映されないし、話題にも上らない、というわけ。
ヒロイン格でダブル・クレジットの、若尾文子、十朱幸代は、要所要所にしか出てこなく、まさに顔見世。
主演・仲代は、例によって、クサいけど、味のない、棒演技。この人と、緒方拳、山崎努は、世間では名優扱いだが、どこがうまいのか、ぼく的には、棒俳優の一人。
たらればの話になるが、雷蔵が生きていて、監督が三隅だったら、あるいは傑作になったのかもしれない。
しかし、左翼とは思えないほど、山本薩夫は、天狗党を介して、左翼的醜悪さを、えぐるように、描くなあ。
弱い立場の民百姓の味方のふりをして、最終的には、弱い者たちをどんどん裏切り、虐殺していく。左翼的権力の末路。
しかし、こりゃ、天狗党は、完全にダシ、扱いだ、ね。
加藤剛が、天狗党の、ナンバー3か4格の、幹部。あるときは、その直属上司たる神山繁の側につき、冷酷に下の者を切っていく。あるときは、下のものの側に立ち、苦悩する。そういう複雑な男なのだが、名前の通り演技も剛直な加藤剛のこと、そんな複雑かつ繊細な役回りは表現しきれないのが、見ていて、笑える。棒優。
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by mukashinoeiga | 2010-09-23 23:33 | 山本薩夫傷だらけの左傾山河 | Comments(9)
たぶんTVでやったのか、ここ数日急激にアクセスが増えています。そのあとは 久松静児「丼池(どぶいけ)」が急増。
そうか、ぼくは、ヤマサツが左翼のくせに、「左翼的シチュエーションの」政治運動を暴露的に描くのがフシギでしたが、近親憎悪、内ゲバの類だったのですね。納得。 昔の映画
左翼武闘派になぞらえておられますが、天狗党の思想は、「尊王攘夷」です。これって、明らかに「右翼」ですよね?「革命」とは語の本来の意味からすると、王朝の打倒を意味します。明治維新は、「「王政復古」をスローガンとしており、これを「左翼」になぞらえるのは、そもそも無理があります。
映画「天狗党」が描いているのは、「左翼」のみならず、古来、政治組織が繰り返してきた醜悪な内部抗争だと思われます。埴谷雄高いわく、「政治とは究極において敵を殺すことである」その「政治」を表象した映画ではないでしょうか。
対象を揶揄・嘲笑するのならば、まよく調べ考えること。一知半解の批判は、書き手の無知・無教養をさらすだけです。
以上、妄言多謝。
>天狗党に先んじて、平野國臣らによる但馬・生野の乱、天誅組の蜂起が行われています。
たしかにそうでしょうね。しかしそれらの事象は、「結果的」に世に知られていません。残念ながら、そういう「脚注」的事件を「強調」するのは、「本質的」でないと思われます。「結果的に残らなかった」事象と思います。そういう意味で「実質的な先陣」と書きました。しかし、勉強にはなります。
>左翼武闘派になぞらえておられますが、天狗党の思想は、「尊王攘夷」です。これって、明らかに「右翼」ですよね?
ヤマサツは左翼でありながら、なぜか(右翼の恥部だけではなく)「結果的」?に「左翼の恥部」も、描いてしまう。<明らかに「右翼」>な天狗党を描きつつ、実は、それは左翼そのものの直喩ないし隠喩であるというのがヤマサツ映画の構造だ、ということを言いたかったのです。言葉が足りず、すいません。
まあ、組織ゆえの欠陥は、人間のすることですから、右翼左翼は問わないという、本質論です。
長文規制ゆえ、続きます。 昔の映画
>明治維新は、「「王政復古」をスローガンとしており、これを「左翼」になぞらえるのは、そもそも無理があります。
<「左翼」になぞらえ>ているのは、ぼくではなく、ヤマサツ本人である、と、ぼくは、認識しております。少なくとも、ぼくは、そう感じて、この駄文を書いたのです。それは、ぼくの誤認だといわれれば、そうなのかもしれません。しかし「誤読」は、「受け手の権利」でもあります(便利な自己弁護)。
>映画「天狗党」が描いているのは、「左翼」のみならず、古来、政治組織が繰り返してきた醜悪な内部抗争だと思われます。
まったく同意いたします。
>一知半解の批判は、書き手の無知・無教養をさらすだけです。
わたくしは、日々無知・無教養をさらけだしつつ、生きておりますので、もう御忠告どうしようもありません(笑)。しかし、これからも、びしばし御指摘お願いします。 昔の映画
まったく蛇足で、すいません。ついでの駄文。
>「革命」とは語の本来の意味からすると、王朝の打倒を意味します。
「革命」とは語の本来の意味からすると、「易姓革命」。けんさん、おっしゃるとおり、たかだか前「王朝の打倒」にしか、過ぎません。そんな「革命」を、あたかも「革新」であるかに、意図的な誤宣伝をしたのが、左翼ということでしょうか。
中国の醜態を見ると、まったくそのとおりで、そもそも易姓革命に「まったくの大義」がないことが、丸わかりという。 昔の映画
日本による「対中戦争」は、「侵略」だと「誤解」されていますが、
事の本質は、「失敗した易姓革命」ですからね。
モンゴルや女真族と、なんら変わりがないわけです。
まあ、易姓革命に「下手に」成功してしまうと、即中国化してしまいますから、失敗して、よかったんですけどね。
以上、まったくの蛇足。 昔の映画
大映の市川雷蔵の(忍びの者)でも腕のいいところを
あの映画がヒットしたので永田社長が続編も作るように
で
続も作られたが山本は一作目だけで降りたのは正解! 薩夫の忍びを見たら他の監督のは見られない!
永田ラッパは山本が思想的にどうのこうのと言うほど肝が小さい男ではないのがいいねーー。
映画で左翼とか共産党とか馬鹿なこと言うと アメリカの
大監督とかヨーロッパの監督はほとんど左だよ!
イタリヤの貴族でありながら共産党のルキノビスコンティー(若者のすべて)デシーカ(自転車泥棒)チャップリン(ヒットラーを皮肉つた独裁者)いくらでもいる。
映画がよければ右も左もないよ! 三島由紀夫のような気のふれたのも困るけどねーー。
>山本薩夫監督は名監督ですよ!
もちろん、知っておりますよ。当ブログは再三にわたってヤマサツを絶賛しておりますよ。
>永田ラッパは山本が思想的にどうのこうのと言うほど肝が小さい男ではないのがいいねーー。
というか、永田には「思想」なんて、影も形もなかったので、肝が小さい大きい以前の問題ですね(笑)。
>映画で左翼とか共産党とか馬鹿なこと言うと アメリカの大監督とかヨーロッパの監督はほとんど左だよ!
大川千恵蔵さんが「なぜか」ネグレクトしている、と気になりつつ、戦後日本の(意識的(笑)な)監督は、ほとんど全員左翼ですよね。
山本はかろうじてその傾向を逃れているとはいえ、左翼監督の一番の問題は、「主人持ちの文学」であるということですね。それは「映画で左翼とか共産党とか馬鹿なこと言うと」という、大川千恵蔵さんに、いわしていただきますと、本当に大部分の左翼・共産党の監督は「バカ」なんですよ(笑)。
一映画ファンとして言わせてもらいますと、「主人持ちの文学」は、本当に「映画の敵」ですからね(笑)。
>三島由紀夫のような気のふれたのも困るけどねーー。
左翼の皆様はヘイトスピーチを嫌いといいつつ、平気でヘイトスピーチしますよね(笑)。実はヘイトスピーチがお嫌いなのは、近親憎悪なんではないですか、左翼諸君(笑)。 昔の映画