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成瀬る3   二人の娘、成瀬の女性性

 『女の座』(1962・脚本井出俊郎・松山善三)で、二人の娘(司葉子、星由里子)が、ともに関心を持つ男(夏木陽介)について、歩きながら語り合うシーンがある。
 その二人が歩く背後の塀に映画の宣伝ポスターが張ってある。
 千葉泰樹『二人の息子』。思わずにやにやしてしまう。
 宝田明と加山雄三が兄弟を演じる傑作であるが、『女の座』とプロデューサーも脚本家もおなじ、主要な人物が、踏切事故で死ぬのもおなじ。家族間でお金で争うのもおなじ。
 しかし、それ以上に、ああ、成瀬映画って「二人の息子」じゃなくて、「二人の娘」なんだなあ、という連想に行き着く。もちろん例外はあるが、成瀬映画では基本的に、二人の女がひとりの男を争う映画ではないか、と。
 『女の座』にしても、ともに夏木陽介を好きな「二人の娘」もそうだし、さらに一方的な草笛光子の思い込みなのだが、草笛と高峰秀子が宝田明を張り合い、草笛が高峰のほほを張り飛ばす。
 『妻として女として』では、二重の意味で高峰と淡島千景が男を張り合う。森雅之と、そして息子・大沢健三郎を。『妻よ薔薇のやうに』は、本当はメインタイトルが『二人妻』、これもひとりの男をやり取りする二人の妻の話が基本で。『くちづけ/女同士』も、一方的にだけど男を取り合う二人の女の話だから「女同士」というのは、なんか仲よさそうでヘンだ。『雪崩』も『まごころ』も『銀座化粧』も『めし』も『浮雲』も『ひき逃げ』も『夜の流れ』も『妻』も『山の音』も『あらくれ』も『放浪記』も『女の中にいる他人』も基本的に「二人の女がひとりの男を争う映画」なんだとおもう。
 成瀬映画ずいいちの二枚目・森雅之は女好きだから女に次々手を出すわけではないのだ。女のあいだに対立をもたらすためにモリマは存在している。モリマ・サッカーボール説、蹴られるために必要な存在。

 ここで少し話を変えて、成瀬が、その出身であるにもかかわらず、おそらくは、絶対になじめなかっただろう、戦前松竹メロドラマというのは、一言でまとめちゃうと、「色々な男がヒロインを狙ってくるけど、でも私は純情一筋よ」てことだと思う(複数の男が一人の女を争う、逆成瀬パターン)。清水宏『銀河』は、ヒロインが想う男すら、ヒロインのからだを狙ってくるという点で、典型にしてハイパー松竹メロだった。しかし成瀬映画は「色々な男がヒロインを狙ってくるけど」というパターンは好まない。
 「夫がいて、好きな男もいる」系の成瀬パターンでは、夫はたいてい死んでいて、未亡人である(『まごころ』『銀座化粧』『お国と五平』『おかあさん』『妻として女として』『乱れる』『乱れ雲』)し、あるいは一方の男が身を引くし(『君と行く路』『鶴八鶴次郎』)、結局は元サヤに納まったり(『鶴八鶴次郎』『舞姫』『めし』『妻の心』)、三国連太郎がおねえだったり?(『夫婦』)などなど。
 なにが言いたいのかというと、ひとつは成瀬映画は「女が男を選ぶ」のであり、男はその女の選択に従うほかはないということである。男をめぐる女の争いを描くという点で、成瀬映画は常に女性の側に立っているといえよう。
 もうひとつ成瀬は、女同士の争いは、ビンタになったりキャットファイトになったりと、かなり派手なのだが(女性の複数性)、男同士の争いは極力回避するということだ。
 夫はすでに亡かったり、一方または両方が身を引いたり、男同士の女をめぐる争いというのが、なぜか、顕在化しないようしないように、回避している。アンチ戦前松竹メロ。 旧松竹三羽烏の中で、上原謙、佐野周二と違って、なぜか佐分利信が成瀬映画にお呼びでないのもはっきり分かる。佐分利は「結婚は生活の方便だから」と「ぼくの妻なんてものはこの程度だろう」という理由で、複数の女の中から一人の女を選ぶ男、そういう男目線のキャラだから(いわゆる戦前松竹メロドラマのなかで、上原・佐野と違い、佐分利はそういう役をいくつか演じたように思う)。上原や佐野は、傲慢にも女を選ぶ、というキャラでは比較的なかったように思える。たとえば清水宏『歌女覚え書』の上原のように、こうと決めたらその人一筋という役に、佐分利は似合わない。
 成瀬映画は、親和性あふれるユーモアがある種の女性性の上に成り立つと同時に、基本的に女たちが男を争う、女性優位の世界なのだ。

 『コタンの口笛』という、成瀬にしてはいろいろな意味で異色な映画がある(1959・原作石森延男・脚色橋本忍)。橋本忍映画としては、生ぬるい部類だろうが、成瀬としては例外といっていいほどドラマチックで社会派。らしくない成瀬映画。
 基本は『おかあさん』『秋立ちぬ』と同じ、子供という力のない立場で、自分にはどうしようもない状態で、家族や周囲の親しい人たちが、自分の前からどんどん消えていく、それを淡々と描いていく、まあいつもの成瀬調と思わせて。
 この映画がほかの成瀬映画と違うのは、アイヌ人と和人という、民族間対立の問題が導入されていることで、このことにより、子供たちがつらい目にあうのは「差別」によるものであり、だから、子供たちはいつもの成瀬映画のように運命を従順には受け入れない。「差別」に、立ち向かおうとする。そこらへんはいつもの成瀬映画との違いで、調子の狂うところだろう。こういう社会派的「テーマ主義」にはまったくなじまない成瀬なのだ。
 ただし、子供たちは最後には、同じアイヌ人の伯父・山茶花究に食い物にされるのだから(冷酷な山茶花が例によってグッド)それまでの民族間差別云々が無化されてしまうのが面白い。
 森雅之はじめアイヌの大人の男たちは、差別されることに慣れすぎて、徹底して卑屈きわまる。こういうところが成瀬ごのみなのかな。
 ちょっと笑えるのは。そして、これこそいかにも成瀬なのだが。
 アイヌ人と和人の女生徒同士は、ビンタしたり取っ組み合ったりのキャットファイトが、具体的に描かれる。対して、同様の男子生徒同士は、成瀬映画としては珍しく二度も争う。特に二度目は夜の校庭で決闘をして、一方に重傷を負わせる。ところが、画面上では、描写を省略して、なんと男の子たちが相手に指一本触れるシーンすらないのだ。女の子たちの喧嘩はちゃんと描くのに。
この映画の男の子は、(画面上)相手に接触することなしに、けんかで重傷を負わせてしまうのである!
 う~ん、ここでも成瀬は男同士の争いを回避しているなあ。よっぽど男同士の闘争が嫌いな成瀬なのである。『稲妻』の高峰秀子の兄は、男たちが立ち回りの喧嘩をすると、遠巻きにしてビビっているだけ。その喧嘩の描写も、成瀬演出は驚くくらいシマラナイのだ。
 『あらくれ』の高峰秀子と三浦光子の文字通りのキャットファイト、『ひき逃げ』の高峰秀子と司葉子の神経戦、『妻』の高峰三枝子と丹阿見谷津子の言葉の応酬、そういう女と女の争いは喜んで(?)描くのに。とことん女の子(笑)なミッキーなのである。 

by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:34 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback(1) | Comments(0)

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