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小津漬の味4 『麦秋』問題、あるいは兄とその妹


 一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

 『晩春』で、一人娘を抱えたやもめ男の再婚をさんざん「不潔」呼ばわりした挙句、二年後の『麦秋』で、自らさっさと一人娘を持つやもめ男の後妻に納まる紀子の、言行不一致は、とても同一作者による同一女優の「同一人物」とも思えない仕儀である。ここまで逆だと、立派にギャグだと思う。
 もっとも佐分利信も矛盾の総和が人生だというくらいだから(『彼岸花』)何の不思議もないのだが、つまり明らかに『麦秋』は『晩春』の、すべてにおいて逆張りなのだろう。 『晩春』というタイトルは、季節の一時期とともに、「オールドミス」であるヒロインの状況を示すものとされるが、原作が広津和郎「父と娘」であることを考えれば、「晩」が老父を「春」が娘をも指す、ある種の言いかえと見ることもできる。
 小津映画を親父ギャグ的視点から読み返すこと。
 で、あるならば『晩春』の二年後に同じ女優による同じ役名のヒロインで、同様に結婚問題を扱う『麦秋』の発音が、
 ばんしゅん
 ばくしゅう
と酷似しているのも、ほとんど駄洒落の域に達していよう。
 『晩春』では父ひとり娘ひとりの紀子が描かれ、その親子関係は聖性を帯び、いやむしろ何がしかの妖しささえ漂わせていた。では今度はその聖性を剥ぎ取った紀子ではどうか。
 と小津は考える。かくて『麦秋』では『晩春』と真逆の、大家族が紀子に与えられた。父親には俗臭芬々たる菅井一郎が選ばれた。菅井ではさすがの紀子も「萌え」ないだろう。駄目押しに、父には伴侶・東山千栄子(これ以上ないほど俗な重量感)、老後を穏やかに過ごせるまほろば・大和も付け合わされ、至れり尽くせりといえる。
 もう「私が嫁げば、父は・・・・」などと心配することはできない。さらに『晩春』の聖なる父・笠智衆には、今度は俗なる兄の役割を付す。たぶん紀子は死んだ次兄ほどにはこの長兄を好きではない(なぜ笠智衆が「兄」であるかについては、実はちゃんと理由がある)。
 こういう実験条件では、紀子は、やはり父にはまったく配慮を示さず、さっさと嫁に行く。彼女の給料の一部が家に入らないと、なぜか両親は田舎に引っ込まなければならないと話されるにもかかわらず(この設定、彼女が両親二人分の生活費を支える、というのはいささかおかしいように思われる。900円もするケーキを買ってる場合ではないと)。
 そして『晩春』では三島雅夫の、ひいては笠智衆の再婚を、あれだけ「不潔」と言い切っていた紀子は、さっさと、何のためらいもなく、こぶつき二本柳寛の後妻に収まってしまうだろう。この違いよう。この、冗談ともいうべき不誠実。紀子さん、そりゃないよ、三島雅夫に悪いと思わないのか?
 常に同じような役者が同じような役回りを繰り返し演じ続けるのが小津映画だとされる。確かにそうなのだが、その中にあって原節のみは、きわめて特殊だといわざるを得ないのも事実だ。『晩春』の光り輝く娘から、戦争未亡人へ、そして『秋日和』の笠智衆的役回りの母親へ。
 原節子を除く、杉村春子、戦前からの三宅邦子などなどが、ほぼ差異を感じさせない役回りを延々と演じている中に、原節子だけが「なまもの」みたいだ。
 特に三宅邦子なんて、1930年代から1960年代まで、毎度毎度、いつもの、家庭婦人だ。小津以外の映画でも、妻でもない、母でもない、女でもない、家庭婦人としか言いようがない役柄を終始一貫して演じ続けた。若い頃は、娘役などもあったのだが、とても似合ったとは思えない。はたちの娘を演じたときも、あの落ち着いた言い回し、態度だったのだ。驚異の冷凍食品女優。いつ食べても同じ味。
 ほぼ、不動であるかのような小津映画の俳優たちにあって、原節子だけがいろいろなシチュエーションを楽しまれてる、気がする。プレイとして、遊ばれている、気がする。
 いや実は戦前大アイドルの田中絹代も、いっとき『風の中の牝鶏』で文字通り「墜とされる」のだが、それ以降は『宗方姉妹』『彼岸花』と、きわめてまっとうな存在に収まっている。原節子だけが、たいへんに怪しい扱いをされているように思える。
 気のせいだろうか。
 しばしば同じ話、と見られることもあるが、つまり明らかに『麦秋』は『晩春』の、すべてにおいて逆張りなのだ。 結婚相手は親に勧められるままから、一応親に無断で自分で決める。相手も親が望んだ相手から、親が失望・落胆する相手へ。この『麦秋』化は、どういった方向を目指しているかというと、おそらくは『晩春』よりは、より娘の側に寄り添っていると思う。もちろんそれは当然小津なりのレヴェルでということだが。
 戦前はボーイズものや(大学生だったり小学生だったり)やもめ男ものなどであり、晩年は完全にオヤジ映画になってしまう小津映画にあって、『麦秋』は、いちばんフェミニンな映画になるのではないか。
 兄嫁と台所でお釣りのやり取りをしているところなど、兄嫁が三宅邦子であることもあって、まるで島津保次郎『兄とその妹』そっくりだし、最後海岸でこの映画の締めとも言うべき会話をするのもこの二人であり、この二人と二本柳のケーキのシーンこそ、小津映画でも、もっとも幸福感あふれるシーンのひとつであろう(この「原節子が買ってきたケーキを大人だけで食べる」シーンは成瀬の印象にも残ったのか、小津大意識大会『娘・妻・母』で再現されている)。
 また、『麦秋』は料亭の描写がとても面白い。女将・高橋とよの娘・淡島千景の私室がメインになっており、ここにその友人たち原節子・井川邦子が集う。本来、男の社交場である料亭に、一人ぽつねんとしているのは逆に客のほうの佐野周二。
 挨拶に来る原節子と佐野周二の会話はその内容とも素人くさいもので、おそらく料亭の使い方としては日本映画史上もっともへんてこりんなものだろう。後年の親父映画の小津としても、かなり女性寄りの描写と思う。
 もっとも親父映画にあっても小津はあまり料亭を使わない。基本的に小津の親父たちは、映画の中では、いわゆる接待をしない。仕事がらみの呑みをしないのだ。芸者もあんまり出てこない(ぼくの記憶に残る芸者遊びは、それこそ桑野通子の『淑女は何を忘れたか』のみだし。他にあるのだろうか?)。そのへんが東宝サラリーマン物と決定的に違うところ。接待ばかりの東宝サラリーマン物と、あまり接待しない松竹/小津サラリーマン物の差異も、比べてみれば結構面白いのかもしれない。高度成長期に東宝サラリーマン物がヒットし、松竹のそれが冴えないのも、むべなるかな?
 小津映画では、もっぱら自分の楽しみのために飲む。あるいは同窓会の相談のために飲み、そして同窓会そのもので飲む。ほかの映画では良くある飲み、上司と部下の組み合わせというのも、『彼岸花』の佐分利と貞二のものくらいか(元上官と部下の『秋刀魚の味』の笠と加東というのもあるが)。男と女にいたっては、コーヒーかラーメンかうなぎ屋かくらいの健全派(例外はもちろん『早春』)。飲み会から見た小津の男たちはとうとう、ボーイズ(学生)の延長に終始している。
 酒場に仕事を持ち込まない。女の接客も要らない(小津映画のバーのホステスたちは、客を相手にせず、されず。たいていはかなり暇そうななまま、接客をしない)。基本的に酒そのものが好きなのだろう。もっとも、つまみは、高橋とよへの冗談だったり、いかに娘たちを嫁がせるかだったり、いかに北竜二をからかうかだったりする。
 その他、恒例の友人・アヤと仲間たちのシーンもある。仲間たち三人が紀子のうちに集まるシーンは、結局二人が不参加でさびしいシーンなのだが、同時に子供たちが一階に大勢集まることで、その寂しさを補っている、絶妙の構成だ。さびしいのににぎやか。
 『晩春』に比べて、この映画では親というものはそれほど重要ではないように思える。
 長兄・笠智衆、仲のよかった不在の次兄、次兄の同級生・二本柳、これら「兄」たちと、その妹・原節の関係は、さいご二本柳一家と、その「妹」世代の原節が、ともに異郷の地に旅立つことを考えれば、まるで『兄とその妹』だ。監督脚本・島津のこの傑作を小津は評価している。『兄とその妹』は中国東北部の満州に旅立ち、『麦秋』は日本の東北部の秋田に赴く。しかも、二本の映画とも、その赴任を働きかけるのが、笠智衆なのだ! 笠は『麦秋』ではヒロインの兄、『兄とその妹』では、兄・佐分利の同窓生、つまりヒロインにとっては兄世代に当たる役回りだ。
 そういえば『兄とその妹』の、佐分利の役名は間宮敬介、その妻・三宅邦子の名はあき子。この三つの名前は奇妙に小津的でもある。あるいは松竹的な名前なのか。もちろん、『麦秋』の原節子一家は間宮姓であった。ちなみに「兄とその弟」ともいうべき映画が『間宮兄弟』(森田芳光)というのはたぶん偶然なのであろう。
 さらに『麦秋』の原節子が重役・佐野周二の秘書であり、オフィスで英文タイプを打つシーンは、『兄とその妹』の桑野通子が原節に先行する原型的女優であるだけに、直接的な引用とすら思わせる。
そうであれば、前述した原節子が同窓生を家に呼ぶシーンは、『兄とその妹』で桑野通子が同窓の友を呼んで催す誕生会からの変奏とも思えてくる。坂本武と佐分利の将棋も、宮口精二と笠の碁に変化している(本来の小津映画の親父たちならすかさず酒席になるところを、しらふで禁欲的に碁を打つなど、これは『兄とその妹』へのあからさまな目配せとしか思われない)。
 そして、佐野周二だ。佐野と秘書・原節子のオフィスは、もっぱらその共通の友人・淡島との気の置けない会話のみで成り立っている不思議なオフィスだ。淡島とのセクハラな会話も、佐野の豪快さで救われている(?)。ただし原節にはセツハラ、もとい、セクハラはないような?
佐野もこの映画的には原節子の「兄たち」のひとりであるかのようだ。美人の秘書にちょっかいを出そうとせず、むしろ友人との話を進めたりする。まあ、振られたら振られたで、友人をからかう材料になるわけだろうし。のちの小津的親父たちの先駆けとも言えるし、戦前松竹映画のモダンさを残したともいえる、小津ならではの不思議な親父キャラだ。
かくて島津保次郎の傑作『兄とその妹』は、いささかのひねりを加えて、小津安二郎の傑作『麦秋』に再生するわけだろう。ここまで品よく繊細に援用すれば、島津も文句のつけようもないはずだ。お見事。
 ま、もっとも、文句をつけようにも、『麦秋』時点で島津はすでに亡くなってはいるのだが。死人に愚痴なし。大体、映画館で島津保次郎のクレジットを見た小津家の者たちは、小津安二郎のペンネームと勘違いしたというエピソードも残っているくらいだ。パクっても文句は言えまい、と小津が考えたのも無理はない。









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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:01 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

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