成瀬る8 『娘・妻・母』の非・松竹メロ性

 東宝オールスタアによるホームドラマ(1960・脚本・井手俊郎・松山善三)。まあ成瀬としては思い切り肩の力を抜いた企画品だが、オールスタアの出入りをさばく交通整理はさすがで、型どおりの話で見せきってしまう。凡庸な監督がオールスタア映画を手がけると、スタアの交通整理にていっぱいで、肝心の映画がなおざりになることが多いなか、さすがは交通整理の名人・成瀬だ。やはりこの映画を見るのは何度目かだが、それでも楽しめてしまう。もはや、名人の落語みたいなものですな。
 主役は原節子で、当時はそのキスシーンが売りといえば売りだったのだろう。伊豆への慰安旅行のバスが横転して、夫に死なれた原節子は(交通事故が多い成瀬でも、思い切り派手なのがおかしい)仲代達矢とのつかの間の逢瀬のあと、母・三益愛子も込みで引き受けてもらうという実利のため、上原謙のもとに再婚する。このメインの話が、ああ、つくづく成瀬は戦前松竹メロがいやなんだなあ、と苦笑させられる。というより、まるきり合わないのね夢物語は。
 戦前松竹メロドラマの基本は、「いろいろな男がヒロインを狙うけど、でも私(ヒロイン)は純情一筋よ」というもの。実利狙いで玉の輿に乗る原節はいかにも非・松竹メロドラマで。明確に自分の意志で仲代をあきらめ上原との再婚を決めるのは原節子自身である。
 戦前松竹メロドラマは、基本的に、さまざまな苦難を乗り越えてヒロインが純情を貫くというもので、それは松竹史上最大のシリーズ『男はつらいよ』にまで通底している。あのシリーズのマドンナたちは、<フラれる側の男>から見た松竹メロドラマの残滓で、男をヒロインが選ぶ基準が純愛であることは一貫していたのだ。
 成瀬ヒロインは苦難を乗り越えるのをさっぱりとあきらめる。女の側のほうがあきらめるのが、成瀬。あきらめるとはいえ、主体は女性の側にある。そうして、半ば実利で原節が嫁ぐ相手が、戦前松竹メロを代表する上原謙、ミスター・松竹メロその人というキャスティングが、いかにも皮肉で、成瀬らしい。成瀬も上原も大好きなぼくとしては、もうニヤニヤしてしまう。
 逆に、男に振られる形で、主体が女の側にない形で松竹メロを裏切るのが小津。『晩春』『秋刀魚の味』のヒロインは消極的な失恋をしたあと、お見合いで結婚する。『東京暮色』の有馬稲子は男に捨てられて、半ば自殺のような踏み切り事故で命を落とす。『風の中の牝鶏』の虐待される田中絹代。こういうことは成瀬では決して起こらないだろう。同様にリアリズムで松竹メロを拒否しても、男目線の小津、女目線の成瀬というくらいは、違うふたりだ。
 ところで、小津版『エデンの東』の『東京暮色』は『浮雲』の森雅之のパロディみたいな田浦正巳が笑わせ、『早春』は妻と愛人に挟まれた池部良という、まさしく成瀬そのものの設定だし、小津は何かと成瀬を意識している。
 では、かつて「小津はふたり要らない」といわれたという成瀬は小津を意識している映画があるのかというと、続『晩春』とも言うべき『山の音』とともに、まさに本作『娘・妻・母』がそれなのでは。冒頭クレジットのバックは例の荒い麻布?模様だし、『麦秋』の原節のように、同じく原節が買ってきて、夜遅く大人だけで食べる高価なイチゴのケーキとか(その高価なケーキも『麦秋』より安そうなのが成瀬らしい)、『生まれてはみたけれど』同様の8ミリ上映会がさざなみを起し、兄弟からたらいまわしにされかかる老母三益に一番親身になるのが実娘の原節というのは、あからさまに『東京物語』だし、『東京物語』で親を邪険にした杉村春子が今度は子供たちに邪険にされる側に回り、と小津意識大会であると邪推することも可能だ(笑)。ラストカットは、ほとんど唐突に笠智衆だし。そもそも、この映画のメインの話は、兄(一家の家長)森雅之と、その妻・高峰秀子も心配する、原節子の再婚先。原節の結婚話なのだ。小津と違って、みもふたもない成瀬は、ちゃんと原節を再婚させる。しかもいささか実利めいた落ち着き先として。さらに、その相手は、小津が苦手とする?上原謙だ。あからさまな小津への挑発ではないか(妄想モード)。
 ちなみに、今回見たDVDのおまけの予告編、原節、デコちゃんの予告編用のくさいナレーションに爆笑。成瀬の管轄を外れると、とたんにクサくなるのだ(普通、当時の日本映画で予告を作るのは助監督の仕事)。またこのDVDには通常のモノラル音声のほか、<パースペクタ・ステレオフォニック・サウンド>版も選択できるようになっている。これは東宝スコープ用の立体音響として採用された<3チャンネル擬似ステレオ方式>とのこと。どうりでこの映画には、成瀬らしからぬクサいBGMが全編をおおっていたのか、納得。そういうところはちゃんと期待にこたえる成瀬なのだ。
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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:21 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(2)

小津漬の味

小津安二郎映画には、数々の親父ギャグが隠されている?
                by おづおづと・・・・昔の映画 

1 淑女はナニを忘れても「二」は忘れない
   小津映画のヒロインたちと、その恋人たちの名前には、隠された共通点があった!

2 『東京物語』東山千栄子の死因は原節子だった?
   老母・東山千栄子は老人虐待のせいで、殺された?
   老父・笠智衆は、なぜあれほど嫌われているのか?

3 『秋日和』あるいは君の名は
   小津は、自分似の俳優と、原節子の結婚話をニヤニヤ物語る

4 『麦秋』問題、あるいは兄とその妹
   『晩春』の原節子も『麦秋』の原節子も、同じ役名「紀子」
   しかしこの二人、実はギャグともいえるほど正反対で

5 『早春』あるいは金魚の味
   最初から最後まで夏の盛りを描いた映画はなぜ『早春』と題されたか?

6 『秋刀魚の味』あるいは、それを言っちゃあお仕舞いよ
   秋刀魚も出てこないのに、なぜ秋刀魚の味か?
   小津安「二」郎映画の団地は、なぜ必ず「2」号棟であるか?

7 『彼岸花』あるいは紳士は何を忘れたか
   『戸田家の兄妹』の呪い だから、あなたは、とんがらかっちゃだめよ

8 『お早よう』あるいは小津は犬派か猫派か
   誤解される小津 ついに、とうとう、B級映画作家だった小津  

9 『東京暮色』あるいは成瀬は二人要らない 
   成瀬巳喜男とジェームス・ディーンが雑司が谷でめぐり合う

10  <小津家の兄妹> あるいはまとめに走らない、まとめ

11-1 <番外編>ミュリエル・バルベリ「優雅なハリネズミ」
   フランス版「本屋大賞」ベストセラー小説。小津映画ファンの住むパリの
   アパルトマンに、日本人紳士オヅさんがやってきた。

11-2 少女漫画としての『宗方姉妹』
   日本的な少女趣味のバルベリの視点から、『宗方姉妹』を再見すると・・・・

12-1 『青春の夢いまいづこ』
12-2 『母を恋わずや』
12-3 『和製喧嘩友達』


13-1 小津漬の味ディープ・笠智衆の巻
13-2 小津漬の味ディープ 小津の色紙の巻
13-3 小津漬の味ディープ 小津「東京物語」熱海の宿の不思議


◎記事の順番を最適にするため、各記事は、実際の掲載時間を、順次繰り下げてあります。

●近日公開予定●
黒い沢ほどよく明か黒沢明映画の正体
川島あり川島雄三映画の正体
おゲイさん乾杯木下恵介映画の正体
愛と清順の駄目出し鈴木清順映画の正体
彼と彼女と取りマキ~ノたちマキノ雅弘映画の正体
大魔剣三隅研次映画の正体
危険な英夫鈴木英夫映画の正体
ますますムラムラの悶獣増村保造映画の正体
妄想の器橋本忍映画の正体
Vシネの花道90年代最強伝説三池崇史映画の正体
しぃみず学園清水宏映画の正体
溝口賛歌(けんじぃ)溝口健二映画の正体

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:13 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味1 淑女はナニを忘れても「二」は忘れない

 小津安「二」郎映画を、親父ギャグ的視点から読み直すにあたって、まず考えたいのは、不在なる「二」と偏在する「二」の、ふたつの「二」であろう。
 不在なる「二」とはなにか。

e0178641_2240173.jpg その前にここでおもに言う小津安「二」郎映画とは、『淑女は何を忘れたか』から始まり『戸田家の兄妹』を経由し、戦後の『晩春』から遺作の『秋刀魚の味』にいたる小津式ホームドラマを指す。もっとも小津安「二」郎的な映画たちといえよう。
 さて不在なる「二」とは、物語の中心に位置しながら、不在となっている「二」男坊のことである。
 『戸田家の兄妹』の佐分利信演じる昌「二」郎は外地にいて母と妹の不遇を防げず、しかし帰還後彼女たちを救うヒーロー的存在。
 『麦秋』の昌「二」、『東京物語』の同じく昌「二」はともに戦死していて、しかしその不在ゆえに『麦秋』では同級生二本柳寛と妹原節を、『東京物語』では妻原節と老いた両親を、それぞれ結ぶ絆になった。いずれも名前に「二」を持つ「二」男坊である。

 では偏在する「二」とは何か。『淑女は何を忘れたか』から『秋刀魚の味』にいたる安「二」郎映画にあって、ヒロインと仲良くなったり、あるいは結婚してしまう「二」枚目の男たちのことである。具体的に彼らの俳優名を列記しよう。
 佐野周「二」、佐田啓「二」、鶴田浩「二」、「二」本柳寛。
佐野は『淑女は何を忘れたか』で、佐田は『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』で、鶴田は『お茶漬の味』で、「二」本柳は『麦秋』で、ヒロインと仲の良い「二」枚目を演じている。

e0178641_22544467.jpg しかしすべての安「二」郎映画の「二」枚目が芸名に「二」を持つわけではない。その場合はどうなるか。 『戸田家の兄妹』の佐分利信は役名・昌「二」郎、『早春』の池部良は役名・正「二」、『東京暮色』の田浦正巳(有馬稲子をコマす、れっきとした「二」枚目)は役名・憲「二」、すべて「二」なる「二」枚目たち。彼らは二枚目であるだけでなく、おそらく二男坊なのであろう。
 つまり、たいていの小津安「二」郎映画の「二」枚目は、芸名か役名に「二」を持っている。なんという、くだらない(笑)隠しギャグ。
 彼らが特に「二」枚目ではない役を演じるときは「二」は免除される。佐分利は『お茶漬の味』では役名・茂吉、『彼岸花』では役名・渉、『秋日和』では宗一、田浦は『早春』で役名・幸一。
小津と野田高梧は脚本を書くとき、具体的な俳優を決めてから、彼ら彼女らの個性に配慮したあて書きをしているという。完全に意図的ネーミングなのだ。もちろん彼らが、映画の中で必ずしも下の名前を呼ばれるわけではないが、配役表にはそう明記されている。
 さらに主役だけではなく、小津安「二」郎が愛した常連出演者には、めったやたらと、「二」がつく芸名の持ち主が多い。
 突貫小僧戦後青年版ともいうべき「二」枚目半ゆえに正確にはどの娘とも結びつかないが、愛すべき好青年高橋貞「二」、お茶らけた戯画としての北竜「二」(娘同然の後妻をもらったり、ただの候補に終わったにしろ仮にも、あの原節子の再婚相手に擬せられた小津的親父トリオ随一の"艶福家")、みんな「二」枚目は「二」の名前を持つ。
 後期作常連の須賀不「二」男。増田順「二」もいる。戦前でも小津安「二」郎映画に主演作「二」本の岡譲「二」。愛すべき大山健「二」というのも忘れちゃいけない。
 下手な本職俳優よりも愛された菅原通(つう=2)済を、加えて、これが偶然で通りますか、どうか。『早春』での彼の役名は「菅井のツーさん」であり、小津は確実に意識しているはずなのだ。
 特に「二」本柳寛なんて、アクロバティックな(?)裏技を使ってまで。でもその裏技のせいでぼくたちはたいへん魅力的な「二」本柳寛を『麦秋』で見ることができるわけなのですね。

 さらに言えば芸名に「二」を持つ「二」枚目は、役名に絶対「二」はつかない。全部はあげないが、幸一、正彦、平一郎、謙吉、宗太郎、周一、などだ。例外は戦前岡譲「二」の役名・襄「二」(『非常線の女』)、でもこれはこれで「二」の二「乗」てな駄洒落かと思われますな。また岡田時彦なども周「二」、謙「二」などの役名を演じており、実は安「二」郎、戦前からしばしばやっておるのです。
 ちなみに『晩春』役名・昌一の宇佐美淳、『宗方姉妹』役名・宏の上原謙、『秋刀魚の味』役名・豊の吉田輝雄らが、ヒロインと思い思われでありながら結局失恋し合うのは、役名にも芸名にも「二」がないせいなのだ!
こんなどうでもよい親父ギャグを人知れず行うのは世界広しと言えど小津安「二」郎くらいのものだろう。
 ただし、芸名に「二」がつくのは、松竹映画の俳優自体に多いことは確か。岡譲「二」あたりがルーツか。まさか快優・大山健「二」にちなんだわけではあるまい。佐野周「二」の居候だった佐田啓「二」が佐野の名前を引き継いだあたりがきっかけか。松竹的「二」枚目は「金も力もなかりけり」なやさ男が主流であり、それに「~二」という名前が似つかわしかったのか。モダンで、しかしマッチョではない好青年。長男に田舎で家を継いでもらって、余り者の二男は都会に出てくる。その都会の優男に「~二」という名前がピッタリだった、というのが松竹映画二枚目のコンセプトか(似たような名前で「~次」では、時代劇調になり、モダンさに欠けると判断されたのか。三井弘次を参照されたい)。
 しかし小津安「二」郎が、徹底して「二」枚目の芸名・役名で「二」に固執したのは事実である。
 他社出張作品『宗方姉妹』『浮草』『小早川家の秋』には、なぜか、「二」なる「二」枚目は出てこない。『宗方姉妹』は原作があったせいかとも思えるが、ついてもよさそうな『浮草』の川口浩、『小早川家』の宝田明の役名にも「二」はつかない。もっとも川口浩は一粒種という設定だから、「二」がつくわけはないか。他社では親父ギャグを遠慮したのか、調子を変えようとしたのか。いずれにしろこの隠しギャグは松竹映画の小津にのみ固有のようだ。
                
e0178641_2241377.jpg では、「娘たち」は、どうか。
 小津ヒロインたちの役名で、戦前戦後を通じて繰り返し登場し、印象的なのは「節子」「紀子」「時子」。
 「節子」が『淑女は何を忘れたか』以来五回、「紀子」が『晩春』以来三回、「時子」が『非常線の女』以来四回。
 別に小津映画を代表する女優というべき原「節子」は『晩春』以来六回の出演数を誇る。さらに『秋刀魚の味』には松竹の新人女優・牧「紀」子も出演している。
 多分にヒロインの年長の関係者として、「秋子」と言うのも多い。「秋子」は『風の中の牝鶏』以来五回。
 驚くべき?ことには、「節」「紀」「時」は、ほぼ同じ意味なのだ。時、もしくは時期時節を指す。「秋子」だって「春子」「夏子」「冬子」がないのになぜか多い。ここでさらに愕然となるのは「秋」は「とき」とも読むことだ。「秋」と書いて「とき」は「重要な時期」という意味。
 つまり、ほとんどの小津ヒロインは「同じ名前」なのだった。なんと。
 小津安「二」郎的「二」枚目の名前が「二」ばかり、「二」男坊ばかりというのは単に内輪ギャグとしても、このヒロイン名への固執は何だろう。女は移ろう季節、時節の象徴ということなのか。 
 小津映画の父親のおはこの科白「もう、そろそろ、もうそろそろ、嫁(い)かないと」とセットになった名前ということなのか。

 広辞苑をひも解いてみると、「紀」の説明に「中国では一回り12年」とあり、「節」の説明に「節季、すなわち一年を12ヶ月に分けた各月の前半の称」とあり、「時」の説明に「一昼夜の区分。現在では午前と午後をおのおの12等分。昔は十二辰刻が広く行われ、午前午後をそれぞれ6等分」とある。中国、その影響下の日本において「時」は12という数字と密接なつながりを持つ。
 小津のヒロインたちがしばしば二十四歳であるのは、当時の結婚適齢期「上限」であるという「ドラマ性」ばかりでなく、それが12の倍数だからかもしれない。「節」季は、二十四「節」季あり、一日は二十四「時」間。時節が一回りし、次のステージに進まなければならない、その区切りがたまたま、当時の結婚適齢期に一致したことが、小津映画が結婚問題に「こだわる」理由のひとつと、推測される。あるいは、いわゆる結婚適齢期そのものが、こうした時間の制度に呪縛された結果の産物なのかもしれない。その呪縛は、勿論現在では効力を失っているが。
 これも但し書きがつくが、上記の女性名は小津以外の松竹映画(および他社映画)でもたびたび耳にした記憶があり、これまた松竹映画のブランド?的な役名、あるいは戦前日本の流行りの名前のようにも思える。この「松竹的好み」(男優芸名の「二」にしても、女優役名の偏向にしても)を先導したのは、城戸四郎なのか、脚本部長だった野田高梧なのか、小津安「二」郎の「陰謀」なのか、それとも松竹における集団的無意識?なのか、興味深いといえば興味深い。
 ただ、小津がより強くこだわっているのは確実だろう。

 小津が60回め還暦の誕生日、しかも12月12日のその日になくなるという、不謹慎を承知の上で言うと、最大の小津ギャグもここに、兆候があったのか。
 その日が近づくと、小津の頭の中では次のようなせりふがリフレインしていたのだろう。
「もう、そろそろ、もうそろそろ、逝かないと」
 不謹慎ついでに、だから、死亡時刻60回目還暦12121240分、というのは、「ちょいと」長生きし過ぎたのではないだろうか。

What Did the Lady Forget? / 淑女は何を忘れたか (1937)

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:11 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味2 『東京物語』東山千栄子の死因は原節子だった?

 まさに「意外な犯人」というべきではないか。原節によるセツハラ。節子の嫌がらせ。
 ここで時系列にそって、検証してみよう。

一日目    笠智衆・東山の老夫婦、熱海の旅館へ
その夜    旅館の混雑、若者たちの宵っ張りの遊びの雑音で、眠り浅し
二日目朝   前夜あまり寝られず、東山、海岸の桟橋でめまい
その午後   旅館に辟易して、長女・杉村春子の美容院に戻るが、夜七時から講習会番で「とうとう、宿無し」になる
その夕方   おじいさんは、旧友・十朱久雄を訪ね、おばあさんは、原節のアパートへ
深夜12時頃 桜むつ子の居酒屋で、笠・十朱・東野、邪険にされる。「もう12時よ、帰ってよ」と桜むつ子
深夜12時  原節のアパート。時計が12時を告げるとき、原節は東山を肩叩き。会話を交わして、やっと寝る
その深夜   笠・東野、杉村宅に帰宅。ののしられる
三日目朝   原節の出勤に合わせて、東山、アパートを出る   
その夜21時 尾道行き夜行列車に乗る
四日目    東山、列車内で体調悪化、三男の大坂志郎を頼って大阪下車

◎追記◎以下の「裁判」コントは、被告はもちろん原節子検事は丹波哲郎の声音を脳内に思い浮かべて、読んでいただくと、いっそう楽しめるかと(笑)。

「つまり、被告は、前夜寝不足で、ふらふらの68歳の老婦人を、真夜中まで寝かせなかったのですね。老人虐待じゃないですか」
「いーえ。おかあさまは大変お元気で、あたくしが何度かもう、寝ましょうといっても、ちっとも眠いといった風には。前の晩睡眠不足だったなんて、あたくし、一向に」
「夜更かしのあなたに遠慮して、眠いと言い出せなかったんじゃないですか」
「いーえ。おかあさま大変お元気で。あたくし、寝不足になんてちっとも見えませんでしたわ」
「それは脚本や演出がでたらめということですか」
「いーえ。脚本などというものは、あたくし、一向に」
「会話に『夕べは音がうるそうて、ちっとも眠れんかったんよ』という話がなかったですか」
「いーえ。存じません」
「仮に前夜寝不足でないにしても、いいですか、当時の田舎の老婦人は普段、今よりももっと早く、そう遅くとも9・10時頃には床についていたのではありませんか。その上でさらに前夜は」
「異議あり。当時の田舎の老婦人の就寝時間など、何の根拠もなく、また当該老女の普段の睡眠習慣も不明で、全くの当て推量に過ぎません」
「異議を認めます」
「では、夜の夜中に、寝かせずに肩叩きをするのは、かえって老体への負担になるのではありませんか」
「異議あり。夜中に爪を切ると親の死に目に会えない、という俗諺はありますが、夜中の肩叩きは人生の肩叩き、という俗諺などありません。第一科学的根拠がありません」
「異議を認めます」
旅館での寝不足、次の夜の夜更かし、さらに三日目の夜行列車の旅、という老人にとって、体のバランスを崩すだろう強行日程が、老婦人の死期を早めたのではないですか」
「さあ、あたくし」
「異議あり。熱海行きと、尾道帰郷の計画、実行には被告は全く関与していません」
「異議を認めます」
「では。あなたの義父は、あなたのアパートには、ひとりしか泊まれない、だからお前だけ泊まれ、と義母に言いましたね。おかしいと思いませんか」
「ええ、それは、あたくしも後で聞いておかしいと思いました」
「なぜですか」
「その前にいらしたときに、あたくしの亡夫・昌二が、電車が無くなったからと、お酔いになったお友達を、この部屋に連れてきたことがあった、とおとうさまたちに言ったことがあるからです」
「つまり、ご主人のお友達が何名なのかあなたは言わなかったけれども、最小一名にしても、あなたの部屋には、あなた、ご主人、そのお友達と、最低三人は泊まれたはずだ、と。当然ご両親は知っていたはずなのに、なぜ義父は、一人しか、泊まれないから、などと」
「おかあさま、大変豊かであられて、ま、冗談ですけど(笑)」
「冗談に紛らせているけれど、あなた、その理由を知っているんじゃないですか」
「いーえ。あたくしが。どんな理由ですかしら」
「つまり義父はお酒を飲みたかったのではないですか。あなたのところに泊まってはせいぜいお銚子で一本二本。女二人は飲まない。景気が悪いことおびただしい。十朱久雄ら友人と痛飲したい。そこで、義母をあなたに押し付けた」
「はあ。ですが、それはおとうさまのお考えだったかもしれないことであって、あたくしは、一向に」
「いや、何をいいたいかというとですね、あなたと義父の間になんらかの共犯関係」
「異議あり」
「つまり、あなたの名前は紀子です。芸名は節子。本名は昌江。おお、だんなさんの名前は昌二でしたね。いや、それはともかく、『紀』『節』は『時』を意味します。そして、義父は老婦人の形見としてあなたに彼女の懐中時計を渡します。これはどういうことでしょう」
「さあ。おっしゃる意味がわかりかねます」
「普通女性から女性への形見分けに懐中時計はないんじゃないですか。欲しがるのは、あなたの義姉・杉村春子のように着物とか。貰って嬉しいですか時代遅れの懐中時計」
「ですけれど、その選択はおとうさまのもので、あたくしの希望というものでは」
「そこです。あなたと義父の間には『時』をめぐる共犯関係があるのです。なぜ、あなたが10時でなく11時でもなく、12時まで睡眠不足の義母を寝かせなかったのか」
「・・・・存じません」
「いえ、もう、あなたにも、わかっているはずです。紀子さん。なぜ『12時』なのかが」
「あ、お・・・・小や津ギャグ?」
◎追記◎もちろん、夜の12時は同時に24時であって、12も24も、小津安「二」郎にとっては、次のステージに進むべき数字、「」の倍数という、小津にとって、特別な数字なのだろうか。
(この辺の事情については、くわしくは★小津漬の味1淑女はナニを忘れても「二」は忘れない★を参照あれ)。


e0178641_1472868.jpg 説明なく平気で何日もジャンプし、あるショットの次のショットが、必ずしも次の瞬間、あるいは翌日を意味しない小津映画にあって、東京滞在中はわりと時間的に連続しているのが『東京物語』だと思う。しかしそうであっても、前夜寝不足でふらふらの東山千栄子が夜の12時まで元気に起きていたり、同じく笠智衆が12時まで痛飲していたり、まあ、それはそれで大変元気なのはいいわけですが、「通俗」リアリズムとしては、それまでの笠・東山描写に比べれば、「ちょいと」無理やりでしょう。
 しかし小津映画が、そういったある種の「通俗」リアリズムをあからさまに無視した上で、なおかつ、こういっていいのか、より高いリアルを実現してしまった、と。現実とは一味違った、謎めいた映像とたたずまいの中に、誰もが感じる平凡な日常の機微を封じ込めてしまった。奇跡としかいいようがないハイブリットな映画として。 杉村春子の店で講習会を行う、というのは老父母を「放置」するための作為である。何のための作為かというのは明らかである。
 笠智衆は男の旧友たちと痛飲し、男たちの本音を語らせるため。東山千栄子は原節と女同士の親密な会話で、姑と嫁との理想的関係を描くため。しかし、明らかに講習会は夜の数時間で終わっていて、笠が帰ってくる深夜には杉村は熟睡している。「宿無し」というのは笠の過剰な被害妄想である。
 それこそ金車亭あたりで浪曲を楽しみ、外食すれば済む話である。あるいは、強引に「宿無し」にしたのは、笠の深謀遠慮である。老妻を原節に押し付け、好きな酒を楽しむための。そして、出来れば十朱あたりの家に泊まりたいがゆえの。しかしその作戦は無様に失敗し、結局は娘の家に戻らざるをえない失態を招く。ああ無常。
 一方の老妻は、この映画にあってはある種の理想性をともに担う嫁のアパートに一夜の宿をゲット。しかし、その描写が八時九時であれば、状況的に「おかあさま、もうおねえさまのほうへお戻りになられては」的な会話が必要になってくる。それではこの二人の理想性というか、様式的な仲のよさが崩れてしまう。帰還不能点である十二時はそうして選ばれた必然であった。二人だけで仲むつまじく一夜を共にすることで、理想性は担保され、老婦人にとってこの東京旅行は、ハッピーエンドになった。たとえそれが老婦人の死期を早めてしまおうとも。
 ま、それはそれとして、『東京物語』の「彼ら」はなぜ異様なまでに「嫌われている」のか。
 桜むつ子の居酒屋での常連・東野英治郎の嫌われよう。笠など初めて連れて来た客の前で、ああののしられるのは、相当嫌われてなければ出来ないのではないか。嫌われているのに「邪険なところも女房によう似とる」と、逆にやに下がるのだから、全く、わかっていない。
 笠智衆も、酔っ払って深夜のご帰還、たった「それだけ」のことで、長女・杉村春子にひどい言われよう(まあ東野というオマケを連れて来たこともあるが)。彼女は、若い頃の父は相当酒癖が悪く「お母さんを泣かせた」という。「あたしたち、嫌でねえ」。
 東山千栄子も原節に「あんたも(夫の酒癖で)苦労した組か」と同情していた。
 その結果長男の家でも酒は振舞われた様子はないし、長女は自分の夫に、たぶん甘党で父とは違う優しい男(中村伸郎)を選んだ。杉村の笠への怒りようを見れば、彼女の家庭では、おそらく午前様など許されないのではないか。自分の言うことを聞く髪結いの亭主を夫にすべく、杉村は職業を逆算して、美容師になったのだ。もちろん逆算したのは小津と野田高梧である。
 かつての酒癖を知らない原節のみが酒を供する。
 映画の現在では仏様のような笠智衆も、若い頃は、子供たちのトラウマになるくらい、ひどい夫、父親だったのだろうか。
 そして、長男(山村總)・長女(杉村春子)・二男(なくなった昌「二」)・三男(大坂志郎)がすべて親元を離れ、当時としては尾道からかなり遠いはずの東京・横浜・大阪に散っている。次男は亡くなっているので不明だが、残りの三人は東京弁、大阪弁をマスターし、完全に尾道弁を捨てている(親に対してさえ)。まるで故郷や親を忘れたいと言うかのように。
 最後、東山が死の床についた時に一家が集まって、尾道弁、東京弁、大阪弁を、けっして混じり合わせようとしないのは、考えてみると異様である。マイルドな、流れるような脚本と、演出にだまされてしまうけれども。これは父・中村雁治郎の急を聞いて駆けつけた小早川家の面々も同様で、大阪弁・名古屋弁・東京弁が一家を飛び交う。故郷に帰っても、もはや言葉すら違う家族たちの、(少なくとも)言葉上の極端な差異。
 末っ子・香川京子(彼女が生まれた頃から、父は人が変わったようにいい人になった、と長女は証言)のみが、父にいいイメージを持っているようだ。彼女だけ地元に残り、教育長だった役人の父を受けて、小学校教師になっている。家庭内での言葉はもちろん尾道弁。
 ちなみに二十代前半と思われる(少なくとも小津ドラマのセオリーからすれば、二十四歳未満と推測される)香川京子を現在六十八歳の東山が産んだとすると、当時としては相当の高齢出産だろう。
それだけ若いころの東山がタフだったのかも知れず、だからその老後は思いのほかあっけなかったとも取れるが、意外や意外(ここから妄想モード)、東山は香川を「産んで」はいないという、隠し設定があるのかもしれない。
当時立派に物心がついていた兄・姉たちは、その父を嫌って、尾道から遠く離れたのだ! 老父母にもっとも親身であったのが、二男の嫁・原節(という非血縁者)であるなら、実子の中で最も老父母に尽くす末っ子が、実は異母兄妹であるというのも、平仄が合っているのではないか?? しかし、家族たちの間では、心優しい香川に配慮して、あるいは教育長であった父の世間体に配慮して、だんまりを決め込んでいるのだ。そういう妄想モードでこの映画を見直してみると、ラスト、非血縁者の原節と香川京子が仲良く手を取り合い、東京に遊びに来てね、行くわ、という会話が、別の意味合いを帯びてくる。
汽車で尾道をあとにする原節、それを見送りたいけれど教室で子供たちを教えざるを得ない香川のカットバック、別の哀切が見えてはこないか(見えるのは、私だけか)。
 あるいはより現実的に考えると、東山に高齢出産をさせた父に、それなりに大きくなった兄・姉たちが嫌悪を感じて故郷や親を離れていったのだろうか。なんせ、昔は年をとってから出来た子供を「恥かきっ子」と称していたくらいだし。 
 親を邪険にする子供たちに世の無常を見る、というのが『東京物語』に関する一般評だけれど、邪険にされるにはされるだけの理由が父にある。かつての「悪行」を体験していない末娘と嫁だけが、父に優しい。
 笠・東野は嫌われ者として昔からの類・友なのだろうか。ぼくの狭い見聞からしても、嫌われ者同士は、結構仲がいいのだ。
 少なくとも馴染みの居酒屋の女将に邪険にされることは、世の無常、親子の断絶とは全く関係ないことのはずであるのだから。桜むつ子は、しゃれや冗談ではなく、あからさまに東野を嫌っていたように見える。

Cuentos de Tokio - Tokyo monogatari - Voyage a Tokyo - Tokyo Story - Yasujiro Ozu - 1953



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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:08 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)

小津漬の味3 『秋日和』あるいは君の名は

原節子・司葉子の母娘二人がとんかつ屋「若松」で食事をする。
 母「ああ、お腹いっぱい」
 娘「ビール残ってるじゃない」
 母「勿体ない、飲んじゃおか」
というシーンがある。瓶から残りをコップに注ぐと、実はほとんどなかったという落ちがつくのだが、ここで注目すべきは、この二人はそろって、なんと、大量のサラダを残したままなのだ。ビールを残すことは勿体なくて、サラダを残すのは勿体なくないのか、この母娘は!
 しかもこのサラダ、二人の分ともに、食べ散らかした後というより、きれいに盛り付けたままの感じで、赤いトマト片、緑のもの(ブロッコリか、パセリか)、白いポテトサラダ?(あるいは白っぽい緑という感じなので、千切りキャベツか)、と色もきちんと計算されたように置かれている。小津ギャグ世界においては、女もとんかつとビールをしっかりお腹に収めて、サラダには手をつけない。
 小津的にはサラダの色とりどりのヴィジュアルが欲しかったのだろう。特に赤いトマト片が目立ち、まるで吉田輝雄と佐田啓二のとんかつ屋場面(『秋刀魚の味』)のビール瓶のごとく、赤いトマトがショットごとに移動するのだ(女優の顔を交互に写すと各自それぞれのサラダも写るので、画面上ではあたかもサラダの彩りが動いているような効果を見せる)。サラダは食わないが、人を食うのが小津式か。
 ただしこのサラダは常に画面の底辺に位置し、当然ピントは女優の顔に合わせているのでサラダへのピントぼけており、なおかつ非常に地味であるので、映画館で何回か見たときは全く気づかず、最近DVDで見たときに始めて目に留まったもの。映画館では当然二人の女優の顔を中心に見ているので、気づくわけがない。小津がどういうつもりでやっているのか。意味がないものだと思う。DVDの小さな、フラットな画面を見ていてこそ、気がついた(のち、新文芸坐での小津特集の際、大画面で確認した)。
◎追記◎次の予告編クリップの1分09秒あたりの司葉子のテーブルに、証拠のサラダが鮮明に写っている。このブログのまま、見るとたぶん、見づらいが、ユーチューブに飛んで、静止画像にすると、とんかつは食べて空になっているのに、サラダのみ残っているのが、わかる(笑)。
ただし、この予告編に使われたショットは、おそらくNGショットの流用であり、実際に本編に使われたショットとは、まるで違う。本編では、もっと地味。当時の日本映画の予告編は、OKショットではなく、NGショットの流用が多かった。経済的節約か、あるいはもったいない精神か。

推測するに、たぶん食後を表すのに、皿が完全に空であるより、肝心のとんかつのみが消えていたほうが、より「から」「食事の後」感が出るだろうということか。「完全な無」では、むしろ「無」感が、出ないという?
 しかし、繰り返すが、観客は主に原節子や司葉子を見ているので、皿を見るものはいないと思うが(笑)。

この母娘の名前は、原節が「秋子」、司が「アヤ子」。あやや。
 「アヤ」というのは小津世界においては伝統的に?「ヒロイン原節子の仲のいい親友」の名前ではなかったか。ヒロイン原節の結婚についてアドヴィスする役目(『晩春』『麦秋』)。
 タイトルが「秋日和」、原節が「秋子」。ここからは、根拠なしの推測になるが(いつも、そうか?)、小津的初期設定では秋子がメインのヒロインだったのではないか。
 秋子を再婚させる話。そうなれば『晩春』『麦秋』と原節嫁入り三部作となる。その挫折した痕跡が司の役名に残った、と見るべきだろう。
 なぜ挫折したのか(断言)。
 仮説1。司の相手が佐田啓「二」。原節の(とりあえずの)相手が北竜「二」。一本の映画に、「二」枚目の「二」は「二」人は要らない、ということなのか。われわれはこれを専門用語で、後期小津の常連俳優の名を取って、須賀不「二」男の法則という。
 仮説2。北竜「二」は、おちょくったほうが面白いいじり易いキャラだから、原節と結ばれては面白くない。で、はい失格。そのときの小津の「こいつはいつもの奥の手で」は、真の結婚相手を一瞬たりとも写さないことだ。しかし司の相手の佐田をバリバリ写して、原節の相手を一切写さないというのも釣り合いが取れない。
 仮説3。北竜「二」の顔は口髭もあって「ちょいと」安「二」郎に似ている。杉村春子(『晩春』)なら絶対「ちょいと似てる」というくらい似てる(「こっから上は違うけど」)。なんせ、『秋刀魚の味』では、笠智衆が岸田今日子を亡妻に似ていると言うそばから、「そりゃあ、よく見れば全然似てないがにぃ」。全然似てないのを似ていると言うのが小津映画の、似ていると言うレヴェルだから、北竜「二」は、なんとしたって小津安「二」郎に「ちょいと」似ている。当ブログは極端な面倒くさがりだから、北竜「二」と小津安「二」郎の顔写真をならべるようなことはしないが、ぜひ見比べていただきたい。くりそつである。
 安「二」郎似の俳優と原節を結婚させるというのは、いくら小津でも面映い。面映いけど面白い。で、当時小津と原節子が噂になっているよ、という自虐ギャグで北竜「二」を登用。お約束で振られてみましたの図。
 仮説4。ひとり娘のあるやもめの再婚は小津的に、やっぱり「不潔」だから。
 かくて「アヤ子」の「アヤ」役・岡田茉莉子が、原因か結果は知らず、強調されることになるのだ。「アヤ子」が「アヤ」の役を果たせないのだから。果たせないどころか、原節の結婚話に感情的に反発して、アトヴァイス役ですらなくなるのだから。
 いやいや、冗談じゃなしに、仮説3の、振られてみましたギャグをやりたいための小津的冗談が『秋日和』だったのかも。
 一般には笠智衆が小津安二郎の分身的存在だとする説も根強いが、ヴィジュアル的には北竜「二」こそ「ちょいと」ふさわしいと思う。しかも『秋日和』『秋刀魚の味』の道化めいた役回りは、「ちょいと」似ているだけに、明らかに自虐ギャグの様相を呈しているわけだろう。 

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# by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:03 | 小津安二郎映画の正体小津漬の味 | Trackback | Comments(0)