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木村威夫VS鈴木清順 ~桜のなぞ~

 ある時期から、清順映画には桜が付き物になっている。映画の桜といえば、清順。清順映画といえば、桜。
 そもそもの始まりは「けんかえれじい」のイースター祭の夜の教会からの帰り道、高橋英樹と浅野順子がお手手をつないで桜並木の下を歩くシーンが、あまりに素晴らしかったからだ。
 ここで木村威夫の作った美術セットは、簡素なもので、まるで演劇の舞台セットのような土手の道。後方に素朴な教会が建っており、それはおそらく遠近法を利用した、何分の一かのサイズのミニチュアのはずだ。
 作り物の、ほどよろしき太さの幹に、紙の造花を数え切れないほどつけたものを、何本か。これでは、とても並木とはいえないが、人物がシネスコ画面の左から右へ歩いて、また次のショットでも左から右へ、このショットをつなぎ合わせれば、延々と桜並木を歩いているように見える寸法。それゆえ、か知らず、背景は漆黒の闇。英樹が、この闇に乗じて、女学生道子さんの手を握っても、「キロクちゃん、案外臆病なのねえ」と純真な道子さんは、笑う、そのための闇であるし、繰り返し繰り返し同じ舞台セットを使いまわしても、ばれないための闇でもある。
 清順映画にしては異色の情緒てんめんたる音楽に乗せて、紙の花びらが桜吹雪として、闇に散る。
 偶然出会った不良硬派の先輩が、持っていた棒切れで、桜の枝を打つ。
 ほどよろしきタイミングで、ほどよろしく紙の花びらが散っていく。その、絵のような美しさ。
 清順の惚れ惚れとする<絵になるショット>は、数多いが、その中でも一二を争う名場面。キムタケ美術を生かしきった、ため息の出る名場面なのだ。
 この、映画ファンの伝説となった名ショット(それは清順にあっては、本当に多いのだが)以降、ほかの事はあんまり繰り返さない清順が、なぜか桜ショットだけは、どの映画でも撮るようになる。
 なるのだが。しかし、もちろんそれらは「けんかえれじい」ほどは、キマらない。
 理由ははっきりしている。みんな、実際に咲いている、本物の桜を実景撮影しているからだ。それらは、おそらく名木として名高い各地のエリート桜なのだろうが、いかんせん、桜というのは、特に動画映像として撮影されたものは、本物の美に、はるかに及ばないのだ。誰が撮っても、清順が撮っても、きれいには見えない。
 数少ない成功例は、「ツィゴイネルワイゼン」の、微妙に色味をずらしたショットくらいか。それでも、肉眼で見る本物の圧倒的美には、近づけない。おそらくだが、桜花の魅力は、この花びら一枚一枚の微細な美と、数本、数十本、時には数百本単位の圧倒的な量の固まりの美と、同時にあるので、人間の肉眼なら、瞬時瞬時で<望遠>と<超接写>を繰り返せるし、おそらく<同時に望遠と接写>も可能だろう(あくまで心理的にだが)。しかし、映像は、人間の肉眼ほど器用ではない。

 清順も(あるいはキムタケも)清順ファンも、おそらく誤解している。「けんかえれじい」の夜桜並木のシーンが素晴らしいのは、桜ではなかったのだ。
 もともとは舞台美術出身のキムタケが、その舞台的効果を映画美術に注入した。映画的リアリズムとかけ離れた、シンプルな舞台的セット。しかし、それは短いため、ショットに次ぐショットを積み重ねて、桜並木を完成させる映画的テクニックをも駆使している。舞台的効果と映画テクニックのハイブリッドわざ。単なる紙吹雪が、白黒シネマスコープ・サイズの絶妙ショットの連なりの中で、桜吹雪と化す。舞台と映画の、木村威夫と鈴木清順の、奇跡的な結合。その美しさ。
 このセットを、ただの、凡庸な監督に与えても、ただの、閉まらない、安っぽいものにしかならないだろう。まさに、木村威夫VS鈴木清順そのものだ。
 それなのに、以後連発される、あまり効果のない桜実写。う~ん。
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by mukashinoeiga | 2010-03-28 22:49 | 清順の光と影すべって狂ってる | Trackback | Comments(0)

木村威夫VS鈴木清順

 木村威夫の発言で印象に残っているは、次のくだり(もちろんぼくのきわめてアバウトな記憶に残っているものゆえ、あまり正確ではないかもしれない)。
 たとえば、俳優がベッドから起きて、独り言を言いながら、ドアにたどり着く。そういうシーンを想定した場合、そのせりふに費やされる何十秒かこそが、ベッドとドアの距離を決定する、と。俳優が50秒しゃべるとするならば、ベッド・ドア間は、その俳優が50秒で歩く距離と、イコールであると。そこから逆算して、その役者の演じる人物の寝室の、セットが決定される、と。実際の建築と、映画のセット建築には、そういう違いがあるのだと。
 鈴木清順「東京流れ者」で、渡哲也が敵の巣窟を襲うとき、不死鳥の哲こと、渡哲也は、こううそぶく。
「オレのハジキの射程距離は10メートルだ」
 したがって、その敵のアジトは、絶対に十メートル以上の、細長い空間が、なければならない。かくして、そこには、リアリズムを無視した、細長い空間のセットが用意されることになる。
 監督が誰だったか忘れてしまったが、ある凡庸な監督の日活映画で、もちろん美術はキムタケ、ある家庭の固定電話(当時はもちろんみんな固定でした)の場所が奇妙な位置にあるのを見て、ひとり爆笑しました。もちろん、ドラマの設定上、その奇妙な位置にあることが、映画の滑らかな進行を生むことによるのですが、しかしその位置は現実の建築では、実に奇妙な位置になってしまうのですね。その監督は清順ではないので、奇妙な位置の電話は、ただ単にヘンな位置にある電話としてやり過ごされるわけで。清順であるならば、その奇怪な位置にある電話から、怪談めいた香気(妖気?)を漂わせる怪シーンになるのでしょうが。
 もちろん清順映画のキムタケ・セットは、このふたりが阿吽の呼吸で打ち合わせした結果、生まれたのでしょうが。たしょう(いや、かなり)ベクトルが違いつつ、ありきたりじゃ面白くないという信念だけは一致する変人同士、ツーとくればカーと答えるベスト・コンビゆえの、コラボ。とは言いつつ、ぼくがひそかにかくあるべし、と思っているのは、まあ大体の方向性は話しつつ、まずキムタケが異様なセットを勝手に作り上げちまう。助監督が見てきて、清順に伝える。「木村さん、またへんてこりんなセットを作ってますよ」
 ニヤニヤしながら清順、「まあ、出来上がったら、お手並み拝見と参りましょう」
で、出来ました、と美術助手から連絡が入り、おもむろに清順、セット見学。
 助監督連からは、「なんでぇこのちんけなセットは!? 段取り組めねぇじゃないか」
 撮影部の助手たちは、「キャメラどこに置かせる気だっ」
 照明助手たちは「親分、こりゃあどこにライトおくんで?」
 プロデューサーは、「また木村の野郎、無駄金使いやがって! 清太郎の添え物映画なんだから、有り物使いまわしてりゃいーのによお」
 それらの有象無象を見つつ、ひとり、キムタケはふんぞり返って、ニヤニヤ。
 清順はといえば、「まあ、こんなもんですかな」といいつつ、実は一睡もせずにぶつぶつ考え込んで。翌日、脚本の直しが配られて。俳優たち、「やってらんねーよ。これじゃ、昨日覚えたせりふ、無駄じゃん」
 具体的にどうせりふの直しが入るのか、検証もしないまま言うのだが、元のせりふにかかる秒数では、セットに合わない、から、とりあえず、合うような適当なせりふに変えちまおう、という結果ではないのかと。せりふの内容では、ないのだ。

なお、「ツィゴイネルワイゼン」で、鎌倉?の駅のシーン。駅表示板がきれいなプラスティックなのに、ずっこけた。戦前の話なのに。異化効果か、タコ効果か。
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by mukashinoeiga | 2010-03-27 22:32 | 清順の光と影すべって狂ってる | Trackback | Comments(0)

世界映画美術の極北・木村威夫

 大映/日活/独立系と、日本映画の歴史を渡り歩いた、日本映画美術監督唯一無二の人、ということは世界映画史上でもきわめてユニークな美術監督、キムタケこと木村威夫氏が死去した。91歳とのこと。
 映画の美術監督というのは、基本的に、この世界の、ありとあらゆるリアルな空間的再現を目指すのが、ごくふつうのことであり、その映像的ショットの連なりの中で、いかに現実(あるいは非現実)世界を再現するか、リクリエィティブするかが、その職種の本分ではあるのだが、ひとりキムタケだけは、人工的な、あやかしの世界を<再現>する美術監督だったと思う。
 もちろん、熊井啓の諸作を代表とするリアリズム美術をも作り出す一面も、それなりに充実しているのだが。しかし、はっきり言おう。熊井啓は、キムタケ・リアリズム美術を十全には、極めつくせなかったと思う。宝の持ち腐れで、あったと思う。凡庸な熊井啓の<映画力>では、所詮それはかなわぬことだった。
 キムタケ美術がその真価を発揮したのは、誰もが知るとおり、天下のへそ曲がりである鈴木清順監督の60年代の、諸傑作に止めをさす。ここでは具体的にタイトルは記さないが(それは、いずれ、かなり、近い未来に、必ず、出す)、その<主張する美術>を、鈴木清順が加工し、あるいは骨までしゃぶりつくすようにキムタケ美術をしゃぶりつくし、いかに優れた映画空間を生み出していったことか。
 そのセット自体で、人を映画的に興奮させるセットを作る美術監督がいったいどれだけいるのか。そして、キムタケの意図をきちんと理解し、あるいはキムタケの意図以上にそのセットを、きちんとしゃぶりつくした映画作家が、清順一人だった不幸。いや、一人でもいたことを、不幸というべきではないのかもしれない。
 ぼくたち映画ファンは、その、ありうべからざる、奇跡のコラボを、体感的に楽しめばいいだけなのだ。
 キムタケについては、続く。
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by mukashinoeiga | 2010-03-26 23:35 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

森谷司郎「放課後」

 神保町にて。「春よ!乙女よ!映画よ!」特集。73年・東宝。
 先の大島特集で見た「夏の妹」翌年の、栗田ひろみ主演作。彼女のテニス姿の笑顔、笑顔のクローズアップの連続で閉める、正統派アイドル映画。なのだけれど。
 これは、今のレヴェルから見ると、かなりヤバいでしょう。「夏の妹」に比べても、激ぶとり。まあ、思春期肥満なんだろうけど、アイドル女優としては、どうなのって言うくらい、はっきりいってデブ(笑)。しかも、それに伴って、かなり不細工入ってる。
 今の、管理化された芸能プロでは許されないレヴェルに達している(笑)。
 成分無調整アイドル。
 抜群にキュートな笑顔と目力は健在。でも、デブ、ブス(笑)。
 日本アイドル女優史上、唯一無二の野放しアイドルか。
 というのも、この種のアイドル映画にもかかわらず、さすが70年代の映画で、大人の地井武男とスナック・ママ宇都宮雅代のベッド・シーンも挿入されるし、同級生の男の子のオナニー・シーンも挿入される。そして、栗田ひろみ本人は脱がなくても、クラスメート役の女の子(多分実際は二十代の女優)は、きっちり脱いで見せる。そう、「夏の妹」で、栗田の代わりにりりィが脱いだように。
 つまり、たとえば「おっぱいバレー」という、たいへん生ぬるい映画が、仮に70年代に作られていたら、多分、綾瀬はるかのおっぱいを想像した中学生の男の子のオナニー・シーンは必ずあるだろうし、綾瀬はるかは脱がないにしても、その周りの女教師か、誰かは、綾瀬の代わりに必ず脱ぐはずなのだ。いい悪いは別にして、21世紀の現在は<表現の自由>は確実に後退している。その<後退>を、<洗練>といっていいのか、草食化といっていいのかは、知らないが。
 あるいは。現代では、<脱ぐ女優>は、みんな<AV女優>になってしまい、<脱がない女優>はそう言っていいのか、<一般女優>として、区別化分業化している、と。しかし、それは、世界の映画の基準では、ない。日本以外では、<必然性>があれば女優は<脱ぐ>のだ。
 栗田ひろみは、学校から帰宅後、隣の家に入りびたり。隣家には同級の男子が住んでいるのだが、両親は北海道へ転勤、残された高校生の息子のために、父親の会社の後輩・地井武男とその妻・宮本信子を住まわせて、家と息子を監督している。栗田は大人の男・地井武男になんとなく恋している。同級生男子は、宮本信子にあこがれている。この隣同士の家の交流は、「隣の八重ちゃん」などの戦前松竹ホームドラマを想起させ、なんとなく好ましい(本作脚本はヴェテラン井手俊郎だ)。しかし、70年代の<気分>としては、こういうホームドラマよりも、喫茶店スナックのママ・宇都宮雅代(その名の通りみやびやか美女)と、チーママ(といっても二人だけの店なんだけど)篠ヒロコ、このふたりの関係性こそ、むしろ語りたかったような。乳臭い栗田は、多分そんなに関心ないだろ。しかし、この二人の美女の店なら、入り浸り常連続出はずなのに、いつもがらがらなのは、お約束ですな。
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by mukashinoeiga | 2010-03-25 22:13 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

篠田正浩「美しさと哀しみと」

 京橋にて。「映画監督 篠田正浩」特集。65年、松竹大船。
 「涙を、獅子のたて髪に」の、次の上映だったので、ついで見。というのも、過去に見ているのだが、そのときも、なんだかぼんやりした映画だなあ、と思ったもので。今回改めて見て、やはり凡匠・篠田正浩の数ある凡作のひとつであることを再確認。
 確かに八千草薫と加賀まりこのダブルヒロインは美しい。彼女たちの和服も美しい。
 だから、この映画には確実に「美しさ」はある。しかし「哀しみ」は、どこをどう振っても、ない。
 美しい女流画家・八千草薫と、その内弟子・加賀まりこは、同性愛の関係にある。
 八千草の役名は「音子(おとこ)」。何かのギャグか。
 八千草は、16歳の女学生のとき、妻子ある山村總の子を成し、しかしその赤ん坊が生まれてすぐ死んでしまったので、自殺を図った。未遂だったが、精神的にもその後遺症は残り、画家になっても画材は、嬰児ばかりという。
 で、たまたま山村總は小説家だったので、このてんまつを「十六七の娘」として小説化。多分この小説を読んでか、美しい八千草お姉さまの過去に憤った加賀まりこは、復讐を誓う。
 で、この復讐が、ヘン。山村に近づき、ホテルで寝る。そのあと山村の一人息子・山本圭をも誘惑。レズビアンが男の親子丼をして、家庭を破壊しようとするのだが、それがどう復讐なのか。しかも自分の肉体を<大嫌いな男>に提供してまで。完全に男の発想でげしょう。
 父・山村が胸をまさぐると、「左はだめっ!」と加賀。
 息子・山本が胸をまさぐっても、「右はだめっ!」
 山村は「左はダメって、左は音子のものなのかっ!」って、笑うところ? 八千草専用乳房。
 うぶな山本は、なぜ右がダメなのか、聞けもしないが。右は父・山村専用の乳なのか。
 加賀まりこ、こだわりの女。
 単に、ツンデレ女が好きな篠田の、<ベッドで命令する女>好みなのか?
 「十六七の娘」として小説化した山村。その清書を、元和文タイピストだった妻・渡辺美佐子にしてもらう。最近、例のガチャガチャと活字をタイプする機械を良く見るなあ。自分の夫と小娘の情事のてんまつをガチャンガチャンと清書する渡辺美佐子。当然、頭おかしくなりますわなあ、渡辺美佐子なんだから。
 妻「あなた、音子さんのことばかり、よく書いてるわ」
 夫「小説のヒロインなんだからね。美化してるさ」
 妻「音子さんのことを良く書くのはいいの。いやなのは、妻である私がほとんど出てこないことよ」
 
 なんか、全部の話が破綻しているなあ。いや、人間関係の破綻を描く前に、ね。

 日本史専攻の学生・山本圭は、父に、最近皇女和宮の墓が発掘調査されたと話題を振る。
 父「和宮といえば、高々百年ほど前の人だろう。古墳の発掘とは違うんじゃないか」
 確かに、千年のときを閲した古墳の調査とは、違う。生々しさゆえに、発掘というよりは、盗掘という感覚に近いだろう。皇女ではあるが、徳川家に降嫁した和宮の墓だから、発掘できるのだろう。孝明天皇ならできるのか、という問題だ。
 そして、白骨化した和宮がガラス版とともにあったという。もちろん当時の写真版で、うっすらと烏帽子姿の男が映っていたという。
 山村・山本・渡辺の親子は、その写真の男は、将軍家光の夫だったのか、別の意中の男だったのか、静かに話し合う。
 百年前の墓を<暴いて>その女性の白骨と、その想いまでのぞき見る。その、生々しさこそ、この映画の話の比喩とも思える。
 しかし、篠田に、その生々しさを描ききる才能はなく。表層をなめらかに滑降する風俗作家としての力もなく。
 そして、美人ではあるが、これほどまでエロスから程遠い女優・八千草と、復讐なんて骨太な発想がこんりんざい似合わない加賀と、色悪なんてまったく似合わない山村の、何の化学変化も期待できない組み合わせ。元祖草食系・山本圭のダメさ加減だけが、唯一のノン・ミスキャスト。
 結論。渡辺美佐子出演映画に傑作なし、は、裕木奈江、じゃない、ゆるぎなし。
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by mukashinoeiga | 2010-03-21 08:04 | 篠田心中岩の下志麻 | Trackback | Comments(2)

篠田正浩「涙を、獅子のたて髪に」

 京橋にて。「映画監督 篠田正浩」特集。62年、松竹大船。
 藤木孝という、当時の人気ロカビリー歌手を主演にした青春映画。歌は、かなりうまい。演技も、良い。それなりの逸材で、やんちゃな不良ではあるが、甘さがあり、悲しげに上目遣い、なんて、いわゆるジェームズ・ディーン・タイプ。彼が、戦災孤児という境遇から、企業やくざの南原宏治に拾われ、その悪の使いっぱしりになるしかなかった、悲しみを歌う映画。
 共同脚本に寺山修司。主人公が、女の子に、俺の話は全部作り話なんだぜ、と嘯くところが、いかにも、らしい。
 もっとも、彼がほぼ初対面の加賀まりこに言う、
「女の子と空き瓶は似ている。
 空き瓶は、中身を入れてから、ふたをする。
 女の子は、ふたをしてから、中身を入れる」。
 なんだ、下ネタじゃね。初対面の子にいう話じゃないよね。加賀まりこはぴんと来ないが、これも加賀まりこらしくもないな。とはいっても、本作が映画デヴューらしい加賀まりこも、なかなかうまい。かわいい。最初から中身が入ってるね。
 清純娘の加賀と対比的に出てくるのが、有閑マダム・岸田今日子。インポテンツらしい年上夫・山村總の妻だが、その部下である南原、さらにその手下である藤木とも寝る、淫乱マダム。
 岸田今日子という女優は不思議な女優で、性的でもないシーンで絶妙なお色気を発揮するのに、いざそれらしいシーンになると、まるで不感症のような冷淡さになる。本作も同様。ふつうの会話では、天然なのか人工甘味料なのかちょっと判断がつかないお色気エロキューションで男をその気にさせて、いざベッドでは完全に、冷凍マグロ。やらずぶったくりとは、このことか。ちがうか。
 もっとも、篠田映画的には、デレ抜きツンデレの岸田今日子は、究極のデレ抜きツンデレ女優・岩下志麻の祖形であるのか。ただし、不思議ちゃんな岸田今日子と、岩下の怖さはまったくの別物で。
 多分、清純加賀と、倦怠岸田と、主人公の三角関係メロドラマだったら、篠田映画的にもそれなりの小品佳作になったと思うが、いかんせん藤木が知らずに加賀の父・永田靖を殺す羽目になる。そんな、大それた(つまり、篠田にとって)<問題作>は、やはり、篠田の手に、余る。篠田、とことん、<小銭の人>やな。
 なお本作クレジットの<止め>は、<丹波哲郎(特別出演)>。これが出てきて30秒で、ハケてしまう! バーでデートの岸田と藤木、フト酔いから目覚めた丹波が「いよー、久しぶり、信子さん、オレだよ俺」。でも礼子(岸田)は、「あたし信子じゃないわ。あなた誰?」。デートの藤木と岸田のフンイキを読んだ、一夜のみの火遊びの丹波、空気を呼んですばやく退散。この呼吸はいいなあ。
 まるで「君も出世が出来る」の植木等みたい。東宝サラリーマン喜劇などのお気楽喜劇の丹波も見てみたいと、思わせるものがある。
 音楽は出色。藤木の歌もいいが、加賀に片思いの早川保や、老人が別々に歌う、吉原の娼婦の歌など、使い方のセンスもいい。ただ、篠田映画的には、佳作抜きの小品佳作、というべきか。
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by mukashinoeiga | 2010-03-19 21:39 | 篠田心中岩の下志麻 | Trackback | Comments(0)

佐伯幸三「何処へ」

 阿佐ヶ谷にて。「百万人の作家 石坂洋次郎の映画アルバム」特集。66年・宝塚映画。
 田舎町に赴任してきた教師・加山雄三が、教師間の派閥争いに巻き込まれたり、会う女会う女、みんなに惚れられたり。まあ、典型的な「坊ちゃん」ストーリー。田舎町といっても、当時最新の新幹線が止まる駅。といっても、政治家が地元に顔を聞かせるため、無理やり作った、いわゆる政治駅の感じ。確か、岐阜羽島? 岐阜羽鳥?
 だから田舎としてもビミョー。
 とにかく、もててもてて困る状態の加山。もっとも、あまりに競争率が高く、加山自体もクールであるため、ひとりはなれ、ふたりはなれ、みんなほどほどの恋人を見つけ。寂しいから、彼女でも欲しいかな、と思う頃には、実はみんなに振られている始末。最後に残ったのは、芸者の星由里子だけ。ふたりで青空の下、ビミョーなモンキーダンスをビミョーに踊って、ああ、加山雄三青年、いずこへ? と、ビミョーに終わる。確か続編があったはず?
 勝手に一目ぼれして、勝手に去っていく女たちに、これまた識別がビミョーな美人たち、稲野和子(たぶん同僚教師?)沢井桂子、原恵子。地味に美人で、地味に演技がうまい、たぶん新劇系か。宝塚系ではないだろう。なぜか宝塚映画には、宝塚の女優があんまり出てこない。
 なお、ラピュタのチラシに<若き英語教師をめぐって、女生徒ばかりか、女教師や町の芸者までもが大騒ぎ>とあるが、実はこの映画、<せりふのある女生徒が一人もいない!>のだ。だから、加山にキャーキャー言う女生徒がいるかどうか、映画を見る限り判断できないのだ。ちなみに不良な男子生徒は結構重要な役で何人か出てはくるが。
 結局教師たちと、町の何人かの大人たちの話だから、学園ものとしてもビミョー。
 同僚教師に渥美清。ユーモラスだが、きわめてふつうの人物をふつうに好演。こういう渥美も、もっと見たかった。
 星由里子の姉さん芸者に、池内淳子。ちょっと年上なので、加山へのスタンスも、惚れるでなく、さりとて惚れないでもなく、これまたビミョー。でも、池内独特のやわらかさがいい。
 石坂洋次郎原作の青春映画というのは、とにかく、くっきりはっきり東芝さんな明朗さが特徴で、これに一番適していたのが、日活青春路線。東宝の、ビミョーに落ち着いている加山ゆえか、ホントにビミョーな映画で。
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by mukashinoeiga | 2010-03-18 22:01 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

斎藤武市「花ひらく娘たち」

 阿佐ヶ谷にて。「百万人の作家 石坂洋次郎の映画アルバム」特集。69年・日活。
 富士山のふもとの清水市に住む姉妹。姉は、おとなしい和服派、内弁慶で家にこもり、和文タイプ(今の人は知らないけれど、そういう機械が昔ありました。ガチャガチャ音を立てて活字を拾う奴ね)の内職アルバイト、男と付き合うなんてとんでもない。箱入り娘。そういう吉永小百合。
 妹は洋装派、会社勤めで、ボーイフレンドからのデートのお誘い多数。現代っ子。そういう和泉雅子。
 このふたり、十代の頃は、すこぶる美少女、日活のスクリーンにその魅力的な美貌とキャラを誇っていました。しかし60年代も末になると、ともに二十歳半ば。小百合は無邪気な笑いを封印し(しても、似合わないと思ったのか)、和泉雅子も、もう十代の天然のおてんば娘には無理がある。 ふたりとも、十代にふさわしい愛らしさを輝かせたアイドル女優が、はたちを超えて、その魅力の魔法が消えると、たちまち<劣化>と呼ばれてしまう。なまじ美しいだけに、プラスアルファの魅力が消えうせると、なんだ、ただの美人じゃないか、と、とたんに熱気が消えてしまうのね。
 美しいだけじゃ、ダメなのよ。
 このふたりも、はたち代でデヴューしていれば、そういう目で見られることもなかっただろうし、でもアイドル女優として輝くこともなかっただろう。オーラが消えた、つまらない美人たち。映画は、そういう存在を、認めない。輝かせはしない。
 和泉雅子は早くに女優を引退したが、吉永小百合は、女優を続け、以後40年間、現在に至るまで、オーラのない主演女優として、第一線に立っている。そして、毎回選びに選んで、印象の薄い駄作に出続けている。小百合映画に傑作なし。
 この映画は、小百合に、結果として振られてしまう役に渡哲也、杉良、後に大物になってしまったために、すごい豪華なオールスタア映画に成長している。小百合・雅子の弟に沖雅也と言うのも、今となっては、なにげに豪華だな。高校生の沖、買ってもらった万歩計をたえず気にして、一日何歩歩かなきゃ、と、ちょっと変わった地味キャラ。 
 直前に見た「この若さあり限り」で小百合の母役・東恵美子は、今回は小百合に惚れる浜田光夫の母役。とっかえひっかえの役者たち。ちなみに東恵美子は先ごろ亡くなり、その訃報で知ったのだが、社会学者・南博と結婚して、本名は南恵美子なんだとか。どうなって(東南)いるのか。
 映画自体はそれなりに面白いが。まあ、深みは、ない水準作。

 なお、関係ないですが。映画と映画の合間に、ラピュタの裏手側をうろついたら。
 動物医院がかつてあった。目印が、入り口の、一メートル程度の高さの石柱。これに一匹の猫が乗っかり、その石柱の下でもう一匹がちょっかいを出すブロンズ像。この動物医院がつぶれたのちも、その石柱のブロンズ猫二匹が残っていた。ところが、今回、そのモニュメントはそのまま、その名も<OPPO>というアート・ギャラリーに変身していた。その名の通り、猫グッズ専門ギャラリー。やるなあ。
 ブロンズ像の猫たちは、小百合・雅子と違って、うまく変化に対応しているようだ。って、新聞のコラムみたいな、つまんねー落ちになってしまいましたね。
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by mukashinoeiga | 2010-03-17 23:24 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

蔵原惟繕「この若さある限り」

 阿佐ヶ谷にて。「百万人の作家 石坂洋次郎の映画アルバム」特集。61年・日活。
 最近篠田映画ばかり見ていたので、久しぶりの阿佐ヶ谷。そういえば「十七才は一度だけ」見逃した。
 篠田・岩下映画漬けのあとで見ると、ふつうの出来の映画でさえ新鮮清冽に見える(笑)。こんな他愛のない映画でも、多幸感が湧いてくる(笑)。篠田・岩下映画の効用か(笑)。
 とにかくキャメラが良く動く。きわめて適確な横移動とか、快適なパンニングとか、若さあふれる青春映画の日活らしい。
 そういえば、篠田よりやや先輩格だが、おおむね同時代の新人でもあった蔵原も、清冽な初期傑作から、ダメダメな「南極物語」へと、篠田とに多様な軌跡をたどっているが。
 主演は、後に光夫となる、浜田光曠(と、ラピュタのチラシになっているが、映画自体のクレジットは、日ヘンに略字体の広。曠じゃ、若い日活ファンには読めないよなあ)。序列2番目が吉永小百合、後に人気は逆転して、光夫がビリング2位となる。
 しかし、実は小百合はこの映画の一番のヒロインではない。珍しいことに実質ヒロインは吉行和子。高三の浜田は、古文教師吉行演じる信子に憧れを抱いている。隣家の美少女の同級生小百合など眼中にないのだ。
 純情直情な彼は「先生を愛している」「信子さんを抱きたい」という、例によって赤裸々なラブレターを送る。このラブレターというのが、時代であり、いかにも石坂洋次郎的なのだが、これの渡し方が、手が込んでいる。切手を貼って、田園調布駅前のポストに投函 → しようとしたところを当の吉行に偶然出会ってしまい、出しそびれる → 後日校門前で吉行を待ち伏せし、直接手渡し。繰り返すが切手も貼ってあるのに → 下宿に帰って、ラブレターを読む吉行。大家さんが現われ、あわてた吉行は花瓶を倒し、ラブレターを水びたしに → 夏休みに銚子海岸に一人旅の吉行。大胆に追いかけてきた浜田と、雨降る海岸で水びたしになって抱き合う。
 年上の女教師と高校生の禁断の恋。日活版青い体験モノ。後の日活ロマンポルノと変わらない内容、もちろんキスして抱きしめあうだけの描写だが、それ以上のシーンがないだけで、精神は一緒で。
 しかし、はれぼったい顔した、吉行和子がなあ。年上の人の色気とかゼロで。演技は改めてうまいんだが、高校生の健全な性欲が何で吉行に行くかという。吉行も、若い浜田にときめくが、なんせ婚約者が若さゼロの内藤武敏だから、これはやむをえない。しかし若く清冽で純情で直情の浜田と対比するのに、若年寄で四角四面でむっつり助平で女心理解度ゼロの内藤武敏が対抗馬ってのも、いやみかつナイスな配役だな。
 結局世間の目がある、不釣合いだと浜田をフッた吉行は、冷めた心で内藤ときわめて事務的に結婚を決意する。一方若い性欲を克服した浜田は、これまた色気ゼロだが美少女の吉永と仲直り。最後は日活青春モノらしい若いふたり。
 中身はそこそこだが、美しく締まりのある、若々しい白黒シネマスコープ映像が快(撮影間宮義雄)。ここら辺が篠田・岩下コンビに欠けていただけに余計際立つ(笑)。
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by mukashinoeiga | 2010-03-15 00:00 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

篠田正浩「卑弥呼」

 京橋にて。「映画監督 篠田正浩」特集。74年、表現社=ATG。
 卑弥呼はもちろん岩下志麻。この篠田特集、いつもいつも必ず岩下志麻。監督とスタア女優が夫婦、なのだが、この選択肢は良かったのか悪かったのか。もちろん、スタア女優の出演を確保することによって、篠田は映画を撮れる確率が格段に上がったことと思う。
 しかし、篠田の本来の資質は、なんの野心もない、小さな規模のプログラム・ピクチャアで、慎ましやかなサスペンスを静かに奏でることによってその美質が発揮される、ことにあると思うのだが、日本映画史上最強のツンデレ女優(時にはデレ抜き)岩下志麻という、たいへん強度の強い(強の字を二度使いましたよ)女優をフィーチャーすることは、その慎ましやかな資質とは正反対なのではないだろうか。
 一方の岩下志麻も、たとえば増村などとのコラボが最強の相性だと思う。今はやりの言葉でいえば、肉食系女優が、草食系監督の映画に出続けることの、バッド・タイミング。岩下志麻本来の美質である、ある種の強度を最高に発揮する機会を、篠田の映画を優先することによって、延々と阻害されていたのではないか。
 たとえば「卑弥呼」。最強女優を想定して、<強い女>を主演にした映画を考えると、古代社会の巫女的女王の物語にたどり着く、のは、わかるのだが、それはあまりにも篠田の資質とかけ離れたものだろう。篠田は、繰り返すが、せいぜい半径十メートル程度の範囲の中の、サスペンスを得意とする映画作家なのだ。国家の行方を左右する<王家の娘>など、てんから描けるタマではないのだ。いや、これは篠田を蔑視しているのではない。資質の問題なのだ。

 で、「卑弥呼」。まあ、相変わらず、ダイナミックに描くところが、ダイナミックではない。戦闘場面など、せいぜい幼稚園の運動会レヴェル。笑えるといえば笑えるが。しかし、その笑いは、もちろんうそ寒いもので。
 きわめて簡素化、抽象化された、邪馬台国の宮殿、絶対リアルじゃない極度に抽象化された美術セットが、まあ、お話にならないくらい、センスがない。たとえば、抽象化セットの極北、キムタケ美術に比べれば、まるで幼稚園以下の、お子様ランチ。これじゃあ、幼稚園にも入学できないレヴェルの美術(粟津潔)だろ。
 キムタケといえば。岩下卑弥呼が失脚した後。小さな女の子が、<神のお告げを伝える巫女的王女>を、演じるのが「ピストルオペラ」っぽい。篠田、清順のダメ版か。
 なお、岩下志麻のいとこらしい、河原崎長一郎、河原崎健三が、岩下の兄役で登場する。鼻の感じが似ているよね。
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by mukashinoeiga | 2010-03-13 23:38 | 篠田心中岩の下志麻 | Trackback | Comments(0)