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松尾昭典「人間狩り」

 阿佐ヶ谷にて。「昭和警察物語・銀幕に吠えろ」特集。62年・日活。
 まだ、犯罪関係の人権といえば、加害者のそれのみ優先され、被害者のそれには一顧だにされなかったころのお話。主人公・長門裕之刑事は常習犯罪者・小沢栄太郎に「異常」な憎しみを持つ。小沢は殺しの容疑で事情聴取を受けるが、早速代理人が自首してくる。お前がやったんだろ、と小沢に暴力を振るう長門。同僚刑事も、なぜ長門が犯罪者に「異常」な憎しみを抱くのか理解できない。実は長門は、幼いころ、通りすがりの犯人に理不尽にも母を殺された過去を持つ。ここで提示されるのは、「罪を憎んで人を憎まず」なる理想論に心から毒された側にとっては、犯罪者を憎むのは、「特殊」なやつらに限ることだ、という<戦後民主主義レジーム>の徹底である。
 ここで、代理人自首>自分無罪、の流れに余裕ぶっこいた小沢は、十数年前にある男と実行した強盗の自慢。夜、ある雑貨屋に侵入したが、家人に見つかり、相方が殺しちまった、という話だ。長門は記録を調べ、この殺人の時効があと数日だということを突き止める。「相方が殺した」はうそで、実は小沢が殺したに違いない、とにらみ、数日後の時効デッドラインを突破すべく捜査を開始する。品川、赤羽、熱海、京成青砥と、長門はめまぐるしく立ち回る。地味なりに、好もしい展開。
 そして、とうとう、青砥で地味に暮らしている大坂志郎が相方であることを突き止める。時効数分前、深夜の京成青砥駅のホームで、大坂を追い詰める長門。大坂は涙ながらに、わたしが殺しました、この十数年間、悔やみに悔やんできました。手錠をてに、これで肝心の小沢は逮捕できない、強盗自体の罪はすでに時効だし、しかも、この苦しみぬいてきた大坂(その日常はすでに映画で丁寧に描かれている)を、いまさら逮捕してどうなるのか、大坂の家族も苦しむだろう、と逮捕をあきらめて、恋人・渡辺美佐子と去っていく。
 「罪を憎んで人を憎まず」第二のテーゼは、「反省し、犯行を悔いているものは、情状酌量の余地あり」。だが、考えてほしい。<事後の反省>は、<犯行現場>に存在しているか。<犯罪>の有無はあくまでも<犯行現場・犯行当時>に存在している証拠・事情によって<裁く>べきではないのか。被害者の無念の死は、犯罪者の<反省の肥やし>に、過ぎないのか。
 よく出来た映画ではあるが、そういう戦後民主主義レジームに毒されきったところが、今見ると、痛々しい。さきに、犯罪関係の人権といえば、加害者のそれのみ優先され、被害者のそれには一顧だにされなかったころのお話、と書いたが、その事情は今も変わらない。つい数年前まで、「時効警察」なる、殺人を犯して、逃げ切った時効犯を、オダギリジョーや麻生久美子が、よくがんばったね、と頭いい子いい子するTVドラマが好評を博していたくらいだ。
 なお、本作でもこの時期の日活で、わけあり風いい女を一手に引き受けていた感のある渡辺美佐子が、じとじとねめねめと活躍。いや、うっとおしい。
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by mukashinoeiga | 2009-07-30 21:41 | 旧作日本映画感想文 | Trackback | Comments(0)

成瀬る

  日本映画黄金期のONコンビ、小津に続いて、成瀬を妄想する 
                        BY  ナルセスト・・・・昔の映画


 1 成瀬マジック
    『おかあさん』の冷徹な?幸せ家族計画
 2 はげギャグと心中悲恋の同居
    巳喜男と行く路~『君と行く路』    
 3 二人の娘、成瀬の女性性
    戦う女、戦わない男~『女の座』『コタンの口笛』  
 4 成瀬は対立をいかに回避するのか
    対立を無化する作法~『三十三間堂通し矢物語』『歌行燈』『お国と五平』
 5 山の音とは雪崩のことか 
    ヒッチコック ON 成瀬~『山の音』『雪崩』
 6 成瀬における交通事故
    女と男の地政学 ~『限りなき鋪道』『乱れ雲』
 7 非・成瀬的?な傑作『鰯雲』
    こんなにも多数の登場人物をさくさく捌く成瀬
 8 『娘・妻・母』の非・松竹メロ性
    成瀬と小津の違いが鮮明に
 9 『夫婦』で、誤解したこと

 10~  近日公開予定
e0178641_21453162.jpg

◎追記◎誰が作ったのか、なかなかグッド。
★Au gre du courant : le cinema de Naruse 成瀬 巳喜男★
 Au gre du courantは、成瀬の代表作「流れる」のフランス語タイトル、とのこと。

●近日公開予定●
黒い沢ほどよく明か黒沢明映画の正体
川島あり川島雄三映画の正体
おゲイさん乾杯木下恵介映画の正体
愛と清順の駄目出し鈴木清順映画の正体
彼と彼女と取りマキ~ノたちマキノ雅弘映画の正体
大魔剣三隅研次映画の正体
危険な英夫鈴木英夫映画の正体
ますますムラムラの悶獣増村保造映画の正体
妄想の器橋本忍映画の正体
Vシネの花道90年代最強伝説三池崇史映画の正体
しぃみず学園清水宏映画の正体
溝口賛歌(けんじぃ)溝口健二映画の正体



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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:40 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(2)

成瀬る1 成瀬マジック「おかあさん」

 成瀬生誕100年の年に開催された京橋フィルムセンターの成瀬特集で、成瀬映画全作品中のマイベストワン『おかあさん』(1952・脚本水木洋子)を再見した。何回見ても、相変わらずの快作。うれしい映画である。
e0178641_2073997.jpg しかし、見終わった後、ややボーゼンとなる。何回目かではじめて気づいたオドロクべき事実(?)。いや、普通の人は一回見ただけで分かるのかもしれないけど、ぼくは鈍だから今回はじめて気づきましたね。何たる成瀬マジック。
『おかあさん』は、田中絹代の一家が、通い職人・加東大介の手を借りて、小さなクリーニング店をつつましく守っていく話だ。その映画の終盤「最後の一日」の描写なのだが。
まとめると、こういうことになる。

 (たぶん)妹娘が伯父さんにもらわれていく。そのあと、
 (たぶん午前中)叔母さん(中北千枝子)が姉娘・香川京子を美容師試験の練習で花嫁姿に変身させる(このシーンの香川京子が異常なまでにかわいい)。ボーイフレンド岡田英次の母親から「(お嫁にいくのなら)うちにもらいたいんですけど」とプロポーズされる。にっこり、香川京子。しみじみ、母・田中絹代。ここではすでに、もらいっ子された妹娘のことはまるきり忘れ去られているような幸福感が一家に漂う。
 そして、午後から夜にかけて、新しい小僧さんがやってきて、加東大介が去っていく。この小僧さんをそれなりに教育しなければならないはずの加東が、数時間ガイダンスして、満足な実技指導もせずに退職していくのは、あまりにあんまりじゃないのか。
 これ全部、一日に起きる。
 つまり、この日は、この一家、五人「家族」から一挙に二人が去り、もうひとりも将来結婚のため家から去ることが確定し、別の一人が一家に加わるという、この一家としては一大イヴェント連発の日なのだ。
 これ、こんななりゆきが一挙に押し寄せるのは、なんか異常じゃない、と気づいたのだ。いや、現実に立て続けに一日に起こる色々はリアリティとしてありうるとしても、リアリズムとしてはどうなんだ。この一日を脚本にしたら、普通はリアリズムじゃないよ、と批判されるんじゃないのか。
 問題は(あるいは、まったく問題にならないのは)この濃い展開が、成瀬マジックで、まったく気にならない点だ。よくよく考えれば不自然な(過剰な)展開が、実にさくさくするすると、流れていく。一日に大転回がいくつも、しかも別々のエピソードとしてあるのに、それを感じさせずに、するすると流れていく。
 感情の揺らぎすら感じさせずに。
 「流れる」成瀬マジック。う~む、おそるべし。
 一般には淡々とした淡彩のごとき映画というのが、成瀬映画のイメージだが、このエピソードつるべ打ちは、まるでジェットコースター映画のそれではないか。しかし、成瀬はジェットコースター感を一切感じさせず、さくさく「流れる」ように流していく。
 その夜の終わり、香川京子が「おかあさん、幸せですか?」のナレーション。おかあさんを案じる優しい娘なのだが、その朝うちを去っていた妹への言及はない。おかあさんも、ふと、他家に行った娘を思う気配さえない。普通の凡庸な映画だったら、一日の終わりに、あーせわしない一日だったねー、と凡庸に感慨にふけるものじゃないですか。
 布団の上で甥っ子と相撲して、何か、満ち足りた家庭の雰囲気で「終」。いやそれだけではなく、ヴェテラン加東が去って、今後は、自分と娘・香川と素人の小僧さんだけで店を切り回していくことの不安もなく、満ち足りた家庭の雰囲気で「終」。
 これ、リアリズム、ちゃいますやろ。しかし、そういう「不自然さ」を観客には、ちらりとも感じさせない、成瀬独特の流れるような演出・編集テクニック。
 そういう「不自然さ」にいちいちこだわっていたら、上映時間100分以下には収まらない。さくさく流れない。ただの、つまらない、凡庸な、「リアル」な、二流映画にしかならない。幸福感あふれるエンドにはならない。
 ここら辺が成瀬と凡庸な監督を分け隔てる点か。
 妹娘はおじさんの家へもらわれて、姉娘はパン屋に嫁に行きそうだ。では、クリーニング屋を継ぐものは。
 多分、田中絹代は、甥っ子を考えているのだ。力仕事の必要なクリーニング商売には、やはり男手だ、と(しかし、それならなおさら、田中、香川の母娘、年端の行かない小僧さん、幼い甥っ子、の四人きりの結末の幸福感は、やはりおかしいだろう。偽りのハッピーエンド)。
 それぞれの子供たちの将来を、適材適所を、おかあさんなりに考えているのだ。
 甥っ子の母は美容師の中北だから、美容師を男は継げない、とおかあさんは考えている(当時の美容師は女性主流だった)。だから、甥っ子と相撲をとる。どうせ嫁に行く娘なら、早々と自分の家から出て行くのには、こだわらない。ちょっと妹娘に冷たいふうにしか見えないのもそういう理由もあるのだ。それが、おかあさんの、幸せ家族計画なのだ。
 泥だらけに汚れた甥っ子の服を、換えの服がないという理由で妹娘のスカートに着替えさせる衣装交換こそが、妹娘と甥っ子の交換に先立って演じられている。かしこそうな妹娘もそれを半ばは察して、養子に行く。
 成瀬映画および中北千枝子が例外的に向上心に満ちた『おかあさん』の、それが幸福感ある結末の理由だろうか。そういう現実主義の女性性の成瀬に対して、少年っぽい理想主義や感傷に満ちた、木下恵介『夕やけ雲』の、やはり妹娘がおじさんにもらわれていくシーンも、嫌いではないのだけれども。

e0178641_2081849.jpg 追記。角隠しの白無垢、花嫁衣裳に身を包んだ香川京子が、異常なまでにかわいいのは、むろん花の盛りの彼女のかわいらしさを映像に記録したことにあるのだが、同時に、和装の花嫁衣裳は、映画でも現実でも、きわめて儀式性が高く、それを身にまとった女性は紋切の極致といっていいほど無表情になるのが普通である。角隠し、と言うがごとく花嫁は感情の角を隠さなければならないお約束である。おそらく神前の巫女と同様の静謐な様式性を帯びているのだろう。というお約束の白無垢を着て、しかしこの映画ではまだ幼い彼女が叔母の試験の実験台、という、いわばお遊びの気楽さで、花嫁衣裳の規範を逸脱した、その愛らしさ、ということだろう。成瀬、意外に<萌え>を知ってるな(笑)。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:37 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(4)

成瀬る2   はげギャグと心中悲恋の同居

 前から思っているのだが、成瀬のあだ名がヤルセナキオ、というのが納得いかない。
いや、あだ名としてはかなりの傑作とは思うし、成瀬の一面を突いてもいるのだが、あれだけ面白くユーモア満載の映画を作る人(でも、ある)を、何で暗さまっしぐらで呼ぶんだという。もっぱらDVDやTVモニターで成瀬を見ている人たちは、じじつ成瀬のいくつかの映画が並木座や文芸坐で上映された際、爆笑に次ぐ爆笑であることを、実感としてわからないかもしれないが・・・・・。
 で、ぼくは、個人的に、ミッキーナルセと呼んでいる・・・・。・・・・。
まあ、ヤルセナキオに比べるべくもないネーミングだけれど。
 あまり知られてはいない『君と行く路』(1936・脚色成瀬巳喜男)。
 京橋フィルムセンターで見たあとで、知り合いの女性が年配男性客に声をかけられた。「いやー、つまらん。駄作だね。脚本もひどいし」
 知り合いは「そーですよねー」と、相槌。その男性が帰った後、ぼくが「いや、でも、ぼくは、結構、面白かった」というと、彼女、「そーですよねー」。
 どっちなんだ。
 いや、でも、これ、結構、重要かも。
 話は悲劇的だ。なんせ、男女の両主人公が自殺してしまうのだから。しかし、そういう悲恋ものなのに、映画はいつものように、楽しい成瀬映画だ。にこにこのユーモア。対立する世代の中にも、親和性あふれる幸福感。
 つまり、成瀬は悲劇を描きたくない、さりとてまったくの喜劇ともしたくない、こんな映画作家はやはり珍しい、その不思議な成瀬バランスが、おそらく、ある種の観客たちに混乱をもたらすのだ。
 そういう人たちは「しょせん結果は悲劇なんでしょ、なのに、なんなの、このほのぼのした雰囲気は?」と。つまり、泣かせ、なのか、笑わせ、なのか、どっちかにはっきりしてくれい派の人たちは、泣かせたくないのよ笑わせたいのよでも話の基本は悲劇なんだよねー、の成瀬映画に混乱して、その結果、駄作だ、戦中戦後の一時期の成瀬はスランプだった、ということになるのだと思う。
 悲劇にしては楽しい楽しい幸福感。喜劇としてはしゃれにならないストーリィ・ライン。
 藤原釜足のはげギャグと恋人たちの心中立てが同居する。自分の無知蒙昧がいかに息子とその恋人を死に追いやっているか、そよとも気づかない母・清川玉枝の、愛らしさ。
 いつもいつも、愚鈍以外の何者でもない友人・堤真佐子。成瀬映画が愛するアンパンマン堤真佐子(その戦後進化系が中北千枝子)の、始末に困る微妙な半端感こそ、成瀬映画の正体解明に至る道ではないかと(ほんとかい)。あらゆる悲劇を、身に付いた愚鈍さで回避してしまう堤真佐子。
 そして、しばしば和のティストで語られる成瀬の、西洋感覚、アメリカ感。大川平八郎が車を転がす海沿いは、まんまアメリカ映画ではないか。洋館・テニス・釜足(ルビッチ映画の常連、E・E・ホートンの役回りなのは明らか)と兄弟の交流、などは言わずもがな。 小津安二郎や清水宏らと同様、あくまでも和魂洋才、この辺との、心中ものとのすわり心地の悪さも、スランプ呼ばわりの元か。
 傑作ではないにしろ、かなり滑らかな「流れる」ような快作なのに。ミッキーナルセは、やはり面白い。

 そういう成瀬でも、あんまりユーモアの感じられない映画もある。ぼくの感覚で言えば、たとえば『桃中軒雲右衛門』『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』。戦後作品では『めし』『山の音』『浮雲』『杏っ子』。
 おお、戦前作では見事に芸道ものばかりではないですか。芸道精進、という目的のある男たちを、どちらかというとメインにした、成瀬にしては珍しい男性主人公路線。家庭的な雰囲気が感じられない作品群だともいえよう。『浮雲』にしても、非・家庭的、どちらかというとヒロインは男に引きずられているストーリー(だと思う)。
 『杏っ子』こそ家庭ドラマだが、この視点で考えてみれば、ほかの成瀬ホームドラマに比べて、「陰気な夫と、陰険な父に挟まれて、悩んでる(だけの)女」という、男主導ドラマか。その男たちも、一応目的があって(作家として)芸道モノと言えなくもないし、家庭といっても雰囲気は険悪だ。
 つまり、強引にいってしまうと、成瀬が親和性ユーモアを安心して(?)披露できるのは、女性メインの女系的家族の中だけ? 女性主導の世界でのみ、くつろげるのが、成瀬ユーモアか。
 そうすると『はたらく一家』で、貧乏な家庭の男兄弟たちが金もないのにカフェに入り浸って、無駄遣いするのも分かるようになる。頑固親父と男兄弟のすさんだ雰囲気を抜け出して、気楽に冗談が言える、カフェの女性的雰囲気を求めたのだろう。
 親父ギャグの小津に比べれば、その女性性はあきらか。しかし、それなら、『君と行く路』が、なぜその親和性のままで終わらなかったのか。アメリカ映画なら、車を駆って、自殺するのではなく、彼女をさらいに行くだろう。そういう<男性>的な、直線的・強引・力ずくの解決法を好まなかったということだろうか。つまり、長所も短所も含めて、成瀬は女性側に立っているということか。
 あるいは日本映画の観客が喜劇より悲劇を好んでいたせいか。気持ちのいい映画を作っても「ソーダ水みたいな映画」(高峰秀子の『秀子の車掌さん』評)の一言で終わってしまうからか。
ハッピーは好きだけど、ハッピーエンドは好きじゃないのが、成瀬なのか。せっかくの道行きも悲劇に終わる『乱れる』など、アン・ハッピーエンドの数々。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:35 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る3   二人の娘、成瀬の女性性

 『女の座』(1962・脚本井出俊郎・松山善三)で、二人の娘(司葉子、星由里子)が、ともに関心を持つ男(夏木陽介)について、歩きながら語り合うシーンがある。
 その二人が歩く背後の塀に映画の宣伝ポスターが張ってある。
 千葉泰樹『二人の息子』。思わずにやにやしてしまう。
 宝田明と加山雄三が兄弟を演じる傑作であるが、『女の座』とプロデューサーも脚本家もおなじ、主要な人物が、踏切事故で死ぬのもおなじ。家族間でお金で争うのもおなじ。
 しかし、それ以上に、ああ、成瀬映画って「二人の息子」じゃなくて、「二人の娘」なんだなあ、という連想に行き着く。もちろん例外はあるが、成瀬映画では基本的に、二人の女がひとりの男を争う映画ではないか、と。
 『女の座』にしても、ともに夏木陽介を好きな「二人の娘」もそうだし、さらに一方的な草笛光子の思い込みなのだが、草笛と高峰秀子が宝田明を張り合い、草笛が高峰のほほを張り飛ばす。
 『妻として女として』では、二重の意味で高峰と淡島千景が男を張り合う。森雅之と、そして息子・大沢健三郎を。『妻よ薔薇のやうに』は、本当はメインタイトルが『二人妻』、これもひとりの男をやり取りする二人の妻の話が基本で。『くちづけ/女同士』も、一方的にだけど男を取り合う二人の女の話だから「女同士」というのは、なんか仲よさそうでヘンだ。『雪崩』も『まごころ』も『銀座化粧』も『めし』も『浮雲』も『ひき逃げ』も『夜の流れ』も『妻』も『山の音』も『あらくれ』も『放浪記』も『女の中にいる他人』も基本的に「二人の女がひとりの男を争う映画」なんだとおもう。
 成瀬映画ずいいちの二枚目・森雅之は女好きだから女に次々手を出すわけではないのだ。女のあいだに対立をもたらすためにモリマは存在している。モリマ・サッカーボール説、蹴られるために必要な存在。

 ここで少し話を変えて、成瀬が、その出身であるにもかかわらず、おそらくは、絶対になじめなかっただろう、戦前松竹メロドラマというのは、一言でまとめちゃうと、「色々な男がヒロインを狙ってくるけど、でも私は純情一筋よ」てことだと思う(複数の男が一人の女を争う、逆成瀬パターン)。清水宏『銀河』は、ヒロインが想う男すら、ヒロインのからだを狙ってくるという点で、典型にしてハイパー松竹メロだった。しかし成瀬映画は「色々な男がヒロインを狙ってくるけど」というパターンは好まない。
 「夫がいて、好きな男もいる」系の成瀬パターンでは、夫はたいてい死んでいて、未亡人である(『まごころ』『銀座化粧』『お国と五平』『おかあさん』『妻として女として』『乱れる』『乱れ雲』)し、あるいは一方の男が身を引くし(『君と行く路』『鶴八鶴次郎』)、結局は元サヤに納まったり(『鶴八鶴次郎』『舞姫』『めし』『妻の心』)、三国連太郎がおねえだったり?(『夫婦』)などなど。
 なにが言いたいのかというと、ひとつは成瀬映画は「女が男を選ぶ」のであり、男はその女の選択に従うほかはないということである。男をめぐる女の争いを描くという点で、成瀬映画は常に女性の側に立っているといえよう。
 もうひとつ成瀬は、女同士の争いは、ビンタになったりキャットファイトになったりと、かなり派手なのだが(女性の複数性)、男同士の争いは極力回避するということだ。
 夫はすでに亡かったり、一方または両方が身を引いたり、男同士の女をめぐる争いというのが、なぜか、顕在化しないようしないように、回避している。アンチ戦前松竹メロ。 旧松竹三羽烏の中で、上原謙、佐野周二と違って、なぜか佐分利信が成瀬映画にお呼びでないのもはっきり分かる。佐分利は「結婚は生活の方便だから」と「ぼくの妻なんてものはこの程度だろう」という理由で、複数の女の中から一人の女を選ぶ男、そういう男目線のキャラだから(いわゆる戦前松竹メロドラマのなかで、上原・佐野と違い、佐分利はそういう役をいくつか演じたように思う)。上原や佐野は、傲慢にも女を選ぶ、というキャラでは比較的なかったように思える。たとえば清水宏『歌女覚え書』の上原のように、こうと決めたらその人一筋という役に、佐分利は似合わない。
 成瀬映画は、親和性あふれるユーモアがある種の女性性の上に成り立つと同時に、基本的に女たちが男を争う、女性優位の世界なのだ。

 『コタンの口笛』という、成瀬にしてはいろいろな意味で異色な映画がある(1959・原作石森延男・脚色橋本忍)。橋本忍映画としては、生ぬるい部類だろうが、成瀬としては例外といっていいほどドラマチックで社会派。らしくない成瀬映画。
 基本は『おかあさん』『秋立ちぬ』と同じ、子供という力のない立場で、自分にはどうしようもない状態で、家族や周囲の親しい人たちが、自分の前からどんどん消えていく、それを淡々と描いていく、まあいつもの成瀬調と思わせて。
 この映画がほかの成瀬映画と違うのは、アイヌ人と和人という、民族間対立の問題が導入されていることで、このことにより、子供たちがつらい目にあうのは「差別」によるものであり、だから、子供たちはいつもの成瀬映画のように運命を従順には受け入れない。「差別」に、立ち向かおうとする。そこらへんはいつもの成瀬映画との違いで、調子の狂うところだろう。こういう社会派的「テーマ主義」にはまったくなじまない成瀬なのだ。
 ただし、子供たちは最後には、同じアイヌ人の伯父・山茶花究に食い物にされるのだから(冷酷な山茶花が例によってグッド)それまでの民族間差別云々が無化されてしまうのが面白い。
 森雅之はじめアイヌの大人の男たちは、差別されることに慣れすぎて、徹底して卑屈きわまる。こういうところが成瀬ごのみなのかな。
 ちょっと笑えるのは。そして、これこそいかにも成瀬なのだが。
 アイヌ人と和人の女生徒同士は、ビンタしたり取っ組み合ったりのキャットファイトが、具体的に描かれる。対して、同様の男子生徒同士は、成瀬映画としては珍しく二度も争う。特に二度目は夜の校庭で決闘をして、一方に重傷を負わせる。ところが、画面上では、描写を省略して、なんと男の子たちが相手に指一本触れるシーンすらないのだ。女の子たちの喧嘩はちゃんと描くのに。
この映画の男の子は、(画面上)相手に接触することなしに、けんかで重傷を負わせてしまうのである!
 う~ん、ここでも成瀬は男同士の争いを回避しているなあ。よっぽど男同士の闘争が嫌いな成瀬なのである。『稲妻』の高峰秀子の兄は、男たちが立ち回りの喧嘩をすると、遠巻きにしてビビっているだけ。その喧嘩の描写も、成瀬演出は驚くくらいシマラナイのだ。
 『あらくれ』の高峰秀子と三浦光子の文字通りのキャットファイト、『ひき逃げ』の高峰秀子と司葉子の神経戦、『妻』の高峰三枝子と丹阿見谷津子の言葉の応酬、そういう女と女の争いは喜んで(?)描くのに。とことん女の子(笑)なミッキーなのである。 
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:34 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る4  成瀬は対立をいかに回避するのか

 成瀬最初の時代劇は『三十三間堂通し矢物語』(1945・脚本小国英雄)である。
 これが思ったより面白い。さくさくと映画が流れていくのはいつもの成瀬映画。流麗なる成瀬テクニック。
 しかし、ストーリーがなんかヘン。
 お話は、こういうことだ。三十三間堂にて、弓矢の的当て連続記録を争う。
 まず、Aが記録を作る。次にその記録をBが破る。すると、なぜか、記録を破られたことに恥辱を感じたAが自死。ここがまず現代の感覚では分からない。「記録は破られるためにある」のがぼくたちの感覚だから。A氏も改めてチャレンジすればよいと思うのだ。
あるいは、この武士たちの試合はひとり一度限りなのか。それなら納得がいく。
 死んだ父に代わり、Aジュニアが家名をかけて、Bの記録を破るべく猛特訓、も、イマイチ、頼りない。ここに、Bその人(主人公長谷川一夫)が身分を隠してAジュニアのコーチとなり、記録更新に協力加担する。
 なぜ、自分の記録を破ろうとする若者を積極的に指導援助するのか。そこにどんな必然性がある。映画は、そこをまるきり、語らない。語らないが、Aジュニアを応援する。なぜなのか明確な論理は語らない。その父親を死に追いやった罪悪感? 記録は進歩するべきだ、という向上心? 広義の父性? 考えられるのは、主人公の弟が家名大事、家名のためならどんなことでもする嫌な奴に描かれていて、主人公はそれが煩い。その、家名大事に反発しているのかもしれない。
 もちろん、心情としてはなんとなく理解できる。強くて心優しいヒーローの高潔な行為だから、自分の名誉など省みない長谷川の態度に観客は涙するわけだ。
 理由は明示されず、暗黙の了解のもと(察してくれよということだろう)、映画はさくさくと進んでいく。んー、なぜなんだ。西洋的(ということは近現代的)闘争観からはまったく理解できないなあ、と考えていると、ふいと思いつく、ああ、これってあれと同じじゃない『歌行燈』。
 と思いいたると、いや「うたアン」どころじゃないよ。次から次へと、連想されていく。

          Aが死ぬ  Bが直接間接に原因  Aの身辺者CにBは好意・助力
『三十三間堂』 父が自死  長谷川が記録を破る  C(Aの息子)に弓術を指導
『歌行燈』    父が自死  花柳が芸を見下す   C(Aの娘)に芸を伝授 
『お国と五平』  夫が斬殺  山村總が斬った    C(Aの妻)に懸想しストーカー
『乱れ雲』    夫が事故  加山雄三が加害者   C(Aの妻)に道ならぬ恋 

 これらの映画は、劇的な自殺・事件が起こる、日常派・成瀬にしては、非・日常的な映画ばっかり。ドラマティック成瀬。『乱れ雲』をのぞいて、成瀬としては珍しい時代劇系。それが、結構パターン化できるという(ただしこの中では『お国と五平』は、ちと意味合いが違うが)。
 それぞれ順に、脚本小国英雄、原作泉鏡花・脚色久保田万太郎、原作谷崎潤一郎・脚色八住利雄、脚本山田信夫、とまったく違うのに、話が似ている。成瀬は自分からあんまり企画を出すほうではなく、お仕着せの仕事ばかりこなしてきた、ということになっているが、ストーリーが同じになってしまうのは何故なのか。
 しかし『歌行燈』で美女山田五十鈴に助力する花柳正太郎に何の疑問も持たず、『三十三間堂』で長谷川が青年に助力するのに疑問を感じるのも、我れながらわかりやすい性質だ。

 さらに、その、ヴァリエーション、

                  それなのに      奇妙な?(親和的)行動
『乱れる』      夫戦死   妻=高峰秀子   夫の弟・加山と恋情
『妻として女として』夫浮気   妻と愛人       妻と愛人共同事業・子育て
『妻よ薔薇のやうに』夫家出   愛人=英百合子 娘・千葉早智子へ送金
『山の音』      夫浮気   妻=原節子     義父と共鳴
『ひき逃げ』     子が事故  母=高峰秀子   犯人宅に住込み・子守

 やっぱり、苦しいか。無理やりパターンを見つけようとする、浅ましさを、感じますね、我れながら(『ひき逃げ』だけ少し意味合いが違う)。
 しかし。ドラマティックな事故・事件の「加害者」たる男たちの奇妙な行動。ドメスティックなトラブルの際の、「被害者」たる女性の「奇妙」な行動。これだけ重なると、ちょっと面白い。企業監督としてお仕着せ企画を映画化していたというイメージの成瀬に、意外なパターンが。しかも、それもかなり特殊なパターンとはいえまいか。

 なお、成瀬のもうひとつの時代劇『お国と五平』(1952)も、あまり評価は高くないようだが、実に面白い。夫の敵討ちの旅に出た未亡人・小暮実千代が、実はそのカタキにずうっと付け狙われていた、ストーカーされていたという、あっと驚く展開もすごいが、そのストーカー山村總が、ストーカーらしく常人には計り知れない奇妙奇天烈な心情論理でもって、自分勝手な自己正当化。その「弱者ゆえの攻撃性」は、山村總の巧演もあって、思わず爆笑してしまう。加害者の側から争いを無化してしまうという意外性。成瀬ならではといっていいのか。普通はあだ討ち成就を期待される敵討ち物語のカタルシスを全く無視した、恐るべき傑作なのかもしれない。成瀬はいかなる手段を使っても争いを回避してみせるのだ。
 やってることは自分勝手の一語だが、山村總の愛らしさ(ホントに愛らしいのだ)は、絶妙におかしい。中村登『河口』、木村恵吾『風癲老人日記』も含めて、爆笑喜劇俳優山村總は、もっと評価されてもいいのでは。監督としても『沙羅の花の峠』で、恐れ多くもあの東山千栄子先生のバストをすっぽんぽんにして、そのロケットおっぱいをさらしちゃった罰当たり者なのだ。かの『東京物語』では自分の母親役だった、その二年後、東山千栄子を脱がせてしまうなんて、なに考えてるんだ、山村總。凄過ぎる。
 閑話休題。
 このストーカーぶりの奇妙な現代性は、製作当時より今のほうが正当に評価できるのではないか。何しろ当然のことながらストーカーという言葉もなかったのだから、この山村總の異様な執着妄執は、当時の観客には、理解の外だったろう。
 スランプだとか、駄作とか言われもする作品も、実際に見てみると、かなり面白いのが成瀬の凄いところ。そして、この、弱いがゆえの加害性、加害者なのに被害者まがい、が後出しじゃんけん的にいかにも成瀬らしい。コメディ好きが爆笑するところを、まじめな映画ファンは呆然として失笑、駄作呼ばわりも、わからないではないのだが。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:33 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る5 山の音とは雪崩のことか  

 さて、爆笑喜劇俳優山村總が本業に戻った(?)『山の音』(1954・原作川端康成・脚色水木洋子)である。
 母・長岡輝子ひとりが、屈折がない、のほほんキャラで、彼女だけが裏表がない。残りは全員裏表ありまくり。「庶民派」成瀬としては異常なまでに。
  1 父・山村總は嫁・原節子と相思相愛状態。
  2 息子・上原謙は複数の女性と怪しげな関係。
  3 娘・中北千枝子は子供二人を連れて出戻り状態。
 特に1・2が、成瀬にしては、異様な変態度がただよう。しかし3の中北千枝子のネガティヴ・パワーもあまりにすごくて、圧倒される。中北千枝子は、成瀬映画ゆえに、おそらく日本映画界最強の「性格俳優」なのではないか。恐るべき負のパワー。
 ここで注目は、実は、一見脇役な、長男上原だ。考えてみたまえ。朝は、父とともに出勤、会社は父が社長、退勤も父とともにうちに帰ることを母たちに期待される、帰ったら帰ったで、嫁は自分より父に密着している、そして夜が明ける、一家の早起きは父と嫁、なにやら怪しい。こういう状況で、反抗するとすれば、帰宅を父と共にしない、なるべく遅く帰宅する、くらいしか、彼には「自由」の選択肢がないではないか。かくて上原が浮気するのは必然であるのですね(ワンシーンだけ登場する妹中北の夫・金子信雄に対する上原の親近感ある態度。実の妹への嫌悪とは裏腹な、金子の放蕩に対する許容度)。
 ここで、さらに注目すべきは、彼の浮気の異様さだ。「酔って暴れてまで愛人に歌うことを強制する。愛人は歌うことを泣きながら拒否する」なんていうへんてこりん。
 無論当時はこの種の描写はたとえせりふだけだとしても、ある種のつつしみが必要ではあったのだろうけれど。何かしらの行為の比喩であったとしても、納得いかないし、ひょっとして成瀬はギャグとして言わせているのか。
 愛人・角梨枝子に、その友人・丹阿弥、部下・杉葉子の三本立て。おまけが多すぎる。しかし、この三人は、実家の、妻、母、女中(やめているので会話の中だけで登場)にきっちり対応するのではないか。

               妊娠する愛人・角=同時に妊娠する本妻・原
  角をかばう丹阿弥(実は息子がある母)=母・長岡
    自身も上原に気があるような秘書杉=直近で辞めた女中
                      (後釜は杉が友人を紹介しようとする)
 そして、それぞれの三人の「家長」は、いうまでもなく、
                   息子・上原=父・山村

 実の家で、身の置き所がない上原が、仮の家で作り上げた虚構の家族。その数学的相似性。その相似性は、もちろん妻・愛人同時妊娠までにいたり、しかも本妻は中絶強行、愛人は出産決心、と上原にしてみれば、もーカンベン状態でありますね。原節の悩みなんて、上原の悩みに比べればタカが知れている、と思いませんか、山村のおとーさん。思わないかなあ。
 ほんとは義父の子を産みたかった、あるいは、その精神的不倫に折り合いがつけられずに中絶する嫁・原節子。まあ、表面は浮気する夫への拒否反応ということだろうが。
 「子供には見えない」童女の面に執着する義父。杉の紹介で「息のかかった」?女中を画策?する上原。そもそも「映画が始まる直前にやめた」女中は、なぜ、辞めたのか。この『山の音』がミステリなら(笑)当然その死体は発見されているだろう(笑)。犯人は誰か(笑)。意外な犯人ということでは、ぼくは長岡輝子を押す。
 「明るく楽しい東宝ヒロイン」杉葉子を陰影ある女に作り変える成瀬もひねくれている。丸い顔なのに妙に陰影ある丹阿弥(金子信雄と共演した映画なんて始めて見た気がする?)と、この映画、実は怪しい人ばっかり出ている。一種のミステリものではないかとすら思ってしまう。

 『山の音』の約二十年前の『雪崩』(1937・原作大佛次郎・脚色成瀬巳喜男)を見ていると、途中から、唖然としてしまう。なんなの、これ。『山の音』とおなじ話じゃありませんか!
 お人形みたいなきれいなお嫁さんがいて、でも夫は物足りなくて、別の女に入れあげている。嫁に同情した義父は実の息子をしかり、息子の女をいさめる。
 義父・嫁間に恋情めいたことがないのをのぞけば、完全におなじ話。タイトルもギャグかい。雪崩とは、山にのみ見られる現象で、もちろん原因にも結果にも音を伴う。
 原作(大佛、川端)が違うのに、なぜ(未読)。
 夫(佐伯秀男)が、これまたひどい奴で、成瀬史上最低の鬼畜男。あまりに自分勝手で笑ってしまう。それとも、成瀬はギャグでやっているのか。中途半端でわからないが。
 一方、その父(汐見洋)は、成瀬史上、最高の人格者だ。絵に描いた高潔男。
 嫁(霧立のぼる)も、成瀬史上、最強(もしくは、最弱)のお人形さん、純情派か。
 何か純粋培養されたようなキャラクターたちだ。極度に西洋化された婚家も、何か理想めいている。まるで実験室で培養実験をしている趣。おとこだけ極度に西洋化したらどうだろうか、という実験(二人のヒロインは、そうこの映画も成瀬的ダブル・ヒロイン・システム、やたらめそめそしているので、洋装でも大和なでしこ)か。
 実父と息子はそれぞれ強固な持論を展開して議論しあう。この映画は成瀬としては例外的に男同士が、言葉のやり取りだけではあるが徹底的に対立しあう。『山の音』以上に。
男同士の対立を回避する傾向にある成瀬でも、父と息子では例外を作る。
 その対立の結果、ある破局を迎えるのだが、その部分の描写はヒッチコックよりヒッチコック的ですらある。よく言われる、この映画の欠点とされる、登場人物のモノローグになると、画面に紗が降りる趣向も、確かになんじゃこりゃだが、ミステリとしての雰囲気醸成には一役買っているのではないか。B級ジャンル映画のお約束テクとして。
 最後、夫は妻を、勝手な理屈で殺そうとして、最後の最後で思いとどまるのだが、いや、これ絶対思いとどまってないよ、本当は殺しているよ、ラストシーンは、恋人(奇妙な色気のある江戸川蘭子)とその弟(それこそ純粋培養されたような清潔感)の開放的な海辺散策シーンを持ってきて、例によって結末をあいまいにして(というよりは話をそらして)いるが、ありゃ絶対、あの省略しているシーンで夫は妻を殺しているよ。『おかあさん』で父も息子も臨終シーンを省略しているように。『女の中の他人』で、妻が夫を毒殺するシーンを省略したように。断定してもいい。あれは殺している(笑)。成瀬はそういうどぎつい場面は常に省略するからね。
 そうすると、嫁の実家シーンで、なぜかワケありに出てくる、弁護士・三島雅夫の登場理由も見えてくる。もちろん探偵役だ。ミステリとしての『雪崩』には捜査・解決編が省略されている。成瀬だから。
 ぼくたち成瀬ファンは普通『女の中の他人』『ひき逃げ』は、いやいや撮ったご時世迎合映画と見ているのだが、この『雪崩』なんかを見ていると、成瀬にもある種のミステリ志向があったのでは、と思わせる。ただ、捜査とか、快刀乱麻を断つ、というのは嫌いな人だから。そういう事件解決断罪型のミステリは、見捨てりますからね。察してくれよ、というサッスペンスが成瀬。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:27 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る6  成瀬における交通事故

 タイトルの『限りなき鋪道』(1934・原作北村小松・脚色池田実三)は、二人のヒロインが働くカフェがある銀座をさしていることは明らかだ。この映画が撮影された1930年代のモダン都市文学や軟派ジャーナリズムであれば鋪道にペーブメントとルビを振ったことだろう。もちろん日本で当時ペーブメントといえば、銀ブラ族の聖地銀座のみを指していたのは言うまでもない。また、同じ男を巡ったさや当てはしないが、この映画も成瀬映画おなじみのダブル・ヒロインだ。
 そしてこれまた成瀬映画おなじみの交通事故。車に当たったヒロインは軽症ですむが、この事故によって恋人と別れ、「轢いた」男と出会い、結婚することになる。遺作『乱れ雲』にまでいたる成瀬パターンがすでにして登場している。成瀬以外では考えられないすごい展開ともいえるし、第二次世界大戦後の勝者としてのアメリカと敗者としての日本を考えると、なんだ同じじゃん、とも思う。
 轢いた男と轢かれた女。してみれば、「車道」が男で、「鋪道」は女の比喩であることは、成瀬映画的には「道理」というべきではないか。成瀬的交通事故とは、女こどもの領域である「鋪道」から不用意に外れてしまうことの悲劇であるのだろう。夫を交通事故で亡くしてしまう司葉子が妊娠中であるのも(『乱れ雲』)、婚外不倫している司葉子が子供を轢いてしまうのも(『ひき逃げ』)、あるいは成瀬的必然なのだろう。
 成瀬映画には交通事故(『腰弁頑張れ』『妻として女として』の踏切事故を含む)が頻発する印象があるが、鋪道と車道の地政学だったのか。女性性の領域を外れて、男と恋することによる女の不幸とも、重なり合う。
 もうひとつは、たぶん、因果関係の存在しない不意の悲劇=成瀬好みの急激な場面転換、というものであろうか。因果があっては、映画がもさもさする。成瀬映画の「流れる」ようなスピードを停滞させてしまう。
 この映画は、婚家の姑・小姑にいびられて、しかし、弱い夫はちっとも嫁の味方にならないという、『女人哀愁』パターン。いわゆる女の悲劇モノなのだが、悲劇でも楽しいのが成瀬映画の常、暗さを一人で救っているのが、ヒロインの友人になる日守新一ことヒモリン。街の似顔絵描きから映画撮影所の美術部に転職する。この撮影所が自由が丘にある、というのが笑える。
 蒲田映画の本作を最後に松竹を退社し、砧のPCLに移る成瀬としては、この自由が丘撮影所という設定はきわめて微妙で。蒲田から東急圏内で、なおかつ蒲田より砧寄り? 転社予告か切ない脱出願望の表出か。しかしこのヒモリンのファース部分が余りに楽しいので「ヒモリンの底抜け撮影所」なんてのも見てみたかったなあ。この美術助手ヒモリンに、小道具助手として蒲田入りした成瀬を垣間見るのは成瀬びいきゆえのこと。
 『限りなき鋪道』一般的にはイマイチ、という評価なのだが、ぼくは意外に好きだ。かなり佳作では。面白い。ヒロイン忍節子はなんかイマイチだなあ、と見ていても、さいご離婚して、なんか面構えというか眼が良くなってる。凛とした表情が良い。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:24 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る7 非・成瀬的?な傑作『鰯雲』

 昔、ぼろぼろのフィルムで見た時はさして印象に残っていななかった作品だが、改めて見たら、実にすばらしい。ぼく的には、成瀬ベストテンに入るクラス。この映画はすばらしい。成瀬映画の中でも、あまり評価されないのが不思議なくらいだ。それとも例によってぼくの映画の見方がおかしいのか。
e0178641_23112524.jpg 『鰯雲』 (1958・原作和田伝・脚色橋本忍)は、いくつかの意味で、いつもの成瀬映画とは違う。
 いつもの町場のごみごみした路地ではなく、田畑が広がる農村部を舞台としている。場所は違っても、やはりさくさくと進行していく快調成瀬ドラマ。
 ヒロイン淡島千景は、新聞記者・木村功の取材に自らの主張を堂々と述べる非成瀬ヒロイン。そして、映画早々からその新聞記者と情事を重ねる。これも成瀬パターンとしては珍しい、未亡人の恋。
 幾組かの男女の恋の成立、というのも成瀬としては異例ではないか。淡島・木村、小林桂樹・司葉子、太刀川寛・水野久美、新珠三千代・見明凡太郎、のそれそれの恋。元夫婦の杉村春子・中村鴈次郎の和解。かくも多くの恋が成就する、異色の成瀬映画。淡島を除いては、すべてハッピーエンド。
 家庭、路地、町内、と、ある意味「密室」ドラマの成瀬としては、珍しい「空間移動」ドラマだ。二つの田舎と街(小田原?)をめぐる三都?物語。田舎では不自由な暮らしを強いられている恋人たちも、都会では自由な独身同士の付き合いが享楽できるだろう。その享受された自由は、やがて田舎にもフィードバックされるだろう。成瀬としてはなんというハッピーエンド。
 脚色・橋本忍としては『コタンの口笛』同様、もっとも低刺激なお話だろうが、成瀬映画としては、なかなかあなどれない。ある意味、かなりモダンな展開となっている。
 この映画では、あまりに多くの登場人物が出て来るのだが、それを成瀬は天才的に裁いて、さくさくと流れるように進行させていく、呆然とするほど見事だ。いま、二時間程度の上映時間で、これだけの人物数・家族数の登場人物を、さばききれる映画作家は世界中探しても、あまりいないのではないか。
 その代わり、細かい登場人物は消える。たとえば、淡島千景のひとり息子は、物語の整合性を最低限保証するだけしか出てこないし、姑・飯田蝶子は途中で消えてしまう。この姑が消えたおかげで、登場人物は、ほぼ善人のみとなる。あるいは、小林桂樹の実母・杉村春子の二度目の夫は、出てこない。この辺の省略の仕方は本当に天才的だ。
 よく映画が長大な原作のダイジェスト版に過ぎなくて、単にあらすじを追うだけの味気ないもの、という批判があるが、成瀬や三隅剣次、違った、三隅研次などの真の映画的天才とも言うべき物語作家はどんなに長い複雑な話でも、すっきりさくさくと魅せ切ってしまうという好例だろう。無論、もうひとりの天才橋本忍の構成もあるだろうが。
 そうして描かれるのは、田舎では実現不可能な、カップル単位の自由な生き方が、都会では簡単に実現してしまう、という「戦後民主主義」の勝利だ。田舎では、みんなから非難される行為(年配の女性たちが若い女を注視して、「ありゃー(もう)男を知り尽くしているからだじゃー」と噂し合う)が、都会では、みんなから温かく見守られることになるだろう(いまみたいに、まるきり没交渉の都会になる、その前段階の街場的都会)。
 そこでは、大げさに言えば人情と友愛的モダニズムの、理想的な都市空間が称揚されている。戦前成瀬のモダニズムと違い、戦後成瀬のこの種のモダニズムは無理なくドラマに接ぎ木されていると思う。 『石中先生行状記』とともに、ここでの成瀬は、おおらかでコミカルな世界を楽しんでいる。
 唯一非成瀬的なヒロイン淡島千景を除いては。さすが意地悪ミッキーだけのことはある。

 以上、1~7と、小津とともに日本映画黄金期のONコンビともいえる成瀬について、くだらない感想を書いてきたが、成瀬に関しては、生誕100年の成瀬特集を京橋フィルムセンターで見た際に書いたもので、その特集で見た映画に限ったメモ書きである。未見作中心に見に行き、同日ならついでに既見作も見た。特集上映のすべてに行ける訳ではないので、見逃した作品、既見ゆえに見送った作品も当然あった。それらについては、書いていない。だから代表作ともいうべき『流れる』や『浮雲』がラインナップされていない、奇妙な成瀬感想文になってしまった。以下で若干の補足をしていきたい。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:23 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(4)

成瀬る8 『娘・妻・母』の非・松竹メロ性

 東宝オールスタアによるホームドラマ(1960・脚本・井手俊郎・松山善三)。まあ成瀬としては思い切り肩の力を抜いた企画品だが、オールスタアの出入りをさばく交通整理はさすがで、型どおりの話で見せきってしまう。凡庸な監督がオールスタア映画を手がけると、スタアの交通整理にていっぱいで、肝心の映画がなおざりになることが多いなか、さすがは交通整理の名人・成瀬だ。やはりこの映画を見るのは何度目かだが、それでも楽しめてしまう。もはや、名人の落語みたいなものですな。
 主役は原節子で、当時はそのキスシーンが売りといえば売りだったのだろう。伊豆への慰安旅行のバスが横転して、夫に死なれた原節子は(交通事故が多い成瀬でも、思い切り派手なのがおかしい)仲代達矢とのつかの間の逢瀬のあと、母・三益愛子も込みで引き受けてもらうという実利のため、上原謙のもとに再婚する。このメインの話が、ああ、つくづく成瀬は戦前松竹メロがいやなんだなあ、と苦笑させられる。というより、まるきり合わないのね夢物語は。
 戦前松竹メロドラマの基本は、「いろいろな男がヒロインを狙うけど、でも私(ヒロイン)は純情一筋よ」というもの。実利狙いで玉の輿に乗る原節はいかにも非・松竹メロドラマで。明確に自分の意志で仲代をあきらめ上原との再婚を決めるのは原節子自身である。
 戦前松竹メロドラマは、基本的に、さまざまな苦難を乗り越えてヒロインが純情を貫くというもので、それは松竹史上最大のシリーズ『男はつらいよ』にまで通底している。あのシリーズのマドンナたちは、<フラれる側の男>から見た松竹メロドラマの残滓で、男をヒロインが選ぶ基準が純愛であることは一貫していたのだ。
 成瀬ヒロインは苦難を乗り越えるのをさっぱりとあきらめる。女の側のほうがあきらめるのが、成瀬。あきらめるとはいえ、主体は女性の側にある。そうして、半ば実利で原節が嫁ぐ相手が、戦前松竹メロを代表する上原謙、ミスター・松竹メロその人というキャスティングが、いかにも皮肉で、成瀬らしい。成瀬も上原も大好きなぼくとしては、もうニヤニヤしてしまう。
 逆に、男に振られる形で、主体が女の側にない形で松竹メロを裏切るのが小津。『晩春』『秋刀魚の味』のヒロインは消極的な失恋をしたあと、お見合いで結婚する。『東京暮色』の有馬稲子は男に捨てられて、半ば自殺のような踏み切り事故で命を落とす。『風の中の牝鶏』の虐待される田中絹代。こういうことは成瀬では決して起こらないだろう。同様にリアリズムで松竹メロを拒否しても、男目線の小津、女目線の成瀬というくらいは、違うふたりだ。
 ところで、小津版『エデンの東』の『東京暮色』は『浮雲』の森雅之のパロディみたいな田浦正巳が笑わせ、『早春』は妻と愛人に挟まれた池部良という、まさしく成瀬そのものの設定だし、小津は何かと成瀬を意識している。
 では、かつて「小津はふたり要らない」といわれたという成瀬は小津を意識している映画があるのかというと、続『晩春』とも言うべき『山の音』とともに、まさに本作『娘・妻・母』がそれなのでは。冒頭クレジットのバックは例の荒い麻布?模様だし、『麦秋』の原節のように、同じく原節が買ってきて、夜遅く大人だけで食べる高価なイチゴのケーキとか(その高価なケーキも『麦秋』より安そうなのが成瀬らしい)、『生まれてはみたけれど』同様の8ミリ上映会がさざなみを起し、兄弟からたらいまわしにされかかる老母三益に一番親身になるのが実娘の原節というのは、あからさまに『東京物語』だし、『東京物語』で親を邪険にした杉村春子が今度は子供たちに邪険にされる側に回り、と小津意識大会であると邪推することも可能だ(笑)。ラストカットは、ほとんど唐突に笠智衆だし。そもそも、この映画のメインの話は、兄(一家の家長)森雅之と、その妻・高峰秀子も心配する、原節子の再婚先。原節の結婚話なのだ。小津と違って、みもふたもない成瀬は、ちゃんと原節を再婚させる。しかもいささか実利めいた落ち着き先として。さらに、その相手は、小津が苦手とする?上原謙だ。あからさまな小津への挑発ではないか(妄想モード)。
 ちなみに、今回見たDVDのおまけの予告編、原節、デコちゃんの予告編用のくさいナレーションに爆笑。成瀬の管轄を外れると、とたんにクサくなるのだ(普通、当時の日本映画で予告を作るのは助監督の仕事)。またこのDVDには通常のモノラル音声のほか、<パースペクタ・ステレオフォニック・サウンド>版も選択できるようになっている。これは東宝スコープ用の立体音響として採用された<3チャンネル擬似ステレオ方式>とのこと。どうりでこの映画には、成瀬らしからぬクサいBGMが全編をおおっていたのか、納得。そういうところはちゃんと期待にこたえる成瀬なのだ。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:21 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(2)