カテゴリ:成瀬巳喜男映画の正体成瀬る( 15 )

成瀬巳喜男「禍福」前・後篇

 ユーチューブにて。37年、製作・P.C.L.映画製作所、配給・東宝映画株式會社
 2005年のフィルムセンター「生誕百年特集 映画監督 成瀬巳喜男」特集で見逃したもの。
 新文芸坐の今回の成瀬特集でも、せっかくフィルムセンターの所蔵プリントを借りられるのだから、せめて一番組でも、こういった戦前のものをやってほしかった。
 いわゆる三角関係メロドラマを、相変わらずさくさくと、流れるように流麗に描く。
 ただし、後年のスーパー成瀬では、ない。いわゆる若書きゆえの幼さ?はあるが、それでもクイクイと魅せる(笑)。

禍福 前篇(78分・35mm・白黒) <フィルムセンターHPより>
「真珠夫人」のテレビドラマ化で再び注目を集めている菊池寛。本作は彼のメロドラマ小説の映画化である。外交官に採用され前途有望な皆川(高田)は、豊美(入江)と結婚の約束を交わしていた。しかし皆川は帰郷した時に出会った幼な馴染みの百合恵に心惹かれる。
’37(東宝東京)(原)菊池寛(脚)岩崎文隆(撮)三浦光雄(美)北猛夫(音)仁木他喜雄(出)高田稔、入江たか子、竹久千恵子、丸山定夫、英百合子、堀越節子、生方明、伊東薫、御橋公、伊藤智子、逢初夢子、大川平八郎、神田千鶴子

禍福 後篇(79分・35mm・白黒) <フィルムセンターHPより>
皆川の子を産んだ豊美は、皆川の妻となった百合恵(竹久)と図らずも親しくなり、皆川家に居候することに。長期出張先のフランスから帰ってきた皆川は豊美と衝撃の再会を果たす。女性同士の友情と連帯によって豊美の復讐劇は大きく転換してゆく。
’37(東宝東京)(原)菊池寛(脚)岩崎文隆(撮)三浦光雄(美)北猛夫(音)伊藤昇(出)高田稔、入江たか子、竹久千恵子、丸山定夫、英百合子、堀越節子、生方明、伊東薫、御橋公、伊藤智子、逢初夢子、大川平八郎、神田千鶴子

 なお、上記では東宝東京とのみ記されているが、正しくはこちら。字数省略で仕方がないとはいえ、同じフィルムセンターのHPの、別ページで、表記が違うというのも。正規版は、以下にあり。
★所蔵映画フィルム検索システム★のタイトル検索で、詳細なスタッフ・キャスト一覧あり。

 以下、完全ネタバレあり。
black and white. Directed by Naruse Mikio
Learn from Experience, Part 1 / 禍福 前篇 (1937)

Learn from Experience, Part II / 禍福 後篇 (1937)


 戦後の成瀬は、エンエンと駄目男を描いたが、本作の主人公は、ズル男。
 入江たか子は、親友・逢初夢子の紹介で、高田稔と知り合い、両親公認の仲となる。
 高田稔は、故郷・桐生の父親から、実家の織物工場の大負債を手紙で打ち明けられ、帰郷。
 二万円の持参金つきで、同業者の娘をもらってくれ、と矢の催促だ。
 そんな政略結婚、家の犠牲になるのは、いやだい、ぼくはあくまで入江たか子を、妻にするんだと、拒否。

(注)「東北でダンスホールがあるのは、ここと新潟だけ」(竹久千恵子)。群馬県桐生も、北陸新潟も、当時は東北の一言なのか。

 と・こ・ろ・が(笑)。
 偶然、その持参金付娘・竹久千恵子に、会ったら、なんと彼女に一目惚れ(笑)。入江たか子なんか、もうどうでもよくなっちゃうんである(ここら辺帳場の山下さんパクリ風)。
 以後、入江を見捨てて、竹久千恵子に、ミノル、まっしぐら。
 と・こ・ろ・が(笑)。
 実は、楚々とした入江たか子は、おとなしい振りして、やることはちゃんとやっていて(前篇20分30秒頃(笑)の、アイマイな水の流れで超間接描写)、なんと妊娠していた、と。
 戦前ゆえの、超間接描写だが、下世話なことを言えば、布団は敷いたのだろうか(笑)。まさか、そのまま(笑)。
 ここからシングルマザー悲恋モノへと移行する。
 しかし、ミノル、竹久千恵子に一目惚れなのに、実は家庭の事情で、父親に強制されて、と言い訳一方。づるい(笑)。づるすぎる(笑)。

 前半はまだしも、娘らしくきゃぴきゃぴしている入江たか子だが、ほぼ全篇で和服で通す入江の、めそめそじとじとっぷりより、モダンガアル竹久千恵子に、イっちゃうのも、わからぬではない。
 女学生時代、柔道部!(笑)。
 でも、ぼくなら、ダンゼン、逢初夢子一択だな(笑)。
★島津保次郎「隣りの八重ちゃん」:昔の映画を見ています★34年の、そのままの闊達さ、愛らしさ。アイドル的演技。
 成瀬も師匠・島津の、この演技そのままを、逢初夢子に要求したことだろう。
 いちおう、大川平八郎の妻になったら、大人の女の演技にチェンジする聡明さ。

 主題歌のひとつが「女の味方は女だけ」と言うあからさまさ(笑)からわかるとおり、本作もまた、成瀬的シスターフッドの物語
 親友・逢初夢子が、そしてなんと、元カレの現カノ・竹久千恵子すら、入江たか子と連帯する。
 この女性性賛歌は、成瀬ならでは。女性的関係性のなかでこそ、成瀬映画は真価を発揮する。いつもの成瀬だ。
 そして、この映画は、いかにも、いつもの成瀬で、「ふたりの女が一人の男を争う」映画。
 戦前松竹メロドラマを、一言で表すと「一人の女を複数の男が争う」パターンがやたら多く主流で。
 こういう戦前松竹で真価を発揮できず、逃げるようにP.C.L.(東宝)に行った成瀬は、心底松竹メロがいやだったのだろう。
 戦前松竹としては例外的?に「ふたりの女が一人の男を争う」島津保次郎「隣りの八重ちゃん」を、おそらく成瀬は、好きだったと思う。 
 ここら辺の事情は、★成瀬る3 二人の娘、成瀬の女性性:昔の映画を見ています★を、参照されたい(笑)。
 また元カノと、現カノのシスターフッドについては、★成瀬る4 成瀬は対立をいかに回避するのか:昔の映画を見ています★を、参照されたい(笑)。宣伝ばっかやな(笑)。

(注)「女の味方は女だけ」を、フィルムセンターHPは、「友の味方は女だけ」と、意味不明の誤記。ネット情報は、当ブログも含めて、信用してはならないという一例で。

 約80年も昔の映画なのに、主要登場人物は、みんなおなじみの役者ばかり、というのも、恐るべしだが。まあ、ぼくたちみたいな極端なOLD者ゆえの特殊傾向かも知れぬが(笑)。
 その中でも特筆すべきは、後篇のみの出演の北林谷栄!
 この、若いときからおばあさん役一筋、主役を食う生涯シワ役女優、特殊女優・北林谷栄の、なんと、珍しき<若い娘>役。
 清川玉枝の洋装店で入江の同僚の女店員、入江と学生野球を見に行ったりする。精一杯の若いむすめっぷり、しぐさ、シワのない輝く笑顔が新鮮で。しみじみ見返したりしちゃいます(笑)。
 でも、ぼく的には、逢初夢子一択だけれども(笑)。

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by mukashinoeiga | 2014-09-21 10:09 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(4)

成瀬巳喜男「浦島太郎の後裔」

 京橋にて。「よみがえる日本映画-映画保存のための特別事業費によるvol.6東宝篇」特集。46年、東宝。
 確かに、あまりにフランク・キャプラ・ライクな(しかもロバート・リスキン抜きで)、
 GHQの戦後民主主義推進路線に、もろ手を挙げて、もろ足?も上げて、大また開いて、進駐軍サマに出血大サーヴィスな媚びように、見える。
 アメリカ流デモクラシー(らしきもの)にコビコビな、あまりに、ブザマな、媚びように、見える。
 ヤンキー・ゴーホームならぬ、ゴー・ヤンキーホームな、珍品?であろう。たしかに。
 つい最近まで「敵」であった、アメリカン・デモクシラーへの、あからさまな土下座エンターティンメント?(笑)

↓み~んな、この映画には、悩んでいる(笑)という一例。
★浦島太郎の後裔 : 映画収集狂★

 しっかし、考えても見たまえ(笑)。日本映画は、戦前から、アメリカはハリウッド映画の明朗喜劇をお手本に映画を作ってきたのではないか。
 決して戦争に負けたから、急造で、アメリカ映画風に、なったわけではないのだ。
 戦前日本映画のほうが、むしろ戦後日本映画より、アメリカ映画に近かったくらいのものだ。もちろん、それは、単なる片思いの面も、あったりするわけだが。
 小津も、マキノも、清水も、阿部ジャッキーも、山中も、いかに、アメリカ映画の快を日本的に表現しうるか、考えていたのではなかろうか。
 そして私見によれば、戦前日本映画で、一番「アメリカン感覚」の映画を作っていたのが、意外と思われるかもしれないが、実はミッキーナルセなのだ(笑)。一番アメリカン感覚がサマになっていたのが、ミッキーナルセ映画なのだという、意外性。
 いや、実は、ぼくは、ぜんぜん、意外とは、思わないのだが。
 もともと戦前松竹系監督の、欧米ティストは、きわめて特徴的だったが、それを極めたのが、かの成瀬であるという(笑)。
 本作が成瀬巳喜男の黒歴史とされることも、わからないではない。確かに、上っ調子、うわっすべりな映画だ。
 しかし、当ブログが、前々から書いたように、
1 成瀬映画は、常に、ふたりの女がひとりの男を争う映画である。
 本作でも、山根寿子と高峰秀子が、藤田進をめぐって、争う。
2 成瀬映画は、女同士の争いとは真逆に、徹底して、男同士の争いを回避する。 本作は、いわば一種の(笑)政治映画なのに、結局争いは、なあなあに収束されていく。
 きわめてめずらしい「政治映画」。少しは、成瀬の弟子・山本薩夫の、骨太政治映画を見習っては、と思うが、しかし、それこそが成瀬なんだよね。 
 というところで、眠くなったので、成瀬巳喜男「浦島太郎の後裔」感想駄文は、また後日(笑)。 

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by mukashinoeiga | 2013-11-22 23:42 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬巳喜男「女優と詩人」

 京橋にて。「よみがえる日本映画-映画保存のための特別事業費によるvol.6東宝篇」特集。35年、P・C・L(のちの東宝)。あと1回上映。
 女優(千葉早智子)と、へっぽこ詩人(宇留木浩)の、若夫婦をめぐる、他愛のないコメディー。
 宇留木浩は、同年の成瀬巳喜男「サーカス五人組」 (感想駄文済み)の、主演者の一人。指田文夫さんのブログによれば、細川ちか子の、若くして亡くなった兄とのこと。似てない兄妹だなあ。ちか子はどちらかといえば狐顔、宇留木浩は、丸い狸顔だ。
 売れっ子女優と、売れない詩人の組み合わせ。「かえるの学校」という童謡詩?を雑誌に載せたはいいが、マイナー雑誌らしく、原稿料は、カステラの菓子折りの現物支給。奥さんに収入不足をなじられて、明治チョコレートの宣伝歌に応募しようという、算段。
 友人には、これまた売れない小説家志望の藤原釜足。
 宇留木浩は、収入が上の妻に頭が上がらない。おりしも隣家に、佐伯秀男らの若夫婦が越してきて、引越しそばがどうのこうのという話になる。
 ここらへんは成瀬「驟雨」の、ハラセツ・サノシュウの隣家に引越ししてくる、小林桂樹・根岸明美の若夫婦を思わせる。
 とすると、この二つの家の隣のおせっかいオバサン・戸田春子が、「驟雨」の香川京子に変奏されるわけだろうか(笑)。
 二階に釜足を下宿させる。これは同じ成瀬「夫婦」だったか(正確には三国連太郎が夫婦を下宿させたのだが)。
 戦後の「驟雨」「夫婦」「めし」の祖形とも言うべき夫婦ドラマだが、その戦後作が中年夫婦なのに比べても、いかにも若々しい若夫婦コメディといったところ。
<以下、ネタバレあり>
 女優役の千葉早智子(芝居仲間に三島雅夫青年がいる)が、夫に稽古をつき合わせる。
 夫婦喧嘩の芝居だが、せりふの応酬をしているうちに、ホントの夫婦喧嘩に発展してしまう。こういうしゃれっ気のある展開は、成瀬は、やや苦手なのね。小津のシャープさが、ない。だから、そんな場面をメインにしている本作は、いささか、しまらない。

 ところで本作には、出演者のほうにもクレジットされている三遊亭金馬(もちろん、ぼくが子供のころTVで見ていた金馬とは、ジェネレーションが違う)が、スタッフとしてもクレジットされている。<主題落語 三遊亭金馬>。
 映画のなかの金馬は、主人公夫婦の隣家の、保険外交員の役。劇中では、落語は披露しない。主題落語クレジットに、レコード番号が付与されているところをみると、レコード発売のみのようだ。
 主題歌ならぬ主題落語の発売。しゃれてるなあ。いかにも、映画、レコード、落語が三つとも黄金期だったころのあかしで。
 さて、その金馬、かみさんの戸田春子に尻を叩かれ、夜分に隣家に保険勧誘、対応する佐伯秀男らの若夫婦も、いかにも初心そうな新婚さんで好印象。
 ところが翌朝も、なかなか雨戸が開かない。まあ、新婚さんだから、とにやつく近隣、ところが昼になっても締め切ったまま、とうとう心中者だと知れる。
 出ました成瀬バランス。楽しい若夫婦コメディに入り込む、不穏な気配。ホントウに、成瀬は、幸せ度100パーの映画も、不幸度100パーの映画も作らないよねー。でも、コメディー調の本作では、最後に言い訳がましく、せりふのみで、二人は助かった、と語られる。
 でも、せりふのみだからなあ。

 フィルムセンターのチラシには、
1「トーキー初期の作品らしく、音の演出にさまざまな工夫が見られる」
2「エンドクレジットが消える直前にかすかに入る男性の声に注意してほしい」
と、あるが、

1 ぼくには、むしろ冒頭の原っぱの場面、子供の凧揚げ、宇留木浩の持つふんどし、子供の母の絵描き、のシーンに完全サイレントの演出を感じた。まだまだ、音に頼らない演出もあるのだ、という軽いレジスタンスの気分を。もっとも、これさえも「音の演出のさまざまな工夫」のひとつといわれれば、そうなんだけれども。
2  フィルムセンターでは、耳を澄ましていたが、そよとも聞こえず。下記の動画で、ラストのみ音声を最大にしたら、かすかに「カット」の声。たぶん成瀬の声なのだろうが、だから、どういう効果があるのかが、わからない(笑)。万事控えめな成瀬が自分の声を入れるのは考えにくく、ポスト・プロダクション時のスタッフのしゃれ、なのかも知れない。
 いたずらなら、意味不明なのも納得。
 ただ、フィルムセンターも注意を喚起するならば、場内の観客にわかる程度には、最後のみ音量を上げるべき。

 終始、つっけんどん演技の千葉早智子、ラストのみ、甘ったるい声で、彼女本来の美質が、こちらに。やはりお嬢さん女優は、こうでなくっちゃ。もっとも、それまでも夫の月風の名を「げっぷうー」と呼び捨てにする声も、楽しい。

The Actress and the Poet / 女優と詩人 (1935) (EN)

 画質があまりに暗すぎる抜けの悪さ。これはパソコンを調節して直せるものなのかしら。
★日本映画データベース/女優と詩人★
★月と接吻 | Movie Walker★
 リメイクもあるらしい。三木のり平&淡路恵子では、ちとがっかりの軽量級。
    
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by mukashinoeiga | 2013-11-05 12:01 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬巳喜男「サーカス五人組」

 京橋にて。「よみがえる日本映画-映画保存のための特別事業費によるvol.6東宝篇」特集。35年、P・C・L(のちの東宝)。あと1回上映。
e0178641_3402265.jpg うーん、微妙だ(笑)。
 面白ことは面白い。いつものニコニコの、ミッキー映画。しかし、うーん(苦)。
 たいへん面白いが、ミッキーナルセ映画としては、スーパーでは、ない。他の監督の作なら十分合格点だが、ミッキー映画としては・・・・物足りぬ。イヤー、いつものことだが、上から目線だな、オレ。
 主演の五人組に、大川平八郎、藤原釜足、御橋公、そしてこの二人は聞きなれないが、宇留木浩、リキー宮川。宇留木浩は成瀬巳喜男「女優と詩人」主演。
 この五人が、全員いい。素晴らしい。こういった寄せ集めのグループ主演モノでは、たいてい一人か二人、残念な人がいるのだが、見事に全員素晴らしいのは、珍しい。
 なかでもとりわけ、いつもよりワイルド&セクハラ大王な藤原釜足、年長者キャラで味&哀愁担当の御橋公、この、いつ、どんな映画でも素晴らしい二人が、やはり、いい。御橋公、いつ見てもいいんだよなあ。その穏やかな顔、台詞回し、絶品だあな。
 この映画、名脇役・御橋公が、いつもより500パーセント増量で、出番が多い。それだけで、とても幸せ(笑)。
 話は、こうだ。
<以下、ネタバレあり>
 
 ある地方都市で興行中のサーカス団(当時は曲馬団とも言う)。
 団長・丸山定夫の厳しさ、待遇の悪さに、団員たちが切れて、花形スタアの空中ブランコ、楽団、を含む男性団員全員は、ストライキ。
 旅館にこもって、サーカスには出勤拒否。
 残る女子団員だけでは、どうもサーカスの醍醐味が出ない。サーカスならではの大技がなくなったのだから。
 ということで、同じ町にたまたま流れてきていた、ドサ回りのジンタ(楽隊)5人組み。仕事にあぶれて、旅館にくすぶっている折、日銭を稼げれば、ということで、臨時に雇われる。
 言ってみれば、いつも成瀬映画を彩るお気に入りのチンドン屋、これを主人公にしてみようという、いかにもの成瀬趣味。 
 ここで、この五人組が、曲馬団の苦衷を救って大活躍、ならばアメリカ映画の単純美なのだが、そうは問屋がおろさない。
 肝心の楽団としてはまあまあでも、飛び入りの素人サーカス芸?のことごとくが、しまらない。ことに、大川平八郎思い入れの、ヴァイオリンのクラシック演奏は、観客から総ブーイング。あまりにも無残でどんよりした展開。
  小津安二郎どうよう、先進エンターティンメントたるハリウッド映画を参照しつつ、日本的情緒でコーティングしたい成瀬の、やや空回りな思い。
 こういうことを(特に成瀬に対して)言うのは蛇足であり、ややためらわれるのだが、ここでのあからさま、かつ凡庸な、まるで山田洋次の映画のような、クラシック=高級文化、その対比として、小屋掛けサーカスを娯楽とする庶民の無知、という、わかりやすい三流の階層構造が、かえって成瀬の似非インテリ性を、はしなくも露呈している、というような、モンキリなたわごとは、ぼくは、成瀬に対しては、言いたくないのだが(笑)。なに言ってんだ、オレ(笑)。
 当ブログがかつて指摘したように、

 つまり、成瀬は悲劇を描きたくない、さりとてまったくの喜劇ともしたくない、こんな映画作家はやはり珍しい、その不思議な成瀬バランスが、おそらく、ある種の観客たちに混乱をもたらすのだ。
 そういう人たちは「しょせん結果は悲劇なんでしょ、なのに、なんなの、このほのぼのした雰囲気は?」と。つまり、泣かせ、なのか、笑わせ、なのか、どっちかにはっきりしてくれい派の人たちは、泣かせたくないのよ笑わせたいのよでも話の基本は悲劇なんだよねー、の成瀬映画に混乱して、その結果、駄作だ、戦中戦後の一時期の成瀬はスランプだった、ということになるのだと思う。
 悲劇にしては楽しい楽しい幸福感。喜劇としてはしゃれにならないストーリィ・ライン。
           (★成瀬る2 はげギャグと心中悲恋の同居★)

 そういった特殊な成瀬趣味、あるいはそれは成瀬の元同僚・小津や、その出身である戦前松竹映画、そして日本映画全体にもいえることかもしれないが、成瀬にはより濃厚に感じられるものだ。
 そのバランスを、絶妙な成瀬バランスを、いつもより失しているように感じられるのが、本作か。
 なお、いつもの成瀬に比べて、本作が、やや失速している理由は、たぶん次のとおり。

 つまり、強引にいってしまうと、成瀬が親和性ユーモアを安心して(?)披露できるのは、女性メインの女系的家族の中だけ? 女性主導の世界でのみ、くつろげるのが、成瀬ユーモアか。
           (上記「成瀬る2 はげギャグと心中悲恋の同居」)
 う~ん、ここでも成瀬は男同士の争いを回避しているなあ。よっぽど男同士の闘争が嫌いな成瀬なのである。『稲妻』の高峰秀子の兄は、男たちが立ち回りの喧嘩をすると、遠巻きにしてビビっているだけ。その喧嘩の描写も、成瀬演出は驚くくらいシマラナイのだ。
 『あらくれ』の高峰秀子と三浦光子の文字通りのキャットファイト、『ひき逃げ』の高峰秀子と司葉子の神経戦、『妻』の高峰三枝子と丹阿見谷津子の言葉の応酬、そういう女と女の争いは喜んで(?)描くのに。とことん女の子(笑)なミッキーなのである。
           (★成瀬る3 二人の娘、成瀬の女性性★)
 つまり、セクハラ大王釜足を含む、男五人組が主人公、家父長制濃厚な暴君・丸山定夫と、むくつけき男ども団員との、労働争議の荒々しさが、本作の話の主題。
 こんな男同士の争いを半ばテーマにしている、マッチョな(笑)男どもばかりの登場人物の映画で、成瀬がその資質をトコトン発揮できるとは到底思われない(笑)。成瀬の弟子である山本薩夫ならいざ知らず(笑)成瀬が<労働争議>映画だなんて(笑)。
 そもそも、思わず成瀬、キ、キミってやつは(笑)と、爆笑したくなるのは、<労働争議>を描きながら、団員たちが何が不満なのか、何の要求をしているのか、そして団長はなぜ、要求を拒むのか、映画は一切明らかにしていない点だ(笑)。
 まるで、世の労働争議、労働者側が何が不満か、経営者側がなぜ労働者の要求を拒むのか、そんなことをいちいちせりふで説明することほど凡庸なことはない、と成瀬は嗤っているのだろう。
 そんな、つまらない、紋切のせりふを削りに削って、なんと労働争議を扱いながら、その中身を少しでも説明するせりふが一切ないという(笑)。
 やはり成瀬は、トコトン争いを回避するのですね。
 そして成瀬は、やはりこちらに力を入れたい。女優陣。
 団長の娘たち。姉が成瀬映画のアンパンマンこと堤真佐子、妹が梅園龍子、この時期のお気に入りたち。愛らしい。
 セクハラ大王釜足にまとわりつく清川虹子、これはちゃんと美人女優の撮り方をされていて、成瀬組の愛情が感じられる。
 女優がらみの話は、本当に楽しい成瀬なのだ。

サーカス五人組(1935) Five Men in the Circus 1/7 

 なお、このネット映像はスペックがあまりに低い。成瀬組の映像美を堪能するには、残り一回のフィルムセンター上映を強くオススメする。
★日本映画データベース/サーカス五人組★

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by mukashinoeiga | 2013-11-03 10:59 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(4)

成瀬巳喜男「なつかしの顔」

 京橋にて。「(再映)よみがえる日本映画~映画保存のための特別事業費による」特集。41年、東宝京都。
 たった34分の快作短編。
 後年は、脚本は専門家に任せることの多かった成瀬(でも相当手を入れた添削をしたらしい)が、自らのオリジナル脚本を監督した。
 で、短編ということは、ワン・アィディア・ストーリーにならざるを得ない。
 あまり枝葉は広げられないわけで、そうなると、成瀬の<手>が、透けて見えるのではないか。

 お話はこうだ。
 ある田舎町のある一家。母(馬野都留子)、長男とその嫁(花井蘭子)、小学生の二男(小高たかし)、長男夫婦には、赤ん坊がある。
 長男は、いま戦地にいる。銃後を守って、母と嫁が畑を耕す。
 近在の町に住む伯父さんが、一報をもたらす。きのう、町の映画館に行ったら、戦地ニュース映画に、一家の長男が写っていると言う。一家で、今夜にも、見に行ったらいい、と勧める。
 ここで、一家がそろって、映画を見に行ったら、めでたしめでたし、それで終わってしまう、いかにも曲がない、と成瀬は、考えるだろう。
 いかに、この一家に、映画を見せないか、成瀬はそう考える。
 そう、この映画は、ある一家にいかに映画を見せないか、映画を忌避させるかを描いた映画なのだ!
 まず、小学生の二男が足に怪我、町に行けない。この子を看病するために、母と嫁も同時に家を留守に出来ない。
 で、まず、母が町に映画を見に行く。バス代を節約して、歩く。知り合いの馬車に乗せてもらう。木造のしもた屋の雑貨屋で、店先の飛行機おもちゃに眼をやる。二男へのお土産にと考えるが、値段を聞いてやめる。映画館に入り、いくつかの短編ニュース映画が何本も何本も上映される。期待感で、母は、息子の映像を見るはるか前から、涙ぐみ、荷物から涙をぬぐう手ぬぐいを取り出そうと、うつむく。
 結果的に、このうつむいた瞬間、母は息子の写ったショットを、見逃してしまう。
 母は、息子が写っていると言う映画を、遠い町にわざわざ見に行って、画面から目をそらした瞬間に、見逃してしまう。果たして彼女は、この映画を見たことになるのか。
 翌日は、嫁の花井蘭子が映画を町に見に行く。母が見たおもちゃ屋も見る。映画館の前に行く。迷った末、彼女は映画館にすら、入らない。結局、義理の弟のために、飛行機のおもちゃを、買って帰る。
 母も義理の姉も、小高たかしには、「映画見たよ。兄さん、写ってたよ」と、嘘をつく。
 嫁が映画をスルーした理由は、義弟に対して語られるが、まあ、いいわけみたいなものだ。その裏に、幼い弟に理解しがたい<女の情念>があることを、かろうじて示唆することで、成瀬もスルーしてしまう。察してくれよ、の<サッスペンス>こそが、成瀬で。(子供にはワカラナイだろうから、テキトーな言い訳を語るのだが、おそらくダブル・ミーニングで、緊張した戦時下の言論統制の中で、本音を言っちゃあ、官憲に睨まれるよ、という部分もあったのかもしれない)

 ショットを見逃した母と、
 映画そのものをスルーした嫁。
 すぐれて、映画(観客論)そのものに言及した映画ではないか(バカ)。
 そもそも成瀬映画の登場人物が映画を見に行くと、観客は不意打ちに会う。「おかあさん」でのいきなりのエンドマーク、「あらくれ」でのフィルム・トラブル、映画館でなく家庭での8ミリ上映だが「娘・妻・母」での、素朴なフィルム編集の魔術で露呈する、ハラセツと仲代の恋模様。
 キメのショットを見逃したり、スルーしたりの、映画評論家の、あやふやな感想文に怒りを感じた職業映画作家が、怒りの表明か。いやいや、そんなセコいことではあるまい。いやいやいや、あんがい、セコいことなのかもしれない(笑)。<ついに映画を見ない>映画の観客に対しての?

 そして、最後には、あっけなく、一家は映画を見ることになるだろう。
 村の青年が、誉れの出征、その様子が一瞬とはいえニュース映画に写っている、これこそ村民こぞって見るべきではないか、ということで、町の映画館と交渉、村にフィルムを借りてきて、上映会、というところで、期待に満ちた描写で、エンドマーク。
 言わずもがなのことだが、プリントを貸した出張上映も、配給会社には内緒の映画館のアルバイトだろうが、当時としては。いや、配給会社の地方周り営業に何がしかの接待すれば、オーケーだろう。
 ほんの数十年前ですら、地方回りの営業が、当時は映画館から現金で貰ったフィルム料金を、旅先で「紛失」すると、次の営業先の館主さんたちが、よってたかって「寄付」したという類のエピソードは、映画全盛期には、数限りなくある世界だからのう。
 しかし、見方によっては、映画を見ることの期待に満ちて終わるということは、映画のなかでは、ついに一家は、いまだ映画を見ていないということではないか。
 映画から遠ざけられた映画の登場人物たち。いやー、深い(笑)。いや、そんなおバカな見方をしなくても、いつもの成瀬映画、お気楽に楽しいんだけれども。
 しかしなかなか可愛くて好演の花井蘭子、以後の成瀬映画に出ている記憶がないんだけど、なぜなんだ、惜しいぞ。
 戦前戦後を通して活躍する脇役女優・馬野都留子。クレジットではよく見るが、顔と名前が一致していなかった。やっと、本作で確認。やはり、よく見ていた顔でした。
●追記●やはり夫の出征姿を確認しない「理由の説明」は、とってつけたようで、ちと、苦しい。<成瀬巳喜男映画の正体>で書いたように、成瀬は<男同士の暴力は徹底的に忌避する>から、そのヒロインも、母の証言によれば戦闘中の夫(実際は母は息子のショットを見ていないので、でたらめ)ゆえ、そういう夫の姿は見たくないのだ、という成瀬ヒロイン・スピリット?をつらぬいたのだろうか。

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by mukashinoeiga | 2011-10-23 00:44 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る

  日本映画黄金期のONコンビ、小津に続いて、成瀬を妄想する 
                        BY  ナルセスト・・・・昔の映画


 1 成瀬マジック
    『おかあさん』の冷徹な?幸せ家族計画
 2 はげギャグと心中悲恋の同居
    巳喜男と行く路~『君と行く路』    
 3 二人の娘、成瀬の女性性
    戦う女、戦わない男~『女の座』『コタンの口笛』  
 4 成瀬は対立をいかに回避するのか
    対立を無化する作法~『三十三間堂通し矢物語』『歌行燈』『お国と五平』
 5 山の音とは雪崩のことか 
    ヒッチコック ON 成瀬~『山の音』『雪崩』
 6 成瀬における交通事故
    女と男の地政学 ~『限りなき鋪道』『乱れ雲』
 7 非・成瀬的?な傑作『鰯雲』
    こんなにも多数の登場人物をさくさく捌く成瀬
 8 『娘・妻・母』の非・松竹メロ性
    成瀬と小津の違いが鮮明に
 9 『夫婦』で、誤解したこと

 10~  近日公開予定
e0178641_21453162.jpg

◎追記◎誰が作ったのか、なかなかグッド。
★Au gre du courant : le cinema de Naruse 成瀬 巳喜男★
 Au gre du courantは、成瀬の代表作「流れる」のフランス語タイトル、とのこと。

●近日公開予定●
黒い沢ほどよく明か黒沢明映画の正体
川島あり川島雄三映画の正体
おゲイさん乾杯木下恵介映画の正体
愛と清順の駄目出し鈴木清順映画の正体
彼と彼女と取りマキ~ノたちマキノ雅弘映画の正体
大魔剣三隅研次映画の正体
危険な英夫鈴木英夫映画の正体
ますますムラムラの悶獣増村保造映画の正体
妄想の器橋本忍映画の正体
Vシネの花道90年代最強伝説三池崇史映画の正体
しぃみず学園清水宏映画の正体
溝口賛歌(けんじぃ)溝口健二映画の正体



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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:40 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(2)

成瀬る1 成瀬マジック「おかあさん」

 成瀬生誕100年の年に開催された京橋フィルムセンターの成瀬特集で、成瀬映画全作品中のマイベストワン『おかあさん』(1952・脚本水木洋子)を再見した。何回見ても、相変わらずの快作。うれしい映画である。
e0178641_2073997.jpg しかし、見終わった後、ややボーゼンとなる。何回目かではじめて気づいたオドロクべき事実(?)。いや、普通の人は一回見ただけで分かるのかもしれないけど、ぼくは鈍だから今回はじめて気づきましたね。何たる成瀬マジック。
『おかあさん』は、田中絹代の一家が、通い職人・加東大介の手を借りて、小さなクリーニング店をつつましく守っていく話だ。その映画の終盤「最後の一日」の描写なのだが。
まとめると、こういうことになる。

 (たぶん)妹娘が伯父さんにもらわれていく。そのあと、
 (たぶん午前中)叔母さん(中北千枝子)が姉娘・香川京子を美容師試験の練習で花嫁姿に変身させる(このシーンの香川京子が異常なまでにかわいい)。ボーイフレンド岡田英次の母親から「(お嫁にいくのなら)うちにもらいたいんですけど」とプロポーズされる。にっこり、香川京子。しみじみ、母・田中絹代。ここではすでに、もらいっ子された妹娘のことはまるきり忘れ去られているような幸福感が一家に漂う。
 そして、午後から夜にかけて、新しい小僧さんがやってきて、加東大介が去っていく。この小僧さんをそれなりに教育しなければならないはずの加東が、数時間ガイダンスして、満足な実技指導もせずに退職していくのは、あまりにあんまりじゃないのか。
 これ全部、一日に起きる。
 つまり、この日は、この一家、五人「家族」から一挙に二人が去り、もうひとりも将来結婚のため家から去ることが確定し、別の一人が一家に加わるという、この一家としては一大イヴェント連発の日なのだ。
 これ、こんななりゆきが一挙に押し寄せるのは、なんか異常じゃない、と気づいたのだ。いや、現実に立て続けに一日に起こる色々はリアリティとしてありうるとしても、リアリズムとしてはどうなんだ。この一日を脚本にしたら、普通はリアリズムじゃないよ、と批判されるんじゃないのか。
 問題は(あるいは、まったく問題にならないのは)この濃い展開が、成瀬マジックで、まったく気にならない点だ。よくよく考えれば不自然な(過剰な)展開が、実にさくさくするすると、流れていく。一日に大転回がいくつも、しかも別々のエピソードとしてあるのに、それを感じさせずに、するすると流れていく。
 感情の揺らぎすら感じさせずに。
 「流れる」成瀬マジック。う~む、おそるべし。
 一般には淡々とした淡彩のごとき映画というのが、成瀬映画のイメージだが、このエピソードつるべ打ちは、まるでジェットコースター映画のそれではないか。しかし、成瀬はジェットコースター感を一切感じさせず、さくさく「流れる」ように流していく。
 その夜の終わり、香川京子が「おかあさん、幸せですか?」のナレーション。おかあさんを案じる優しい娘なのだが、その朝うちを去っていた妹への言及はない。おかあさんも、ふと、他家に行った娘を思う気配さえない。普通の凡庸な映画だったら、一日の終わりに、あーせわしない一日だったねー、と凡庸に感慨にふけるものじゃないですか。
 布団の上で甥っ子と相撲して、何か、満ち足りた家庭の雰囲気で「終」。いやそれだけではなく、ヴェテラン加東が去って、今後は、自分と娘・香川と素人の小僧さんだけで店を切り回していくことの不安もなく、満ち足りた家庭の雰囲気で「終」。
 これ、リアリズム、ちゃいますやろ。しかし、そういう「不自然さ」を観客には、ちらりとも感じさせない、成瀬独特の流れるような演出・編集テクニック。
 そういう「不自然さ」にいちいちこだわっていたら、上映時間100分以下には収まらない。さくさく流れない。ただの、つまらない、凡庸な、「リアル」な、二流映画にしかならない。幸福感あふれるエンドにはならない。
 ここら辺が成瀬と凡庸な監督を分け隔てる点か。
 妹娘はおじさんの家へもらわれて、姉娘はパン屋に嫁に行きそうだ。では、クリーニング屋を継ぐものは。
 多分、田中絹代は、甥っ子を考えているのだ。力仕事の必要なクリーニング商売には、やはり男手だ、と(しかし、それならなおさら、田中、香川の母娘、年端の行かない小僧さん、幼い甥っ子、の四人きりの結末の幸福感は、やはりおかしいだろう。偽りのハッピーエンド)。
 それぞれの子供たちの将来を、適材適所を、おかあさんなりに考えているのだ。
 甥っ子の母は美容師の中北だから、美容師を男は継げない、とおかあさんは考えている(当時の美容師は女性主流だった)。だから、甥っ子と相撲をとる。どうせ嫁に行く娘なら、早々と自分の家から出て行くのには、こだわらない。ちょっと妹娘に冷たいふうにしか見えないのもそういう理由もあるのだ。それが、おかあさんの、幸せ家族計画なのだ。
 泥だらけに汚れた甥っ子の服を、換えの服がないという理由で妹娘のスカートに着替えさせる衣装交換こそが、妹娘と甥っ子の交換に先立って演じられている。かしこそうな妹娘もそれを半ばは察して、養子に行く。
 成瀬映画および中北千枝子が例外的に向上心に満ちた『おかあさん』の、それが幸福感ある結末の理由だろうか。そういう現実主義の女性性の成瀬に対して、少年っぽい理想主義や感傷に満ちた、木下恵介『夕やけ雲』の、やはり妹娘がおじさんにもらわれていくシーンも、嫌いではないのだけれども。

e0178641_2081849.jpg 追記。角隠しの白無垢、花嫁衣裳に身を包んだ香川京子が、異常なまでにかわいいのは、むろん花の盛りの彼女のかわいらしさを映像に記録したことにあるのだが、同時に、和装の花嫁衣裳は、映画でも現実でも、きわめて儀式性が高く、それを身にまとった女性は紋切の極致といっていいほど無表情になるのが普通である。角隠し、と言うがごとく花嫁は感情の角を隠さなければならないお約束である。おそらく神前の巫女と同様の静謐な様式性を帯びているのだろう。というお約束の白無垢を着て、しかしこの映画ではまだ幼い彼女が叔母の試験の実験台、という、いわばお遊びの気楽さで、花嫁衣裳の規範を逸脱した、その愛らしさ、ということだろう。成瀬、意外に<萌え>を知ってるな(笑)。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:37 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(4)

成瀬る2   はげギャグと心中悲恋の同居

 前から思っているのだが、成瀬のあだ名がヤルセナキオ、というのが納得いかない。
いや、あだ名としてはかなりの傑作とは思うし、成瀬の一面を突いてもいるのだが、あれだけ面白くユーモア満載の映画を作る人(でも、ある)を、何で暗さまっしぐらで呼ぶんだという。もっぱらDVDやTVモニターで成瀬を見ている人たちは、じじつ成瀬のいくつかの映画が並木座や文芸坐で上映された際、爆笑に次ぐ爆笑であることを、実感としてわからないかもしれないが・・・・・。
 で、ぼくは、個人的に、ミッキーナルセと呼んでいる・・・・。・・・・。
まあ、ヤルセナキオに比べるべくもないネーミングだけれど。
 あまり知られてはいない『君と行く路』(1936・脚色成瀬巳喜男)。
 京橋フィルムセンターで見たあとで、知り合いの女性が年配男性客に声をかけられた。「いやー、つまらん。駄作だね。脚本もひどいし」
 知り合いは「そーですよねー」と、相槌。その男性が帰った後、ぼくが「いや、でも、ぼくは、結構、面白かった」というと、彼女、「そーですよねー」。
 どっちなんだ。
 いや、でも、これ、結構、重要かも。
 話は悲劇的だ。なんせ、男女の両主人公が自殺してしまうのだから。しかし、そういう悲恋ものなのに、映画はいつものように、楽しい成瀬映画だ。にこにこのユーモア。対立する世代の中にも、親和性あふれる幸福感。
 つまり、成瀬は悲劇を描きたくない、さりとてまったくの喜劇ともしたくない、こんな映画作家はやはり珍しい、その不思議な成瀬バランスが、おそらく、ある種の観客たちに混乱をもたらすのだ。
 そういう人たちは「しょせん結果は悲劇なんでしょ、なのに、なんなの、このほのぼのした雰囲気は?」と。つまり、泣かせ、なのか、笑わせ、なのか、どっちかにはっきりしてくれい派の人たちは、泣かせたくないのよ笑わせたいのよでも話の基本は悲劇なんだよねー、の成瀬映画に混乱して、その結果、駄作だ、戦中戦後の一時期の成瀬はスランプだった、ということになるのだと思う。
 悲劇にしては楽しい楽しい幸福感。喜劇としてはしゃれにならないストーリィ・ライン。
 藤原釜足のはげギャグと恋人たちの心中立てが同居する。自分の無知蒙昧がいかに息子とその恋人を死に追いやっているか、そよとも気づかない母・清川玉枝の、愛らしさ。
 いつもいつも、愚鈍以外の何者でもない友人・堤真佐子。成瀬映画が愛するアンパンマン堤真佐子(その戦後進化系が中北千枝子)の、始末に困る微妙な半端感こそ、成瀬映画の正体解明に至る道ではないかと(ほんとかい)。あらゆる悲劇を、身に付いた愚鈍さで回避してしまう堤真佐子。
 そして、しばしば和のティストで語られる成瀬の、西洋感覚、アメリカ感。大川平八郎が車を転がす海沿いは、まんまアメリカ映画ではないか。洋館・テニス・釜足(ルビッチ映画の常連、E・E・ホートンの役回りなのは明らか)と兄弟の交流、などは言わずもがな。 小津安二郎や清水宏らと同様、あくまでも和魂洋才、この辺との、心中ものとのすわり心地の悪さも、スランプ呼ばわりの元か。
 傑作ではないにしろ、かなり滑らかな「流れる」ような快作なのに。ミッキーナルセは、やはり面白い。

 そういう成瀬でも、あんまりユーモアの感じられない映画もある。ぼくの感覚で言えば、たとえば『桃中軒雲右衛門』『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』。戦後作品では『めし』『山の音』『浮雲』『杏っ子』。
 おお、戦前作では見事に芸道ものばかりではないですか。芸道精進、という目的のある男たちを、どちらかというとメインにした、成瀬にしては珍しい男性主人公路線。家庭的な雰囲気が感じられない作品群だともいえよう。『浮雲』にしても、非・家庭的、どちらかというとヒロインは男に引きずられているストーリー(だと思う)。
 『杏っ子』こそ家庭ドラマだが、この視点で考えてみれば、ほかの成瀬ホームドラマに比べて、「陰気な夫と、陰険な父に挟まれて、悩んでる(だけの)女」という、男主導ドラマか。その男たちも、一応目的があって(作家として)芸道モノと言えなくもないし、家庭といっても雰囲気は険悪だ。
 つまり、強引にいってしまうと、成瀬が親和性ユーモアを安心して(?)披露できるのは、女性メインの女系的家族の中だけ? 女性主導の世界でのみ、くつろげるのが、成瀬ユーモアか。
 そうすると『はたらく一家』で、貧乏な家庭の男兄弟たちが金もないのにカフェに入り浸って、無駄遣いするのも分かるようになる。頑固親父と男兄弟のすさんだ雰囲気を抜け出して、気楽に冗談が言える、カフェの女性的雰囲気を求めたのだろう。
 親父ギャグの小津に比べれば、その女性性はあきらか。しかし、それなら、『君と行く路』が、なぜその親和性のままで終わらなかったのか。アメリカ映画なら、車を駆って、自殺するのではなく、彼女をさらいに行くだろう。そういう<男性>的な、直線的・強引・力ずくの解決法を好まなかったということだろうか。つまり、長所も短所も含めて、成瀬は女性側に立っているということか。
 あるいは日本映画の観客が喜劇より悲劇を好んでいたせいか。気持ちのいい映画を作っても「ソーダ水みたいな映画」(高峰秀子の『秀子の車掌さん』評)の一言で終わってしまうからか。
ハッピーは好きだけど、ハッピーエンドは好きじゃないのが、成瀬なのか。せっかくの道行きも悲劇に終わる『乱れる』など、アン・ハッピーエンドの数々。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:35 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る3   二人の娘、成瀬の女性性

 『女の座』(1962・脚本井出俊郎・松山善三)で、二人の娘(司葉子、星由里子)が、ともに関心を持つ男(夏木陽介)について、歩きながら語り合うシーンがある。
 その二人が歩く背後の塀に映画の宣伝ポスターが張ってある。
 千葉泰樹『二人の息子』。思わずにやにやしてしまう。
 宝田明と加山雄三が兄弟を演じる傑作であるが、『女の座』とプロデューサーも脚本家もおなじ、主要な人物が、踏切事故で死ぬのもおなじ。家族間でお金で争うのもおなじ。
 しかし、それ以上に、ああ、成瀬映画って「二人の息子」じゃなくて、「二人の娘」なんだなあ、という連想に行き着く。もちろん例外はあるが、成瀬映画では基本的に、二人の女がひとりの男を争う映画ではないか、と。
 『女の座』にしても、ともに夏木陽介を好きな「二人の娘」もそうだし、さらに一方的な草笛光子の思い込みなのだが、草笛と高峰秀子が宝田明を張り合い、草笛が高峰のほほを張り飛ばす。
 『妻として女として』では、二重の意味で高峰と淡島千景が男を張り合う。森雅之と、そして息子・大沢健三郎を。『妻よ薔薇のやうに』は、本当はメインタイトルが『二人妻』、これもひとりの男をやり取りする二人の妻の話が基本で。『くちづけ/女同士』も、一方的にだけど男を取り合う二人の女の話だから「女同士」というのは、なんか仲よさそうでヘンだ。『雪崩』も『まごころ』も『銀座化粧』も『めし』も『浮雲』も『ひき逃げ』も『夜の流れ』も『妻』も『山の音』も『あらくれ』も『放浪記』も『女の中にいる他人』も基本的に「二人の女がひとりの男を争う映画」なんだとおもう。
 成瀬映画ずいいちの二枚目・森雅之は女好きだから女に次々手を出すわけではないのだ。女のあいだに対立をもたらすためにモリマは存在している。モリマ・サッカーボール説、蹴られるために必要な存在。

 ここで少し話を変えて、成瀬が、その出身であるにもかかわらず、おそらくは、絶対になじめなかっただろう、戦前松竹メロドラマというのは、一言でまとめちゃうと、「色々な男がヒロインを狙ってくるけど、でも私は純情一筋よ」てことだと思う(複数の男が一人の女を争う、逆成瀬パターン)。清水宏『銀河』は、ヒロインが想う男すら、ヒロインのからだを狙ってくるという点で、典型にしてハイパー松竹メロだった。しかし成瀬映画は「色々な男がヒロインを狙ってくるけど」というパターンは好まない。
 「夫がいて、好きな男もいる」系の成瀬パターンでは、夫はたいてい死んでいて、未亡人である(『まごころ』『銀座化粧』『お国と五平』『おかあさん』『妻として女として』『乱れる』『乱れ雲』)し、あるいは一方の男が身を引くし(『君と行く路』『鶴八鶴次郎』)、結局は元サヤに納まったり(『鶴八鶴次郎』『舞姫』『めし』『妻の心』)、三国連太郎がおねえだったり?(『夫婦』)などなど。
 なにが言いたいのかというと、ひとつは成瀬映画は「女が男を選ぶ」のであり、男はその女の選択に従うほかはないということである。男をめぐる女の争いを描くという点で、成瀬映画は常に女性の側に立っているといえよう。
 もうひとつ成瀬は、女同士の争いは、ビンタになったりキャットファイトになったりと、かなり派手なのだが(女性の複数性)、男同士の争いは極力回避するということだ。
 夫はすでに亡かったり、一方または両方が身を引いたり、男同士の女をめぐる争いというのが、なぜか、顕在化しないようしないように、回避している。アンチ戦前松竹メロ。 旧松竹三羽烏の中で、上原謙、佐野周二と違って、なぜか佐分利信が成瀬映画にお呼びでないのもはっきり分かる。佐分利は「結婚は生活の方便だから」と「ぼくの妻なんてものはこの程度だろう」という理由で、複数の女の中から一人の女を選ぶ男、そういう男目線のキャラだから(いわゆる戦前松竹メロドラマのなかで、上原・佐野と違い、佐分利はそういう役をいくつか演じたように思う)。上原や佐野は、傲慢にも女を選ぶ、というキャラでは比較的なかったように思える。たとえば清水宏『歌女覚え書』の上原のように、こうと決めたらその人一筋という役に、佐分利は似合わない。
 成瀬映画は、親和性あふれるユーモアがある種の女性性の上に成り立つと同時に、基本的に女たちが男を争う、女性優位の世界なのだ。

 『コタンの口笛』という、成瀬にしてはいろいろな意味で異色な映画がある(1959・原作石森延男・脚色橋本忍)。橋本忍映画としては、生ぬるい部類だろうが、成瀬としては例外といっていいほどドラマチックで社会派。らしくない成瀬映画。
 基本は『おかあさん』『秋立ちぬ』と同じ、子供という力のない立場で、自分にはどうしようもない状態で、家族や周囲の親しい人たちが、自分の前からどんどん消えていく、それを淡々と描いていく、まあいつもの成瀬調と思わせて。
 この映画がほかの成瀬映画と違うのは、アイヌ人と和人という、民族間対立の問題が導入されていることで、このことにより、子供たちがつらい目にあうのは「差別」によるものであり、だから、子供たちはいつもの成瀬映画のように運命を従順には受け入れない。「差別」に、立ち向かおうとする。そこらへんはいつもの成瀬映画との違いで、調子の狂うところだろう。こういう社会派的「テーマ主義」にはまったくなじまない成瀬なのだ。
 ただし、子供たちは最後には、同じアイヌ人の伯父・山茶花究に食い物にされるのだから(冷酷な山茶花が例によってグッド)それまでの民族間差別云々が無化されてしまうのが面白い。
 森雅之はじめアイヌの大人の男たちは、差別されることに慣れすぎて、徹底して卑屈きわまる。こういうところが成瀬ごのみなのかな。
 ちょっと笑えるのは。そして、これこそいかにも成瀬なのだが。
 アイヌ人と和人の女生徒同士は、ビンタしたり取っ組み合ったりのキャットファイトが、具体的に描かれる。対して、同様の男子生徒同士は、成瀬映画としては珍しく二度も争う。特に二度目は夜の校庭で決闘をして、一方に重傷を負わせる。ところが、画面上では、描写を省略して、なんと男の子たちが相手に指一本触れるシーンすらないのだ。女の子たちの喧嘩はちゃんと描くのに。
この映画の男の子は、(画面上)相手に接触することなしに、けんかで重傷を負わせてしまうのである!
 う~ん、ここでも成瀬は男同士の争いを回避しているなあ。よっぽど男同士の闘争が嫌いな成瀬なのである。『稲妻』の高峰秀子の兄は、男たちが立ち回りの喧嘩をすると、遠巻きにしてビビっているだけ。その喧嘩の描写も、成瀬演出は驚くくらいシマラナイのだ。
 『あらくれ』の高峰秀子と三浦光子の文字通りのキャットファイト、『ひき逃げ』の高峰秀子と司葉子の神経戦、『妻』の高峰三枝子と丹阿見谷津子の言葉の応酬、そういう女と女の争いは喜んで(?)描くのに。とことん女の子(笑)なミッキーなのである。 
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:34 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)

成瀬る4  成瀬は対立をいかに回避するのか

 成瀬最初の時代劇は『三十三間堂通し矢物語』(1945・脚本小国英雄)である。
 これが思ったより面白い。さくさくと映画が流れていくのはいつもの成瀬映画。流麗なる成瀬テクニック。
 しかし、ストーリーがなんかヘン。
 お話は、こういうことだ。三十三間堂にて、弓矢の的当て連続記録を争う。
 まず、Aが記録を作る。次にその記録をBが破る。すると、なぜか、記録を破られたことに恥辱を感じたAが自死。ここがまず現代の感覚では分からない。「記録は破られるためにある」のがぼくたちの感覚だから。A氏も改めてチャレンジすればよいと思うのだ。
あるいは、この武士たちの試合はひとり一度限りなのか。それなら納得がいく。
 死んだ父に代わり、Aジュニアが家名をかけて、Bの記録を破るべく猛特訓、も、イマイチ、頼りない。ここに、Bその人(主人公長谷川一夫)が身分を隠してAジュニアのコーチとなり、記録更新に協力加担する。
 なぜ、自分の記録を破ろうとする若者を積極的に指導援助するのか。そこにどんな必然性がある。映画は、そこをまるきり、語らない。語らないが、Aジュニアを応援する。なぜなのか明確な論理は語らない。その父親を死に追いやった罪悪感? 記録は進歩するべきだ、という向上心? 広義の父性? 考えられるのは、主人公の弟が家名大事、家名のためならどんなことでもする嫌な奴に描かれていて、主人公はそれが煩い。その、家名大事に反発しているのかもしれない。
 もちろん、心情としてはなんとなく理解できる。強くて心優しいヒーローの高潔な行為だから、自分の名誉など省みない長谷川の態度に観客は涙するわけだ。
 理由は明示されず、暗黙の了解のもと(察してくれよということだろう)、映画はさくさくと進んでいく。んー、なぜなんだ。西洋的(ということは近現代的)闘争観からはまったく理解できないなあ、と考えていると、ふいと思いつく、ああ、これってあれと同じじゃない『歌行燈』。
 と思いいたると、いや「うたアン」どころじゃないよ。次から次へと、連想されていく。

          Aが死ぬ  Bが直接間接に原因  Aの身辺者CにBは好意・助力
『三十三間堂』 父が自死  長谷川が記録を破る  C(Aの息子)に弓術を指導
『歌行燈』    父が自死  花柳が芸を見下す   C(Aの娘)に芸を伝授 
『お国と五平』  夫が斬殺  山村總が斬った    C(Aの妻)に懸想しストーカー
『乱れ雲』    夫が事故  加山雄三が加害者   C(Aの妻)に道ならぬ恋 

 これらの映画は、劇的な自殺・事件が起こる、日常派・成瀬にしては、非・日常的な映画ばっかり。ドラマティック成瀬。『乱れ雲』をのぞいて、成瀬としては珍しい時代劇系。それが、結構パターン化できるという(ただしこの中では『お国と五平』は、ちと意味合いが違うが)。
 それぞれ順に、脚本小国英雄、原作泉鏡花・脚色久保田万太郎、原作谷崎潤一郎・脚色八住利雄、脚本山田信夫、とまったく違うのに、話が似ている。成瀬は自分からあんまり企画を出すほうではなく、お仕着せの仕事ばかりこなしてきた、ということになっているが、ストーリーが同じになってしまうのは何故なのか。
 しかし『歌行燈』で美女山田五十鈴に助力する花柳正太郎に何の疑問も持たず、『三十三間堂』で長谷川が青年に助力するのに疑問を感じるのも、我れながらわかりやすい性質だ。

 さらに、その、ヴァリエーション、

                  それなのに      奇妙な?(親和的)行動
『乱れる』      夫戦死   妻=高峰秀子   夫の弟・加山と恋情
『妻として女として』夫浮気   妻と愛人       妻と愛人共同事業・子育て
『妻よ薔薇のやうに』夫家出   愛人=英百合子 娘・千葉早智子へ送金
『山の音』      夫浮気   妻=原節子     義父と共鳴
『ひき逃げ』     子が事故  母=高峰秀子   犯人宅に住込み・子守

 やっぱり、苦しいか。無理やりパターンを見つけようとする、浅ましさを、感じますね、我れながら(『ひき逃げ』だけ少し意味合いが違う)。
 しかし。ドラマティックな事故・事件の「加害者」たる男たちの奇妙な行動。ドメスティックなトラブルの際の、「被害者」たる女性の「奇妙」な行動。これだけ重なると、ちょっと面白い。企業監督としてお仕着せ企画を映画化していたというイメージの成瀬に、意外なパターンが。しかも、それもかなり特殊なパターンとはいえまいか。

 なお、成瀬のもうひとつの時代劇『お国と五平』(1952)も、あまり評価は高くないようだが、実に面白い。夫の敵討ちの旅に出た未亡人・小暮実千代が、実はそのカタキにずうっと付け狙われていた、ストーカーされていたという、あっと驚く展開もすごいが、そのストーカー山村總が、ストーカーらしく常人には計り知れない奇妙奇天烈な心情論理でもって、自分勝手な自己正当化。その「弱者ゆえの攻撃性」は、山村總の巧演もあって、思わず爆笑してしまう。加害者の側から争いを無化してしまうという意外性。成瀬ならではといっていいのか。普通はあだ討ち成就を期待される敵討ち物語のカタルシスを全く無視した、恐るべき傑作なのかもしれない。成瀬はいかなる手段を使っても争いを回避してみせるのだ。
 やってることは自分勝手の一語だが、山村總の愛らしさ(ホントに愛らしいのだ)は、絶妙におかしい。中村登『河口』、木村恵吾『風癲老人日記』も含めて、爆笑喜劇俳優山村總は、もっと評価されてもいいのでは。監督としても『沙羅の花の峠』で、恐れ多くもあの東山千栄子先生のバストをすっぽんぽんにして、そのロケットおっぱいをさらしちゃった罰当たり者なのだ。かの『東京物語』では自分の母親役だった、その二年後、東山千栄子を脱がせてしまうなんて、なに考えてるんだ、山村總。凄過ぎる。
 閑話休題。
 このストーカーぶりの奇妙な現代性は、製作当時より今のほうが正当に評価できるのではないか。何しろ当然のことながらストーカーという言葉もなかったのだから、この山村總の異様な執着妄執は、当時の観客には、理解の外だったろう。
 スランプだとか、駄作とか言われもする作品も、実際に見てみると、かなり面白いのが成瀬の凄いところ。そして、この、弱いがゆえの加害性、加害者なのに被害者まがい、が後出しじゃんけん的にいかにも成瀬らしい。コメディ好きが爆笑するところを、まじめな映画ファンは呆然として失笑、駄作呼ばわりも、わからないではないのだが。
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by mukashinoeiga | 2009-07-19 11:33 | 成瀬巳喜男映画の正体成瀬る | Trackback | Comments(0)