何をやっても安倍政権の支持率が下がらない理由って(笑)左翼こそ昭和の浪花節と化した事実を知れ(笑)
すさまじい安定感がグラフで明前(笑)。
小泉政権の乱高下もすさまじいが、それはともかく、この安定感は。
それにしても自民党政権も民主党政権も、発足直後のいわゆる御祝儀相場はなんとかならんもんか。初ガツオなどの初物志向の、日本人ならではの、感覚かもしれんが。なお毎日新聞作成のグラフですら民主党政権が青ざめている(笑)。しかも鳩山せまっ(笑)。
ビデオニュース・ドットコム2017年06月18日 (ブロゴスHPより)
濫用の危険性を孕んだ共謀罪法案を委員会採決を省略したまま強行採決したかと思えば、「存在が確認できない」として頑なに再調査を拒んでいた「総理のご意向」文書も、一転して「あった」へと素早い変わり身を見せたまま逃げ切りを図ろうとするなど、かなり強引な政権運営が続く安倍政権。ところがこの政権が、既に秘密保護法、安保法制、武器輸出三原則の緩和等々、政権がいくつ飛んでもおかしくないような国民の間に根強い反対がある難しい政策課題を次々とクリアし、危ういスキャンダルネタも難なく乗り越え、その支持率は常に50%前後の高値安定を続けている。
確かにライバル民進党の長期低迷という特殊事情もあろうが、なかなかそれだけでは説明がつかないほど、政権の支持基盤は盤石に見える。
政治とメディアの関係に詳しい社会学者で東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の西田亮介氏は、安倍政権の安定した支持率の背景には自民党の企業型広報戦略の成功と日本社会に横たわる世代間の認識ギャップの2つの側面が存在すると指摘する。
支持率の長期低落傾向に危機感を抱いた自民党は、1990年代末頃から企業型のマーケッティングやパブリック・リレーションズ(PR)のノウハウを取り入れた企業型広報戦略の導入を進め、2000年代に入ると、その対象をマスメディアやインターネット対策にまで拡大させてきた。
特にマスメディア対策は、個々の記者との長期の信頼関係をベースとする従来の「慣れ親しみ」戦略と訣別し、徐々に「対立とコントロール」を基軸とする新たな強面(こわもて)戦略へと移行してきた。その集大成が2012年の第二次安倍政権の発足とともに始まった、対決的なメディアとは対立し、すり寄ってくるメディアにはご褒美を与えるアメとムチのメディア対策だった。
マスメディアの影響力が相対的に低下する一方で、若年世代はネット、とりわけSNSから情報を得る機会が増えているが、自民党の企業型広報戦略はネット対策も網羅している。西田氏によると、自民党は「T2ルーム」と呼ばれる、ネット対策チームを党内に発足させ、ツイッターの監視や候補者のSNSアカウントの監視、2ちゃんねるの監視などを継続的に行うなどのネット対策も継続的に行っているという。
こうしたマスメディア・インターネット対策も含め、自民党の企業型広報戦略は、企業の広報担当者が聞けばごく当たり前のことばかりで、言うなれば企業広報の初歩中の初歩を実行しているに過ぎないものだという。しかし、ライバル政党がその「初歩中の初歩」さえできていない上に、マスメディアが「政治のメディア戦略」に対抗する「メディアの政治戦略」を持ち合わせていなかったために、これが予想以上の成果をあげている可能性が高いのだという。
また、安倍政権の安定した高支持率を支えるもう一つの要素として、西田氏は世代間の認識ギャップの存在を指摘する。
民放放送局(TBS系列JNN)による最新の世論調査では20代の若者の安倍政権の支持率は68%にも及んでいるそうだ。また、2016年の総選挙の際の朝日新聞の出口調査でも、若い世代ほど自民党の支持率が高いことが明らかになっている。これは、若年世代と年長世代の間で、政治や権力に期待するものが異なっていることを示している可能性が高い。
自身が34歳の西田氏は、若者ほど政権政党や保守政治に反発することをディフォルトと考えるのは「昭和的な発想」であり、今の若者はそのような昭和的な価値観に違和感を覚えている人が多いと指摘する。実際、「若者は反自民」に代表される昭和的な価値体系を支えてきた「経済成長」「終身雇用」「年功序列」などの経済・社会制度は既に社会から消滅している。にもかかわらず、年長世代から昭和的な経済・社会情勢や制度を前提とした価値規範を当たり前のように強いられることに多くの若者が困惑していると西田氏は言う。
思えば、かつて時の政権が安全保障や人権に関わる政策でこれまで以上に踏み込んだ施策や制度変更を実行しようとするたびに、強く反発してきたのは主に若者とマスメディアだった。若者とマスメディアの力で、与党の暴走が抑えられてきた面があったと言っても過言ではないだろう。しかし、マスメディアは新たな戦略を手にした政治に対抗できていないし、若者も経済や雇用政策などへの関心が、かつて重視してきた平和や人権といった理念よりも優先するようになっている。
そうなれば、確かにやり方には強引なところはあるし、格差の拡大も気にはなるが、それでも明確な経済政策を掲げ、ある程度好景気を維持してくれている安倍政権は概ね支持すべき政権となるのは当然のことかもしれない。少なくとも人権や安全保障政策では強い主張を持ちながら、経済政策に不安を抱える他の勢力よりも安倍政権の方がはるかにましということになるのは自然なことなのかもしれない。
しかし、これはまた、政治に対する従来のチェック機能が働かなくなっていることも意味している。少なくとも、安倍政権に不満を持つ人の割合がより多い年長世代が、頭ごなしの政権批判を繰り返すだけでは状況は変わりそうにない。(以上引用終わり。文字変色は引用者による)
【ダイジェスト】西田亮介氏:何をやっても安倍政権の支持率が下がらない理由
要するに学園シリーズを連発する朝日らマスゴミや民進党には戦術しかなくて、さらには信用もなくて、安部自民は戦略と一定程度の信用があるということでしょう。
自分たち左翼学者も含めて、そういう戦術だけで左翼的勝利を得てきたマスゴミや自称市民勢力の退潮ということでしょう。
昭和は遠くなりにけり。オールドメディアやオールド左翼は、もう存在感を失って、相変わらずのスキャンダル攻撃や、なんとなく反権力批判のみ。もはや開店休業状態。左翼こそ昭和の浪花節と化したことを知れ(笑)。
だから一見若者の風を装っているが、シールズなんチャラは、朝鮮演歌の引かれ者の小唄に過ぎない。時代遅れが、時代の先端だと勘違いしているというお粗末。単なる道化者。
以下、上記引用への突っ込み
民進党の長期低迷という特殊事情この事態を軽く見ていないか。それは明らかに左翼勢力の戦術的誤りだろう。
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授リベラルアーツ(笑)。寡聞にして、そんな学問はじめて聞いたぞ(笑)。最先端を装ってはいるが、中身は昭和クさい(笑)。
「慣れ親しみ」戦略と訣別し、徐々に「対立とコントロール」を基軸とする新たな強面(こわもて)戦略へと移行つまり自民は昭和的手法から決別した。朝日や左翼は昭和のまま。ここに両者の力量の差が出たという分析か。つまり中道左派の安倍政権は、生き残りのためにあえて左翼的戦略を採用したと。
「T2ルーム」この存在は初めて知ったが、ネーミングの由来がないのは不親切だ。
これが予想以上の成果をあげている可能性が高いのだという。とはいえ安倍自民の人気、レンホー民進の不人気を単なる戦略の違いとするのはどうなの。事態を左翼の皆さんは、まだまだ軽く見ていない?(笑)。
ちなみに今書いていて、ミンシンが民心にしか変換できない(笑)。民進がどうしても出てこない(笑)。デフォルトの自動変換も出来ない政党って(笑)。
学園シリーズを連発する朝日らマスゴミや民進党には戦術しかなくてもしそれが事実であっても犯罪ですらなく、しかもどうやら事実ですらないというお粗末。調査政党の共産(笑)の最近の沈黙から推して知るべし(笑)。
若者も経済や雇用政策などへの関心が、かつて重視してきた平和や人権といった理念よりも優先「かつて重視してきた平和や人権といった理念」が、度を超えた中韓への忖度ってえのがばれちゃった、というのも、大きいんじゃない(笑)。
少なくとも人権や安全保障政策では強い主張を持ちながら、経済政策に不安を抱える他の勢力よりも安倍政権の方がはるかにましえっえっえっ(笑)。少なくとも人権や安全保障政策では強い主張を持ちながらってナニこの捏造は(笑)。
反安倍勢力は安全保障政策では強い反対主張盛っている奴らなんじゃないの。ナニこのサンゴにKYと書くような捏造は。
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by mukashinoeiga | 2017-06-18 20:31 | うわごと | Comments(12)
そもそも論でいうと、中世ヨーロッパの大学や学問の歴史から説き起こさなくてはならなくなるのですが、そんな高尚な次元の話じゃなくて、「パンキョ―」と言って学生たちから蔑まれつづけて来た学科の担当者たちが「実学よりもオレたちのほうがエラいんだぞ」と言いたいために、無理矢理むかしの学問の歴史の中から言い換えのための単語を探して来たというだけのはなしで……
ああ一般教養科目のことなのね。ぼくがそれを受けていたころには、一般教養科目の一般とは何ぞやと、軽く悩みましたが(笑)。戦前は希少価値の大学生が、戦後は猫も杓子もとなり、エリートが「一般ピープル」になった象徴なのかな、と。
「一般」といいつつ自分の関心外の分野は、超うざかった(笑)。大学に入ったんだから、好きなことが高校より出来るだろうと思ったのに、そこへ立ちはだかったのが一般教養科目(笑)。所詮ぼくは教養人にはなれないと思い知りました(笑)。 昔の映画
明治、大正時代、日本でのレコード産業を支えたのは浪花節だったのにね。
「浪花節」と演歌は意外に新しいジャンルで、昭和の時代に絶頂を迎え、衰退しました。今の40代が知らないのも無理はありません。こうしてすべての時代の記憶は忘れ去られていくのです。
時代の記憶は忘れ去られていくゆえに、歴史捏造妄想の果てに、ありもしない20万人売春婦強制連行でゆすりたかりする民族もいましてね。まあそれは別問題。 昔の映画
それはさて、今年女子大を出たての女性と話していたら、彼女は寅さんの映画をTVででも見たことがないというので、かなりショックを受けました。(彼女が赤ん坊の頃に渥美清は亡くなっているわけです。)浪花節どころの話ではありません。深刻な文化の断絶が存在しているんです。共通の話題を求めるとしたら、いきおい、宮崎アニメあたりということになってしまうんでしょうかね。
寅さんは現役ブームの時こそ国民的映画ともいわれましたが、一億人の国民の内映画館で見たのは数百万~一千万でしょう。
その現役が終わって四半世紀たってみれば、家族にファンがいてついで見しない限り、イケメンならざるダサいおっさんの失恋コメディしかも人情ものなんて、若い女の子にはアウトオブ眼中でしょう。
現役ブームの時ですら寅さん見たことのない女の子は恐らく多数派でしょう。お邪魔ビンラディンさん、若い女性に期待しすぎ(笑)。
いまなら、そうですね、打倒安倍政権とかの、話題を振ってみれば?(笑) 昔の映画
レコードからラジオの時代になっても大人気で、1950年代が最盛期でしたが、1960年代中頃に衰微しましたが、それに代わって出てきたのが演歌だといえるでしょう。
浪花節と演歌を一緒にしないでください。
ウィキペディアによれば、
「演歌」は、「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌(プロテストソング)で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称の始まりといわれる。この頃流行ったのが「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。他にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。(以上引用終わり)
当時浪花節と比べるとマイナーかもしれませんが、まあ演歌も今と違えど、存在しておりました。
映画でも、学生帽、羽織袴の演歌師が、独特の音律で歌う明治もの映画がよくあります。 昔の映画
美空ひばりが歌う「リンゴ追分」と武満徹の「弦楽のためのレクイエム」といずみたく作曲のポップス歌謡をつなぐ同時代性と音楽としての質の高さを認められないのは、かなり不幸なことだと思いますね。
そういえば、ラピュタ阿佐ヶ谷の日活文芸映画特集では、8月半ばに舛田利雄の「我が命の唄 艶歌」が久々に上映されます。五木寛之原作の映画は、中心に音楽がからまないと、あまり面白くないと断言してしまいますが、こちらは「さらばモスクワ愚連隊」とならぶ、面白い方の映画です。
>普通、演歌と言えば、1960年代中頃の藤圭子らが歌ったものを演歌と言うんじゃないの。
明治時代の演説歌なんて誰も思わないでしょう。
もちろんそれは「一般論」としては、正しいでしょう。しかしその「一般論」に「当てはまらない人種」もまた存在するのです。それはぼくみたいな旧作日本映画ファンなのです(笑)。
旧作日本映画が明治を描くと「ほぼ必ず」学生帽羽織袴の青年が演説歌を歌う、これはほとんどデフォルトです。もしかしたらさすらいさんは旧作日本映画ファンじゃないのかな(笑)。だとしたらさすらいさんの「一般論」に同意します。 昔の映画
菅原文太はモデル上がりですからね。ダンスは得意でしょう。
>60年前は、浪花節とジャズと演歌とロカビリーが同時に大衆に享受されていたところに、当時の日本文化の混沌と多様性と可能性を同時に見ることができると思います。
カオスとダイバーシティー、いい時代でした。
今の時代はカオス抜きで(平穏に、平熱で)お台場シティーを目指す、ってそりゃ無理筋よっ、って。
思えば美空ひばりを山口組との絡みで排除したのは偽善でしたね。
「さらばモスクワ愚連隊」見逃しました(笑)。
「我が命の唄 艶歌」見たいもの。 昔の映画