橋下維新の会 vs 明治維新

 日本の歴代の、改革を目指した政治的ムーヴメント、つまり、明治維新、昭和維新、全共闘運動、小泉構造改革ブーム、民主党政権交代ブーム、そして橋下大阪維新の会ブームには、ある共通した動きがあるという。

 與那覇潤「中国化する日本/日中「文明の衝突」一千年史」という本が、なかなか刺激的な本であり、なおかつバカ本であるというお話その4
 與那覇潤は、本書で特に明治維新を取り上げています。昭和維新ほかは、単なる明治維新の亜流ですね。日本では、政治改革を目指すと、必ず維新の志士を気取る。橋下維新の会など、その典型ですな。
以下、同書の要約という形で紹介します。

 徳川末期のアナーキーな雰囲気の火付け役となった大塩平八郎は陽明学者、幕末に尊皇攘夷思想の旗振り役となった吉田松陰は、陽明学に心酔。
 がちがちの社会構造のなかで窒息しかけていた不平分子の憂さ晴らし的爆発から、明治維新は始まったのですが、その起爆剤となったのが、中国由来の儒教、特に陽明学。しかし、大方の人間は陽明学の研究者や心酔者でもない。「気分としての陽明学」が「時代のエートス(気分、気風)」と、なった結果だというのです。
 つまり「気分としての陽明学」とは、平たく言えば「動機オーライ主義」。「終わりよければすべてよし」の「結果オーライ」の反対で、「はじめよければあとはどうなってもよし」が「動機オーライ主義」。
 純粋にピュアな気持ちで考えて「今の世の中は間違っている! オレ様の考えが正しいのだ!」と、既存の概念、法、社会構造をすべて否定し、一切を考慮することなく突っ走り、動機がピュアなんだから、オレ様の思いは、必ず実現するはずだ、いや、実現しなければならない、と。
 結果を一切考慮することなく、突っ走り、結果は必ずついてくるはずだ、と根拠なく確信する。もし万が一、結果が出なくても、それはこのオレ様の魂の叫びに反応しない、社会の奴らの不純さ、鈍感さのせいであって、オレのせいではないのだ! と。
 つまり「気分としての陽明学」とは、平たく言えば「パンクロッカーの魂からの叫び」。 こういう人たちは、結果ではなく、動機重視で突き進むから、一切の妥協なしにどこまでも突き進む。また、「志半ばで倒れた同志」への心情的連帯感。坂本龍馬しかり、尾崎豊しかり。

 そういう、幕末の維新の志士的パンクロッカーたち、純心ピュアな動機オーライ主義、金のないやつぁ俺ンとこへ来い、俺もないけど心配するな、見ろよ、青いそら、白い雲、みたいな。
 といったような、坂本龍馬やら、そのミニチュア版の小泉純一郎、橋下徹らに、庶民は、喝采を送り、じゃあ、ぼくたち庶民はそれに対して、どう対応するかというと。
 そう、庶民は「ええじゃないか」を踊るのです。 それが<選ばれし志士たち>と、庶民たちの役割分担。
 映画好きらしい與那覇潤の、本書の説にもっともふさわしいマキノ雅弘を、付け焼刃の、お勉強でしか映画を見ない與那覇潤は、なぜか、まったく言及しないのですが、「江戸時代化」した高倉健や、バンツマや、藤純子や、鶴田浩二のために、「ええじゃないか」を踊る「取り巻きたち」というのが、庶民の役割なのです。

 そして、與那覇潤が、本書でネグっているのは、ここをネグっていては、お里が知れるだろうというのは、「結果オーライ主義」、つまり「どんな薄汚れた手を使っても、金を握り、一族として生き延びてやるぞ」という「中国化」の、対極にあるのが「動機オーライ主義」。
この「動機オーライ主義」の幕末の志士たちが、結果として成功し、明治維新という「結果オーライ」の「中国化された明治」を作り上げたという皮肉。
 動機がピュアであるからには、結果(金とか地位とか)なんて、考えに入っちゃいねーぜ、という人たちをこそ、限りなく愛惜する人たち。いっぽう、どんなに汚い手を使っても、金や地位をもぎ取るぜ、という「中国化された」人たち。ここの対立をネグっている点に、與那覇潤の、詰めの甘さがあるというのは、ひがめか。

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by mukashinoeiga | 2012-04-29 23:08 | うわごと | Trackback | Comments(0)

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