光市母子殺人事件~事件は、現場にしかない

 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 今日、光市母子殺人事件に、判決が下り、被告に死刑が、確定した。
 「事件が起こった時点で、勝者は誰もいない」という、本村洋さんの発言は、きわめて、重い。

 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 事後の、加害者の反省は、現場には、ない。日本の司法では、被告が、事件後、反省を示すと、情状酌量の対象になる。しかし、その、反省は、「現場」には、なかったもの。
 反省なら、猿にも出来る。事後の反省による情状酌量は、軽犯罪、中犯罪なら、いいだろう。しかし、相手は、すでに死んでいる、殺人事件なら、加害者のみ、事後の心情変化が酌量されるのは、おかしいだろう。
 たとえば、軽犯罪なら、加害者も、事後、心境が変化した。被害者も、事後、心境が変化した(「オレも悪かった」という日本的心情パターン)、というわけで、互いの心境変化を勘案して、<喧嘩両成敗>という、日本的発想は、まあ、ありうるだろう。大岡裁判の<三方一両損>ですな。
 しかし、殺人事件では、被害者の、心境変化は、ありえない。
 左翼お得意の平等原則から言えば、明らかに、加害者の事後反省による、加害者の罪の減却は、おかしいだろう。被害者と加害者を、イコールと考えるのは、心苦しいが、仮にイコールだとしても、死んだ被害者は<事後の心境変化>など、ありえない。なのに、なぜ、加害者のみ、<事後の心境変化>を、考慮されなければならないのか、左翼お得意の平等の原則に、反するのではないか。

 同様に、なぜか、計画的な犯罪に比べて、計画的でない、思いつき犯罪のほうが、罪が軽い。これも、<犯罪計画>なんて、加害者の頭の中にしか存在しない。はたして、今、襲ってくる加害者が、計画的に自分を襲っているのか、あるいは、無計画に思いつきのままの気まぐれで、自分を襲ってきているのか、被害者には、まったくわからないことだ。というか、襲われているという事実の前では、そんなこと、どうでもいいことじゃないか、被害者にとっては。
 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 <加害者の頭の中>にしか存在しえない<犯罪計画性>なぞ、現場に、あるのか。
 むしろ、単なる思いつき、気まぐれ、自分勝手な性欲などのせいで、殺されるほうが、罪が重いべきなのでは、ないか。いや、被害者にとって、その差異は、殺されたことに比べれば、どうでもいいことでは、ないのか。

 という論理で言えば、加害者が、母親の自殺、父親の虐待により、精神年齢は18歳以下だった、という<過去の事情><加害者の事情>は、現場に存在するとも、存在していないとも、ぼく的には、どっちにも決められないファクターだ。
 しかし、この場合でも、それは、はたして、<理論>なのか、<事実>なのかも、判別しがたいことだし。さらに、加害者が、その父親を殺したというなら、その情状酌量は、充分、土俵に乗りうるだろう。
 ところが、この事件の被害者の母子は、そういう加害者の、対父親への葛藤、母親への想いなど、まったく関知>していない。
 <被害者が、まったく知りえない、加害者の内的事情>など、現場には、<まったく存在しない>のでは、ないか。被害者と、加害者が平等だというのは、ホントに、心情的に不謹慎なのだが、仮に平等だとして、加害者のみが知りうるコンプレックスが、被害者のまったくあずかり知らぬものであるなら、<それ>は<現場>に、ないのでは、ないか。
 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 事件が、加害者と被害者のコラボレーションであると、ドラスティックに仮定すれば、<加害者の内的事情>など、被害者のまったく関知しない、一方的事情なのだから、それは、現場には、存在しないのだ、ということ。
 現場に存在しないことは、一切考慮から、外す、それこそ、シンプルでは、ないか。

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by mukashinoeiga | 2012-02-21 00:04 | うわごと | Trackback | Comments(0)

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